今夜は――誰も侵入してこなかった
第七章 正義
雨が、屋根を激しく叩いていた。風が、窓枠を揺らし、山荘全体が低く唸っているようだった。
黒木はにっこりしながら、部屋の内側から入り口の扉を二回叩いた。そして机に戻り、考えを再開した。
正義。それこそが、彼の生き甲斐だった。
彼は、正義という言葉を愛した。幼少期の憧れ。ブラウン管の中のヒーロー。四十五歳となった今もなお、胸の奥にその光が灯っている。消えることのない、熱。
正義こそ、全て。
不正義は、断じて許されぬ。罰すべきもの。裁くべきもの。──自らの手で。
そうして罰するときに、ある種の快感を覚えていた。その欲求は尽きることを知らず、さらなる正義を求めている。未だ満足することなく。
「医学部に行けば間違いない」。親から耳にタコができるまでそう言われて、三浪して医学部に行った。結果、つまらなかった。そこには慈愛はあっても正義はない。親の期待に応えてはみたものの、がっかりしただけだった。
その点、銀行家は自分に向いていた。ビジネスや個人にとって血液ともいえるお金。それを供給して生かすも、止めて殺すも、自分次第。自分の正義で、審判を下せる。彼は銀行業をそう曲解していた。
無論、何が正義かの基準は、自分の主観である。
新聞やワイドショー、ブルームバーグやCNNを見ては、この企業の対応は不十分。この犯罪者には情状酌量の余地がある。この密会は不誠実。この戦争には大義がある……これは正義である、これは正義でない。そうやって一つずつ評決を下しては、メモに書き留める。何冊も、何十冊も。
そうして自分の中での正義の基準を洗練させ続けている。まるで、いつの日か、マグナ・カルタを新しく起案するかのように。たった一個人の四十五年間の偏った経験と見識を絶対基準として、世の中の正義を定義していく。その浅はかさに、数年に一度、ふと気づくことはあっても、心の中に封印する。そうして今日も何が正義かを考えて、生き続けている。
そんな彼の正義論に照らせば、神崎は死んで当然の人間だった。
──詐欺ファンドの首謀者。悪の権化である。確かに俺は奴の不正行為に手を貸した。しかしそれは自分の生活を守り、そして家族を養う。そういう正義があったからやらざるを得なかったのだ。だが、神崎にその正義はない。金儲け、そして人を欺く賢さに自信があり、それを証明したかっただけ。今回のグリーンライフファンドも、協力しなければサンライズファンドのことをばらす、と仄めかしてきやがった。神崎は許されない。いつの日か正さないといけない。
そういう強い正義感をずっと抱いていた。
──そして、『皆殺しにしてやる』と書いた今回の犯人。こいつも不正義である。理由があるならともかく、無闇矢鱈に人を殺していいわけがない。
──単なる快楽の殺人だ。正義では決してない。こんな密室の山荘で一人ひとり殺して犯人は喜ぶのかもしれないが、正義である自分はそんなことは許さない。絶対に犯人を見つけ出し、罰してやる。それこそがまさに正義のヒーローだ。
黒木はニヤっと笑った。
──ある意味、犯人に感謝だな。小さい頃から憧れていた正義のヒーロー。それをまさに体現できる。こんな分かりやすい形があるか? 絶好のチャンスだ。
──もし俺が犯人を見つけて皆の前に晒せば、誰もが俺を褒め称えるであろう。感謝するであろう。あなたのおかげで助かった。この恐怖から私たちを救ってくださった。皆、口々にそう言うであろう。本当ならその役目は神崎であったのかもしれないが。あんなに必死になって犯人と戦おうとしていたからな。
「ふふふふふ」黒木は小さくだが声を出して笑った。
──神崎がいなくなった今、俺があいつの代わりに犯人を見つけよう。そしてあいつの代わりにヒーローになろう。もしかすると、奴は犯人の目星がついていたのかもしれないな。まあ、こんなとんでもないことができるのは、男以外いない。女では無理だろう。そうすると自然と容疑者は絞られる。
──しかし犯人を見つけた後、次の問題は食料だ。あと二週間以上ここに閉じ込められたままかもしれない。食料は全然足りない。そうするとやはり神崎だけではなく、口減らしで、もっと人が死んだ方が都合が良いのではないか。しかし俺を褒め称える人は減ってしまうか……
──いや、背に腹は代えられない。自分が生き残るためには、あと二人か三人死んでくれたほうが良さそうだ。既に腹が減って死にそうだ。この状況がずっと続くのは耐えられない。
──それがいい。犯人があと二人か三人殺してから、俺が見つけ出して、皆の前に突き出すとしよう。
──俺の身の安全? そんなのは大丈夫だ。なぜなら俺は正義のヒーローだからだ。正義のヒーローは最後まで死なない。これは鉄則だ。
トントン。誰かがドアを叩いた。黒木は覗き穴で相手を確かめる。そして、微笑む。
──さっき、いきなり扉の下から手紙を滑り込ませてきたかと思えば
……『話したいことがあります。部屋に入って良いならドアを二回叩いてください。十分後に準備してから来ます』……
と書いてあった。
──迷わず二回叩いたさ。
──俺はこいつに興味があるからな。
──まあ、間違いなく、俺と一晩、一緒に過ごしたいんだろうな。こんな状況じゃ、不安が募る。怖くて抱きしめて欲しくなったのだろう。ほら、もう泣いているじゃないか。
──大丈夫。
──正義の味方である俺のもとに逃げ込んでおいで。俺がちゃんと丁寧に扱ってあげよう。そちらの経験も、まあまあある。
黒木はにんまりとしながら、部屋に招き入れた。目を赤く腫らした相手に、椅子を勧めた。
そして、その十分後──
舌の先が、しびれた。
しびれは唇から喉へと広がり、声が出ない。
コーヒーの苦みの奥に、えぐみが滲む。
口の中によだれが溢れ、喉が焼けるように熱くなる。
心臓が暴れ、立っていられない。
黒木は喉を掻きむしり、床に膝をついた。
正義のヒーローは最後まで死なない──そう信じ続けていた黒木淳一が最後に見たのは、相手が一歩下がって冷ややかに自分を見下ろす姿だった。
* * *
桑原と氷室は、五人が二階に上がってから、リビングを一歩も出ずに、ずっと暖炉の前で向かい合って座っていた。
そして深夜二時を回った頃から、瞼が重くなってきた。
「しかしまあ、こんなことになるなんてな……」桑原が欠伸をしながら呟く。
氷室は眠そうな様子で静かに頷く。「ええ。誰も予想していなかったわ」
「眠いな……」桑原が目を擦る。「まずいぜ」
「私も」氷室が正直に言った。「このままでは……」
少し間があった。
「将棋、やるか」桑原が言った。
氷室が目を細める。「将棋?」
「眠気覚ましだ。昼間の盤、そこにあるぜ」桑原が棚を顎で示す。「負けたら、あるいは寝落ちしたら──平手打ち一発。それをかけて勝負だ」
氷室が少し考え、そして静かに笑った。「いいでしょう。ただし、飛車角落ちでお願いします」
桑原が将棋盤を引き寄せ、駒を並べ始めた。コトン、コトンと駒の音が響く。
「先手は?」
「駒落ちは下手が先手ですね。では、お先に」氷室が答える。
一局目は桑原の勝ちだった。パチンと氷室の頬を叩いた。
「次ですね」氷室がすぐに駒を並べ直す。今度は氷室が勝った。
パチンッ。桑原の倍の力で叩いた。
「おっと、こりゃ油断できねえな」桑原は笑った。
三局目の途中、桑原が口を開いた。「氷室さん、コンサルタントになったのはいつ頃だ?」
「二十六のときです」氷室が駒を動かしながら答える。「外資系に入って、気づいたらこの仕事を続けてもう六年ですね。三十歳になる前には結婚しているかとも思っていたのですが」氷室は苦笑いをする。
桑原は表情を変えずに続ける。「コンサルってインテリっぽくて、かっこよく見えるかもしれねえけど、結局は他人のふんどしだよな。相手にアドバイスするだけで、自分でリスクは取らねえ。そんなんに、なろうと思ったのはなんでだ?」
少しの間があった。ただ桑原のこの嫌味な言い方はいつも通りで、悪気はないことを氷室は知っていた。
「自分から積極的に動くのはどうも苦手で……。それよりも、相手を後押しする方がいいと考えたから──かな。お陰様で今は少しずつですが手応えを感じています」
桑原は何も言わなかった。ただ、次の手を考えるふりをして、その言葉を受け取った。
「桑原さんは、なぜジャーナリストに?」今度は氷室が聞く。
「父が新聞社で働いてたんだ。猛烈にな」桑原が苦笑する。「それで感化された。──弟も、同じジャーナリストときたもんだ」
「ご兄弟も」
「ああ、あいつは優秀でな。俺より、よっぽど鋭い。調査報道が専門で、どこまでも諦めねえ。嫌になるくらいだぜ」桑原が低く笑った。「いつか抜かれる気がして──それが、怖いような待ち遠しいような……。しかし、俺ももう五十五歳、おまけにこの体調だ。逃げ切りかもな」
暖炉の薪がぱちりと鳴った。
四局、五局と続いた。桑原の二勝三敗。話題は仕事から、それぞれの故郷へ、好きな食べ物へ、子供の頃の記憶へと、とりとめなく流れていった。こんな場所で、こんな夜に、こんな話をするとは──二人とも、そう思っていた。
午前五時半頃、氷室が六局目の途中でふと顔を上げた。「夜明けまで、あと少しですね」
窓の外を見ると、空の端がほんのわずかに白み始めていた。
「持ちこたえたな」桑原が低く言う。
「ええ」氷室が静かに答えた。「今夜は──誰も侵入してこなかった」
その言葉に、二人は少しだけ目を合わせ、そして盤面に視線を戻した。




