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第10話 婚約者の目


 温室の鏡には、わたしが三人映っていた。


 一人だけ、笑う順番が違った。


 王宮の夜の温室。


 冬薔薇の間に、背丈ほどある鏡が三枚置かれている。正面のわたしは口元を上げ、右のわたしも同時に笑う。


 左の鏡像だけが、わたしより先に笑っていた。


 リゼだ。


 けれど、いつもの姿とは違う。


 髪はわたしと同じように結い上げ、背筋も伸びている。公爵令嬢を演じながら、紫の瞳だけが楽しそうに細められていた。


『罠だね』


 鏡面に文字は出ない。


 声だけが、頭の奥へ届く。


『わざと鏡を三枚置いてる』


「お待たせしたね」


 硝子扉が開いた。


 第一王子フリードリヒは、護衛を外に残し、一人で入ってきた。


 金髪。緑の瞳。人の警戒を解くために計算された、穏やかな笑顔。


「夜の温室へお招きいただき、光栄に存じます」


「どちらが?」


「何のお話でしょう」


「私が招いたのは、君のもう一つの顔だ」


 最初の一言から、隠すつもりがない。


「顔は一つしかございません」


「鏡には三つある」


 王子が左の鏡へ目を向ける。


 リゼはわたしと同じ微笑みへ戻っていた。


「茶会の報告を読んだよ。紅茶の温度、指先の粉、席次表。見事だった」


「お褒めにあずかり、恐縮です」


「だが、最後に鏡を使った。君らしくない」


「殿下は、わたしらしさをご存じなのですか」


「知ろうとしている」


 彼は卓上の盤から、白と黒の駒を一つずつ取った。


「質問をしよう。答えは、はいか、いいえだけ」


「お断りすることは?」


「できる。断り方も答えになるが」


『嫌な男』


 リゼの声に、同意した。


「セシリアが毒を用意した。そう思う?」


「お答えできません」


「ティアが自分の意思で君を陥れた?」


「お答えできません」


「鏡の女がいなければ、君は負けていた?」


 右の鏡像は動かない。


 左の鏡で、リゼの眉が上がった。


「お答えできません」


「三度、同じ言葉。けれど三度目だけ、左の君が怒った」


 見られている。


 わたしではなく、反応の差を。


「光の加減でしょう」


「そうかもしれない」


 王子は黒い駒を鏡の前へ置いた。


「では、別の話を。義妹マリアンヌは、階段から落ちる直前、背中へ手が触れたと証言した」


 息が止まった。


 左の鏡でも、リゼが目を見開く。


 二人とも記憶がない夜。


「まだ起きていない出来事ですね」


「君にとっては?」


 失敗した。


 王子の笑みが深くなる。


「未来を否定せず、時期を指摘した。君はやはり、私の知らないマリアンヌを知っている」


『こいつ、回帰も疑ってる』


「仮定のお話かと存じました」


「今の言い直しは、昼の君だ」


 フリードリヒは白い駒を正面の鏡へ、黒い駒を左の鏡へ向けた。


「白は、答える前に相手の望む言葉を探す。黒は、望まれた瞬間に逆を選ぶ」


「人を二色に分けるのは、殿下の悪い癖です」


 言ってから気づく。


 声が低い。


 リゼの口調が混じった。


「今のは、夜の君だ」


 王子が嬉しそうに笑う。


「リゼ、と呼ばれているのだろう?」


 左手の傷が熱を持つ。


「誰から、その名を」


「質問への答えは、はいか、いいえだけだよ」


「では、お答えしません」


「いいね」


「殿下には、彼女が見えるのですか」


「姿は見えない。だが順番が見える」


「順番?」


「君が傷ついたあと、左の鏡だけが先に怒る。君が嘘を選ぶ前に、先に嫌悪する。二人で同じ顔を使っても、感情まで同じ時刻にはできない」


 フリードリヒが鏡の裏へ手を回す。


「三枚のうち、左だけ銀の配合が違う。見えない面の反応を測るためのものだ」


「誰が、こんな鏡を作ったのです」


「作り手より先に、教会の顔が浮かんだのだろう?」


 また、言葉を一つ選ぶだけで立場を奪われる。


『殴っていい?』


 リゼが低く言う。


「いいえ」


「何が、いいえ?」


「殿下のお考えに、同意しかねます」


「今は三人で話している気分だ」


 王子は心底楽しそうだった。


「何がです」


「完璧な令嬢は退屈だ。君は毎回、嬉しいほうへ私を失望させる」


 わたしは、彼が嫌いだ。


 同時に、恐ろしいほど会話が通じる。


 こちらの言葉の裏を読み、次の逃げ道まで先に塞ぐ。カタリーナやアウグストとは違う。彼はわたしを番号として見ていない。


 盤上の、珍しい駒として見ている。


「婚約誓約式を前倒しなさる理由は?」


「北境伯が求婚したから」


 胸が跳ねる。


「根拠のない噂です」


「彼は文書を三部作る。自分、相手、焼却用。焼却用だけが火に入っていない」


「盗み見たのですか」


「王国の安全を確認した」


 言葉を変えれば、罪も義務になる。


「殿下は、わたしを妃に望んでいらっしゃるのですか」


「昼の君は、王国を整える。夜の君は、王国を壊す。両方が私の隣にいれば、退屈しない」


『飼う気だ』


 リゼの声が冷える。


「わたしたちは、見世物ではありません」


「だから価値がある」


「価値で人を選ぶのですね」


「君も同じだ。北境伯が何も持たない男でも、同盟を結んだかな」


 否定できない。


 ルーカスの力を必要とした。それでも、彼は役に立たなくなってもリゼの名を消さないと言った。


「少なくとも、彼は選ばない自由を契約に書きました」


「自由は、条件の多い檻だよ」


「檻の鍵を持つ方に言われても、説得力がありません」


 一瞬、静寂が落ちた。


 王子の目に、退屈とは正反対の光が宿る。


「今夜、私の書斎へおいで」


「お断りします」


「十七番の返鏡記録がある」


 鏡の中で、リゼが身を乗り出した。


「母の記録を、なぜ王子殿下が?」


「王家は、教会へ道具を貸す。返却された記録を持つのは当然だろう」


「今、見せてください」


「ここにはない」


「使者に持たせればよいでしょう」


「昼の君には渡さない」


 フリードリヒは左の鏡へ近づく。


 硝子越しに、リゼと目を合わせるように。


「取りに来られるほうへ渡す」


『罠』


 リゼが囁く。


 分かっている。


 それでも、母の記録という言葉が胸へ刺さっている。


「来なければ?」


「婚約誓約式の朝、記録をアウグストへ返す」


 王子は白と黒の駒を同じ掌へ握った。


「選ぶのは、二人だ」


 *


 寮へ戻ったあと、わたしとリゼは一時間、言い争った。


「行きません」


「行く」


「罠だと、あなたも言ったでしょう」


「罠だから、何を仕掛けてるか見に行く」


「捕まれば?」


「最初の鐘までに戻らなかったら、ルーカスを呼ぶ」


「あなたを賭けてまで、母の記録は要りません」


「じゃあ、アタシが要る」


 鏡の中で、リゼが左手をつく。


「あの声が母親なら、アタシたちに何をしたか知ってる。違うなら、もっと早く知らなきゃまずい」


「一人では行かせません」


「身体は一つ」


「わたしも鏡から見ています」


「危なくなったら交代する?」


「ええ」


「アタシを置いて逃げない?」


 母の部屋で、わたしが漏らした言葉。


 わたしが消えたほうがいいのかも。


 あれからリゼが恐れていたのは、自分が消されることだけではない。


 わたしが勝手に自分を捨てることだった。


「逃げません。あなたも、わたしを置いていかないで」


「約束」


「約束です」


 契約帳面に、二人で署名する。


 午前零時。わたしは身体をリゼへ渡した。


 *


 王子の書斎には、見張りがいなかった。


 鍵も開いている。


 リゼは暗い室内へ入り、机の燭台へ火をつけた。


 壁は本棚で覆われ、その間に細長い鏡が三枚ある。温室と同じ配置だった。


 鏡の中から、わたしは周囲を見る。


「リゼ、戻って」


「まだ何も見てない」


「簡単すぎます」


「分かってる」


 机の中央に、白い封筒が置かれている。


『十七番 返鏡記録』


 リゼが封を切る。


 中から出てきた紙は、すべて白紙だった。


 一枚目にだけ、王子の筆跡がある。


『ようこそ、リゼ』


 背後で扉が閉まった。


 リゼが駆け寄るが、取っ手には細い銀糸が巻かれている。触れた指から白い煙が上がった。


「窓を!」


「鏡から離れる!」


 言葉が重なる。


 窓に見えたものは、黒く塗られた硝子だった。外の景色を映した絵が貼られ、最初から開かない。


 逃げ道も、反射面も、最初から数えられている。


「エリザベス、ごめん」


「まだ謝らないで。中央の鏡なら、交代できるかもしれない」


 リゼが振り返る。


 その顔から、自信が消えていた。


「伏せて!」


 叫んだ瞬間、天井から銀色の幕が落ちた。


 三枚の鏡を一つずつ覆う。


 銀幕が触れた場所から、視界が黒く消える。


「エリザベス!」


 リゼが中央の鏡へ手を伸ばす。


 指先が銀の布へ触れ、煙が上がった。


 左手の傷が焼ける。


 鏡の内側にいたわたしの足元が崩れた。


「交代して!」


「できない!」


「同意します。身体を返して!」


「鏡が、開かない!」


 リゼの声に、初めて隠せない恐怖が混じった。


 三枚目の鏡が覆われる直前、その奥にもう一人の影が見えた。


 わたしでも、リゼでもない女。


 影が笑う。


 銀幕が閉じた。


 闇の向こうで、王子の声がした。


「昼の君は返す。今夜、招いたのは君だけだ」


「リゼ!」


「エリザベス、来るな!」


 世界が裏返る。


 *


 目を開けると、朝だった。


 学院の寮室。自分の寝台。


 夜着の裾には、王宮の温室と同じ赤い土がついている。


 どう戻ったのか、記憶がない。


「リゼ」


 姿見へ駆け寄る。


 鏡の中には、青ざめたわたしが一人いるだけだった。


「リゼ、返事をして」


 右手を上げる。


 鏡像も同時に上げる。


 笑ってみる。


 同じ瞬間に、同じ形で笑う。


 どの鏡にも、彼女はいない。


 洗面台の銀盆にも、窓硝子にも、水差しの表面にも。


 これまでは、意識しなくてもどこかにいた。退屈そうに欠伸をし、わたしの謝罪へ顔をしかめ、眠る直前までくだらない悪口を言った。


 姿がないだけで、部屋の中から音がすべて消えたようだった。


 契約帳面を開いた。


『戻ったら返事を』


 昨夜わたしが書いた文の下に、リゼの返答があったはずだ。


『分かってる』


 その文字だけが消えている。


「嫌」


 声が震えた。


「置いていかないと、約束したでしょう」


 鏡を叩く。


 返事はない。


 もう一度。


 指の関節が裂け、血が銀の面へついた。


 その血が、鏡の内側へ吸い込まれる。


 ゆっくりと、一行の文字に変わった。


『アタシは捕まった。エリザベスだけは来るな』


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