信じてもらえないんですね
朝になった。
空は薄曇り。昨夜の雨の名残で、窓ガラスに水滴が残っている。
六時を過ぎると、廊下から足音が聞こえ始めた。赤沢、森川、若月、白石が順に階段を降りてきた。全員、一様に顔色が悪かった。目の下にクマ、唇は乾いている。
「一晩、どうもありがとう」赤沢が桑原と氷室に頭を下げた。「何もありませんでしたか?」
「何も」桑原が短く答え、眠そうに瞼を擦った。
「そうですか」赤沢は一瞬目を閉じ、また開いた。その瞼の動きに、安堵とも緊張ともつかないものが滲んでいた。
六時半になった。
しかし、黒木が降りてこない。
「黒木さん、遅いですね」森川が呟く。
「確認に参りましょう」赤沢が静かに立ち上がった。「桑原さん、ご一緒していただけますか」
「ああ」桑原がすぐに続く。
二人で二階へ上がり、黒木の部屋の前に立つ。ドアをノックした。
「黒木さん。黒木さん、朝ですよ」
返事がない。もう一度、今度は強くノックする。
「黒木さん!」
沈黙。
赤沢と桑原が目を合わせた。桑原が静かにドアノブを回す。
「おいおい、ドアが開いているぜ」桑原がそう言ってドアを開ける。
その瞬間──強い異臭が鼻を突いた。
「──っ」
桑原が思わず口を押さえた。赤沢は一歩踏み込み、室内を見渡した。
黒木がベッドの傍らの床に倒れていた。唇と指先が、紫色に変じている。口の周囲には白い泡のような汚れが乾き、よだれと吐瀉物が床に広がっていた。毛布は引き剥がされたように乱れている。
「毒……」赤沢が低く呟いた。「毒です」
桑原は一瞬固まった後、廊下に向かって声を上げる。
「みんな来てくれ! 黒木さんが──!」
全員が部屋の前に集まった。
誰も中に入ろうとしなかった。入り口から覗き込み、黒木の姿を確認し、そして──黙った。
桑原と森川で黒木をベッドの上に移動させた。
「桑原さん、森川さん、ありがとうございます。一旦、リビングに戻りましょう」赤沢が言った。
全員がリビングへ向かう。足音だけが、朝の静けさの中に重く沈んでいた。
* * *
リビングに六人全員が集まった。
ソファに沈むように座り、テーブルを見つめ、あるいは窓の外の曇り空を眺めた。
一晩中燃えていた暖炉の薪は既に燃え尽き、灰だけが残っている。
部屋の空気が、じんわりと冷たかった。
「……ここに来るまでは、神崎さんも黒木さんも元気だったのに、信じられません」白石が俯いたままで呟く。
「本当にそうですわね。昔から一緒にお仕事をしていた二人がこうなるなんて……」赤沢もショックを受けた表情で言う。
「しかし、どうやって……。黒木さんは鍵を開けていたのでしょうか?」氷室がずっと考えていたというような様子で尋ねる。
「昨夜十時に私が戸締りを確認したときは鍵を掛けていたはずです。そのときは黒木さんともドア越しに会話いたしました」森川が答える。
「そうなりますと、昨夜の十時から朝六時が犯行時刻ですわね」赤沢が言う。
「えーと、その間に誰かが黒木さんの部屋の鍵を開けて毒を飲ませた……?」若月が言う。
「森川さん、この部屋の鍵の複製はございますか?」赤沢が尋ねる。
「いえ、ありません。マスターキーだけですね」
「マスターキーとは?」
「これです」
森川はマスターキーを取り出して見せる。普通の鍵よりも取っ手が一回り大きく、いかにもマスターキーというものだ。
「そんなマスターキーがあったんですか?」白石が驚いて言う。
「はい、もちろんでございます。マスターキーはどこのホテルでも用意しております。誰かが自分の部屋のキーをなくしたときに開けられるようにですとか。安全管理上も予備の鍵を備えておくことは一般的でございます。ただマスターキーはこの一本だけです。皆さんの持っているキーかマスターキー、それ以外では決して扉は開きません」森川はそうきっぱり言った。
「森川さん、ってことは、あんた以外、黒木さんの部屋に入れねえってことになるぜ。外部犯がいても入れねえ」桑原が言う。
「そうですわ、森川さん。黒木さんの部屋の鍵が閉まっていて、誰かが開けて入ったとなれば──マスターキーを持っていた森川さんだけになりますわ」赤沢も言う。
「いえ、それはございません。私は戸締りを確認してからずっと部屋におりました。そしてマスターキーも部屋にあったままでございます」森川は主張する。
「だから、それだとあんたしか犯人がいないということだぞ。マスターキーを持ってたのはあんただけなんだからな」桑原が真剣に言う。
「しかし、私は……」森川が目を見開いて周囲に訴える。
「待ってください。私は森川さんが嘘を言っているとは思えません」氷室が言う。
「どういうことですの?」赤沢が聞く。
「確かにマスターキーを持っているのは森川さんだけです。でも黒木さんの部屋に入ったとして、毒を飲ませることが可能でしょうか? いきなり深夜に自分の部屋の鍵が開き、親しくない人が入ってきた。そこでコーヒーを飲むとは思えません」
「……それは確かに考え辛ぇな」桑原が言う。赤沢も考え始める。
「それよりも黒木さんと親しい誰かが、黒木さんに相談事があると言って鍵を開けさせて部屋に入った。そして自然と会話をする中で、毒入りのコーヒーを飲ませた。こういうストーリーも成り立つと思います」氷室は淡々と言う。
「そうです」森川が声を大きくして言う。「私は、神崎さんならともかく、黒木さんとお会いしたのは今回が初めてでございます。そもそもお部屋にも入れてくださらないでしょう」
赤沢がその主張を否定するかのように声をワントーン上げて言う。「確かに氷室さんの言うことは一理ありますね。ですが、だからと言って、森川さんがシロというわけではありません。ただ誰でも黒木さんの部屋に入れる可能性はあったというだけです。それに部屋に入った後で、こっそり飲みかけのコーヒーに毒を入れた可能性もあります。そうであれば、無理やりではなく自然とコーヒーを飲んでしまいますわ」
「それはそうですね」氷室も同意する。
場が静まり返った。
六人の間で疑心の視線が交錯する。
小鳥のさえずりが聞こえた。久しぶりに雨が止んだことを喜んでいるかのよう。
森川は両手を組んだまま、床を見ていた。弁明の言葉を探しているのか、ただ不満が溜まっているのか、その横顔からは読めなかった。
桑原は壁にもたれたまま目を細めていた。いったい誰が……。やはりこの中に犯人はいるのか? そうした疑念を持っている様子だった。
氷室は静かに、窓の外を眺めていた。何かを懸命に巡らせているのか、それとも考えを終えて一旦落ち着いているのか、どちらとも言えない表情をしていた。
若月は膝を抱えてソファの隅に縮こまっていた。会話についていくだけで精一杯だった様子。また人が死んだという事実が、頭の中でまだぐるぐると回っているようだった。
白石は手帳を開いており、ペンを動かしていた。マスターキー、森川が保有。ただ、顔に血色はなく、その書き込む様子はまるで機械のように淡々としていた。
赤沢はずっと何かを考えている様子だった。片手を頬に当てて、目を見開いている。しばらくして、静かに立ち上がって言った。
「皆さんに、提案があります」
全員の視線が集まる。
赤沢は一呼吸置いてから、続けた。
「森川さんと若月さんには、申し訳ないのですが──今日から、別室での隔離をお願いしたいと思います」
一瞬の沈黙。
「隔離?」森川が顔を上げる。その目に、戸惑いと怒りが混じっている。「なぜ私たちが──」
「そうですよ、なんで私たちなんですかー?」若月も声を荒らげた。「私たちが犯人だと言いたいのですか!?」
「そうは言っておりませんわ」赤沢は冷静を保ったまま言った。「説明いたしますわ。まず事実を整理させてください」
「私も赤沢さんに賛成です」氷室が言う。「お二人は隔離した方がいいと考えます。まずは赤沢さんのお考えをお聞かせいただけますか?」
森川と若月が睨むように氷室を見る。氷室は平然としている。
赤沢が全員を見回してから、話し始めた。
「第一の殺人──神崎さんが亡くなった夜。一階のリビングにいたのは、白石さん、桑原さん、私の三人です。それ以外の方は、二階の自室にいた。そして神崎さんが殺されたのは二階の奥の喫煙所です」
「第二の殺人──黒木さんが亡くなった昨夜。リビングにいたのは、桑原さんと氷室さんの二人。二人は一睡もせずにリビングから出ることなく、完全に徹夜をしていた」
赤沢は、ゆっくりと言った。
「両方の殺人において、二回とも自室にいた──つまり、アリバイがないのは、森川さんと若月さんの二人だけです」
「私も同じ見解です」氷室が言う。
「そんな──」若月の顔が青ざめた。「外部犯の可能性だってあるじゃないですか。まだ決まったわけでは──」
「それに」森川も続ける。「昨夜話した通り、リビングにいらしたからといって、完璧なアリバイにはなりません。寝落ちした隙を突けば、動けたはずでございます」
「おっしゃる通りですわ」赤沢は認める。「完璧なアリバイではない──それは事実です」
桑原が低い声で割り込んだ。「だが、昨夜は俺と氷室は夜通し起きてたぜ。一睡もせずに二人でいた。俺たちが示し合わせて殺したとでも言うのかよ」
「それに外部犯の可能性についてですが」氷室が静かに続けた。「外を見てください」
全員が窓に目をやった。雨は止んでいたが、草木はまだ濡れそぼっている。昨夜の雨の湿気が廊下にも残っている。
「昨夜、外部から侵入したなら、廊下が濡れていたり、泥が残っていたりするはずです。確認しましたが──何もなかった。内部犯の可能性が、ますます濃くなっています」
「それでも──」若月が言いかける。
「若月さん」氷室が穏やかに、しかし真剣な目で言った。「私たちは昨夜、一睡もしていない。そして二人でいた。完璧ではないと言われれば、そうかもしれない。でも少なくとも二人でいたんです。一人でいた人と比べて自由に動くことはできない」
氷室は続ける。
「また最初の殺人ですが、神崎さんが喫煙所にいたのは、偶然です。誰かが寝落ちしたそのタイミングに、ちょうど神崎さんが煙草を吸いたくなって喫煙所に向かった──そんな偶然が重なる確率は、どれほどのものでしょう。それに殺している間に、寝落ちから目を覚ますかもしれない。一方で、自室に一人でいた方は、いつでも自由に動けた」
全員が黙る。
赤沢が口を開く。
「氷室さんの言う通りです。二つの殺人、どちらも自由に動けた。それが森川さんと若月さん、お二人だけだということは──否定できない事実です」
場が静まり、再び小鳥のさえずりが山荘に響く。
「でも、動機がありません」若月が声を絞り出した。「私も森川さんも、グリーンライフの皆さんと会ってまだ日も浅いですし、皆殺しにしたいなんて、そんな気持ちになるわけないじゃないですか」
「それはそうかもしれませんわね」赤沢が静かに言った。「でも──」赤沢は一瞬躊躇してから、続けた。「このファンド、つまり我々が持っているお金は百億円ですわ。お金目当てという動機は、十分に考えられます」
「ひゃ──百億円?」森川が思わず声を上げた。「そんな額とは、知りませんでした」
「……百億って、あり得るの?」若月も目を見開く。
「ほんとに知らなかったのか?」桑原が低い声で言う。
「知らなかったです。誓って」若月が言い切った。
「本当に知らなかったかもしれません」氷室が穏やかに言った。「でも──知らなかったとしても、それで犯人ではないとは言い切れません」
全員が氷室を見た。
「若月さんはインフルエンサーという立場上、非常に広い人脈をお持ちです。インターネットの匿名性を通じた、いわば闇社会との接点も、疑われる余地があります。そういった誰かに、雇われた可能性を完全には否定できない」
「何を──」若月の顔が赤くなった。「私が闇社会と繋がっているなんて、そんな──」
「森川さんも同様です」氷室は感情を交えず続けた。「この山荘を誰よりもよく知っている。橋の耐久性、食料庫の構造、管理棟のセキュリティ。事前に細工をするなら、最もやりやすい立場にいる」
「それは──」森川が目を見開く。「管理人として当然の知識でございます。犯罪者扱いされる筋合いは──」
「森川さん」赤沢が静かに遮った。声に怒りはなかった。ただ、揺るぎなかった。「私が言いたいのは、あなた方が犯人だということではありません」
「犯人の可能性を、完全には払拭できない状況がある。それが現実です。だからこそ──隔離に応じていただくことで、むしろ無実を証明することができる。私は、そのためにお願いしているんです」
氷室が頷いた。桑原も、白石も。
若月は唇を震わせた。
「……信じてもらえないんですね」
誰も答えなかった。
森川は深く息を吐き、頭を抱えた。
「分かりました。従います。ただ──私は何もしておりません。それだけは、言わせてください」
若月も、涙を浮かべながら、強い目で四人を訴えるように見つめ、そして頷いた。
小鳥のさえずりが山荘に心地よく響いた。
── 幕間 三 ──
本当に美しい山荘。
雨上がりの朝の景色、こんなにも綺麗だ。
小鳥が奏でる音色も、みんなの心を癒してくれるだろう。
いや、そんなことないか。癒しなんかにならないか。
これからも死の恐怖に怯え、そして鮮やかに死にゆくがいい。




