静かな夜だった
静かな夜だった。
雨が止み、風もなく、鳥も虫も不思議と声を潜めていた。
山荘の外には、耳が痛くなるほどの静寂が広がっていた。
まるで森全体が、何かを待っているかのようだった。
白石は、窓に映る自分の流れる涙を、ただただ見ていた。
──八年前のあの夜が、白石の頭をよぎった。
ファンドのオフィス。深夜、二人で残業していた。
「神崎さん、私……」
白石は、思い切って、声を絞り出した。
神崎は書類から顔を上げ、優しく微笑んだ。
「白石さん」
彼は近づいてきて、彼女の頭を、軽く撫でた。
「君は、俺の右腕だ。今はこの関係を大切にしたい」
白石は、その言葉を、「いつかは」と解釈した。
解釈してしまった。
──本当は、分かっていた。あれは右腕への言葉で、女としての自分への言葉ではないと。分かっていて、なお、そう解釈することを選んだ。
神崎が部屋を出た後、白石は彼が触れていた書類の束を、そっと頬に当てた。
書類には、まだ彼の体温が残っている気がした。
好き。好きだった。神崎が。ただの好きではない。気が狂うほど。狂ってしまうほど。
あれから、何度も告白した。全て、振られた。それでも、彼から頼まれたから、不正会計に適正意見を出した。喜んで。何回も。
抱いて欲しいと、何度も言った。彼は一度も、うんと言わなかった。一度も。
白石は一目見た瞬間に、彼に自分の心が全て、きれいに吸い込まれていくのが分かった。顔がタイプとか、そんなレベルではない。
──一言で敢えて言うなら、雄としての色気。一撃で、やられた。
──最近の男性アイドルの、なんて中性的な人が多いこと。あんなものは雄じゃないわ。化粧までして、簡単な曲を歌い、簡単なダンスを踊って。そんなものにキャーキャーいう女性が信じられない。
──男と言えば、逞しくないといけない。堂々とした振る舞いと、全てを見抜くような眼光。一人で道を切り拓いていく勇敢さ。そして女性に媚びるのではなく、追わせるような素敵な背中。
──神崎さんほどその全てを体現した男はいなかったの。詐欺師? そんなのはどうでもいい。単純な雄としての魅力が全て。そしてそれにどうしようもなく惹かれるのは女性としての本能。その本能に従って何が悪いの?
──近頃はお金や生活のためだったり、世間体を気にしたりして、大して好きでもない人と、妥協して結婚する人のなんて多いこと。そんなの幸せなの? それもこれも、みんなと同じように私はちゃんと幸せですよ、と言うために、表面的な幸せをただ飾り立てているだけじゃないの? だから毎日、自分は本当に幸せなのかって考えているんじゃないの? 何年も何十年も。
──それに比べて、私は本当に好きな人を心の全部で好きでいる。一点の曇りもない。その気持ちに気づかせてくれた神崎さんに感謝です。
──でも神崎さんは死んでしまった。もう、いない。悲しい。本当に悲しい。もう生きていく意味なんてないんじゃないかな。もうあのような燃える恋をすることはないよ。神崎さん以外なんて考えられない。無理。
──残った私にできること。それは神崎さんがこれからやろうとしていた二号ファンドを実現させること。そして投資家からより多くのお金を集める。三百億? いや四百億、もっと多く。そうすれば、神崎さんは、天国の神崎さんは笑ってくれるだろう。
──それなのに、黒木はありえない。正義? 頭がおかしい。狂っている。一号ファンドの全てを公にする? 神崎さんはそんなことは微塵も望んでいない。苦しんで死んだようでせいせいする。
──赤沢さんの役割ももう終わったかもしれない。あの手の契約は一度雛型ができれば後はコピーアンドペーストでどうにでもなる。それにファンドを続けていこうという意思がない。神崎さんが死んだ後で、自分が神崎さんの代わりであるかのように、場を仕切りだすし。内部犯だとしたら、案外、彼女が犯人かも。
──氷室さん、あの子は味方だと思っていた。でも、私を裏切るような発言をしたわ。ファンドも無理でしょうねって。もういいわ、死んでも。新しい投資のコンセプトくらい、私も見つけられる自信がある。
──あの若月というインフルエンサーは使える。SNSでこのファンドの良さをさらに拡散すれば、個人投資家を始めとした、もっと多くの層を騙せるはずだ。それが四百億のためには必要ね。
──そしてそれを桑原さんが記事で裏書きしていく。そうだ、そうしよう。もっと幅広い投資家層にアクセスして、お金を集めるためにはそれが必要だ。
──生き残り最優先リストは、私、若月、桑原の順だ。何かあったらそうなるように振る舞おう。
──食料は実はストックがある。カロリーメイトが七箱。これはまだ手付かずだ。いつも常に持っているけど、今回のイベントに合わせて多めに持ってきて良かった。残り一週間になるまで我慢。後で若月と桑原さんに少しあげてもいいかもしれない。
──よし、では投資家へのインビテーションレターの下書きをしよう。
机に向かい、ペンを取り出して、紙に書き始める。
──投資家の皆様へ。グリーンライフサミットは大成功。ここで得た新しい投資コンセプトは……決して叶わない恋? 最愛の人が殺されて、でもファンドは続ければ、あの人はまだ生きてい……る。神崎さん。
ペンを握る手が、少し震えている。部屋が妙に寒い。暖房は効いているはずなのに。白石は涙を拭いて、コップに手を伸ばした。水を、口に含む。
──しびれる。
一瞬、そう感じた。水のはずなのに、舌の先がしびれている。そして、そのしびれは舌の奥から急に熱に変わった。喉の奥で何かが爆ぜる感覚。
手帳に、ペンが落ちる。インクが滲んで、「神崎さん」の文字をゆっくりと飲み込んでいった。
胃の奥から、熱いものがせり上がる。
口を押さえる。指の隙間から、よだれがあふれる。
レターの上に、ぽたぽたと落ちていく。
──なぜ。誰が。
視界が狭まる。
神崎の顔が浮かぶ。
あの、自信に満ちた目。完璧に整えられた髪。魅力的な口元。
──……かんざき、さん。あえるのね。
床に倒れる。板の感触。なぜか冷たくはなかった。
やがて全てを悟ったかのような安らかな顔で、白石冴子は静かに眠りについた。




