第9話 氷狼の求婚
北境伯の求婚状は、軍の共同作戦書と同じ書式だった。
目的。
前提条件。
双方の戦力。
補給経路。
撤退条件。
最後の一行にだけ、『婚姻の意思』とある。
「間違った書類をお持ちでは?」
わたしは三頁目まで読み、ルーカスへ返そうとした。
「間違っていない」
「でしたら、求婚の意味を間違えていらっしゃいます」
「一般的な形式は調べた。花、宝石、愛を誓う言葉」
「一つもありませんね」
「花は枯れる。宝石は逃走時に重い。まだ守れるか分からない約束を、先に誓うべきではない」
真顔だった。
放課後の学院小会議室。外はもう夜で、窓には雨が当たり、壁の鏡ではリゼが腹を抱えて笑っている。
『最高。結婚しなよ』
「他人事だと思って」
「夜のあなたは、何と?」
「軍馬の購入書より色気がないと」
リゼが鏡を叩いた。
『そこまで言ってない!』
ルーカスの口元がわずかに動く。
「笑いました?」
「いや」
「今のは嘘です」
「夜のあなたにも、そう伝えてくれ」
無味の男は、以前より少しだけ分かりやすくなった気がする。
母の棺を見た日から、三日。
鏡の奥の第三の声は、あれ以来聞こえない。リゼも母の記憶について話そうとせず、わたしは自分が何者か分からないまま学院へ戻った。
そんなときに届いたのが、この求婚状だった。
「なぜ、今なのです」
「あなたが十七番の名を見つけたからだ」
指が止まる。
「どこで、それを」
「学院の礼拝堂に北境出身の神官がいる。彼は帳簿を見ていない。だが昨夜、地下書庫の鍵が交換されたと知らせてきた」
「わたしたちが入ったと?」
「推測だ」
「推測だけで求婚を?」
「あなたは危険に近づくほど、誰にも頼らなくなる」
言い返せなかった。
ルーカスは書類をこちらへ向け、二項目目を指す。
『目的。エリザベス・フォン・アルバート及び鏡にいるリゼの生命、人格、選択権を、王家と教会による一方的な処分から防衛する』
二人の名が、同じ大きさで書かれていた。
「あなたは、リゼを人格と認めるのですか」
「本人がそう名乗り、考え、選ぶなら、私が否定する理由はない」
「危険な人かもしれません」
「それは昼のあなたも同じだ」
「失礼です」
「褒めたつもりだ」
鏡の中で、リゼが満足そうに頷く。
次の頁には、同盟の条件が並んでいた。
北境伯家は避難経路、護衛、教会から独立した裁判の場を提供する。
わたしたちは、鏡と器に関する情報を共有する。
どちらか一方の人格だけを差し出せと要求された場合、契約全体を破棄し、共同で敵対する。
学院でわたしの名誉が失われた場合も、北境は交遊録だけを根拠に保護を拒まない。
教会が治療や儀式を名目に身柄を求めた場合、北境伯本人の立会いがなければ応じない。
わたしとリゼの意見が分かれた場合は、身体を使っていない側の同意も記録に残るまで、決定を保留する。
助けるという言葉が、曖昧な優しさではなく手順になっている。
逃げ道だけでなく、わたしたちが仲違いしたときの止まり方まで考えられていた。
そして、最後の条件。
『昼と夜、どちらか一方を選ばせない』
「片方だけを選ぶのは、半分の人間と契約するのと同じです」
ルーカスは鏡に映るリゼと、わたしを順に見た。
「私は二人のあなたと組む」
リゼの笑みが消えた。
『こいつ、アタシが見えてる?』
「見えてはいないはずです」
「何か問題が?」
「リゼが、あなたは気味が悪いと」
鏡の中から抗議の文字があふれた。
ルーカスは気を悪くせず、頷く。
「正しい評価だ」
『条件がある。自分で言う』
鏡面へ大きな文字が浮かんだ。
「ここで?」
『もう夜だ。毎回、あんたに通訳させる契約なんか嫌だ』
ルーカスは意味を問わず、椅子を一つ鏡の前へ空けた。
わたしは左手を銀の面へ置く。
「最初の鐘まで。発言のための交代に同意します」
世界が裏返った。
わたしは鏡の内側へ入り、リゼが外で息を吸う。立ち上がる拍子に肘がインク壺へ当たり、ルーカスが寸前で受け止めた。
「危な――」
「エリザベス嬢なら、ぶつける前に袖を押さえる」
灰色の目が、同じ顔を別人として見た。
「リゼ」
即座に名を呼ばれ、リゼの肩から力が抜ける。
「アタシを夜の顔と呼ばない。悪いほうとも、裏とも」
「承知した。リゼと呼ぶ」
「エリザベスが、自分だけ差し出すって言ったら止める」
「命令でも?」
「殴ってでも」
「殴る方法以外を先に試す」
「そこは約束しろよ」
リゼは机を回り込み、求婚状の末尾を指で叩いた。
「最後。アタシがエリザベスに必要なくなっても、契約から消さない」
ふざけた調子が消えている。
必要とされるのではなく、選ばれたい。
ルーカスは味のない男だった。だからこそリゼは、返事を聞く前に信じかけた自分へ腹を立てるように、唇を噛んだ。
ルーカスは彼女の目を逸らさない。
「契約の目的は、有用な能力を守ることではない。二人の生存と選択を守ることだ。役に立つかどうかで名を消さない」
「採用」
リゼは余白へ乱暴に名を書いた。それから、鏡の中のわたしを見て頷く。
もう一度世界が裏返り、わたしは自分の身体へ戻った。指先には、乾いていないリゼの署名が触れていた。
「どうして、二人を分けないのです」
「分けられて苦しんでいる者に、どちらが本物かを尋ねるのは、刃物を渡すのと同じだからだ」
あまりに迷いなく言う。
「以前にも、同じことが?」
灰色の目が伏せられた。
「動けなかった夜がある」
庭でリゼが聞いた言葉。
「十年前、私は閉じた扉の前にいた。中から助けを求める音がした。だが王命も、犯罪の証拠もなかった」
「扉を開けなかったのですか」
「開けなかった」
声は平静だった。
机の下で握られた手だけが、白くなっている。
「朝には、誰もいなかった」
「その方は――」
「今は話せない」
苦味がしたような気がした。
リゼにも届いたのか、鏡の中で彼女は目を細める。
『嘘じゃない。でも、全部でもない』
「だから、今回は証拠を待たないのですね」
「同じ失敗をしないために」
「わたしを、その方の代わりにしていませんか」
「最初は、そうだったかもしれない」
正直な答えに胸が痛む。
けれどルーカスは、そこで言葉を止めなかった。
「今は違う」
「何が?」
「会議中に窓を見る回数が増えた」
「窓?」
「あなた方が無事か確かめたくなる。北境の報告書を読んでいても、鏡が曇れば王都へ戻る理由を考える。極めて非効率だ」
リゼが鏡へ額をぶつけた。
『それ、告白のつもり?』
「北境伯」
「何だ」
「それは、好意というものでは」
「その可能性を、文書の目的欄へ書くべきか迷った」
「書かなくて結構です」
顔が熱い。
鏡を見ると、リゼまで頬を押さえていた。
『熱い。あんた、赤くなりすぎ』
「あなたも赤いでしょう」
『これは、あんたの身体のせい』
ルーカスは意味が分からないまま、わたしたちのやり取りが終わるのを待っていた。
「一つ、確認させてください」
わたしは求婚状の表紙へ触れた。
「わたしは第一王子の婚約者です。この文書が王家に知られれば、あなたは反逆を疑われます」
「婚姻条項は、王家があなたの身体または人格を不当に拘束した場合に限り発効する。現行法では、被保護者を救うための予備契約だ」
「王子殿下が、法律どおりに読んでくださると?」
「読まないだろう」
「では、なおさら」
「危険なのは、文書がなくても同じだ。茶会の席次表を渡した時点で、私は王子の盤から駒を一つ動かした」
「後悔していないのですか」
「後悔は、動かなかった夜の一度で足りる」
その答えにも、飾りはなかった。
「婚姻は、王家との婚約が正当に解消された場合にだけ選択肢とする」
彼は書類の末尾を示す。
「今すぐ王子殿下から奪うという意味ではない。相互防衛の契約が先だ。婚姻を望まないなら、その条項は消して構わない」
「消せば、北境は助けない?」
「助ける」
「見返りがなくても?」
「あなたが生きて、自分で返すものを選べるなら」
助けを受ければ、弱くなると思っていた。
借りを作れば、いつか命令される。
守られれば、相手の望む娘でいなければならない。
カタリーナから学んだ愛は、いつも条件と同じ顔をしていた。
けれど、この書類には撤退条件まである。
わたしが望めば、終わらせられる。
「婚姻の条項は、保留にします」
「分かった」
「相互防衛には同意します」
署名欄へ手を伸ばす。
指が震えた。
ルーカスは握手を求めなかった。
代わりに、わたしの右手を両手で包む。
逃げる余地を残した、弱い力だった。
温かい。
壁の鏡で、リゼが自分の手を見下ろした。
『こっちまで、温かい』
わたしが感じた熱が、鏡を越えて彼女へ伝わっている。
代償なのか、つながりが深くなったのか。
今は、怖いと思わなかった。
わたしは署名する。
先にリゼが書いた名の横で、鏡面の同じ文字が白く光った。
ルーカスが最後に署名し、三人の契約が成立した。
その直後、会議室の扉が強く叩かれた。
「王宮より、至急の使者でございます」
入ってきた男は、王家の緑の封書を掲げた。
「第一王子フリードリヒ殿下のご命令です。アルバート公爵令嬢との婚約誓約式を、来春から今月末へ前倒しいたします」
ルーカスの手が離れる。
鏡の中で、リゼが立ち上がった。
「また、殿下より今夜の拝謁を賜りました」
使者は、わたしではなく鏡を見た。
「第一王子殿下は、今夜あなたのもう一つの顔に会いたいと」




