第11話 鏡の中の牢獄
鏡に返事を求めるようになってから、自分だけで朝を迎えるのは初めてだった。銀の中に自分しかいないことが、こんなに怖いとは知らなかった。
『アタシは捕まった。エリザベスだけは来るな』
血で浮いた文字は、朝日が鏡へ差すころには消えていた。
泣くのは後にしよう。
そう決めた途端、涙が一粒だけ落ちた。わたしはそれを袖で拭い、寝台脇の呼び鈴を鳴らす。
「アンネ。昨夜、わたしをここへ運んだ者を捜して」
「もう見つけました。王宮の従僕です。寮監には、殿下の命で具合の悪くなった婚約者を送り届けたと言っています」
扉から入ってきたアンネは、湯盆ではなく男物の上着を抱えていた。灰色の袖口に、きらきらと光る粉がついている。
「荷車の御者台に落ちていました。銀じゃありません。銀糸を焼いたあとの灰です。教会の祭具庫で嗅いだことがあります」
「従僕はどこに?」
「東の洗濯場。口止め料をもらって逃げる支度をしています」
鏡に残った自分は青ざめていた。けれど、背筋は曲がっていない。
「逃げる前に、わたしと取引をしてもらいましょう」
従僕は洗濯場の裏で馬車を待っていた。まだ二十歳にもならない。わたしの姿を見るなり膝をつき、何も知らないと三度繰り返した。
「あなたを罰するつもりはありません」
「本当に、何も見ておりません」
「ええ。見てはいないのでしょう。ですが、運んだ」
男の喉が鳴った。
わたしは彼の右袖を指す。洗っても取れなかった青白い染みが、縫い目へ細く残っている。
「両面神の祝祭で焚く青香です。銀幕を扱う祭司は、布が鏡へ張りつかないよう香煙を通す。昨夜、あなたは王宮の北回廊からわたしを運び出した。その前に、祭司の手伝いをしたのではありませんか」
「違います」
「では、殿下に確かめます」
脅したのではない。ただ立ち去ろうとした。
「待ってください!」
声が裏返った。
「おれは、幕を掛けろと言われただけです。中に誰かいるなんて知らなかった。鏡が叩かれて、それで……」
「銀幕はどこから来たの?」
「聖堂です。大司教猊下の印がありました。三枚とも、明日の祝祭で使うから中央聖堂へ戻せと」
「鏡も?」
男は唇を噛んだ。
わたしは指輪を一つ外し、石畳へ置いた。アルバート家の紋章ではなく、母から受け継いだ小さな真珠の指輪だった。
「これを売れば、国境まで行けます。代わりに、昨夜見たことをすべて話して。黙って逃げるなら、あなたは殿下の秘密を知る唯一の使用人として追われる。でもわたしの証人になるなら、北境伯の保護をつけます」
「どうして、北境伯が」
「今から頼むからです」
口にしただけで、胸が痛んだ。
助けを求めるのは、負けを認めることだと思っていた。迷惑をかける前に、自分で片づけなければならないと教えられてきた。
その考えで、昨夜リゼを一人にした。
「選んでください。時間がありません」
男は真珠へ手を伸ばさなかった。
「鏡は、正午に中央聖堂へ運ばれます」
代わりに、震える声で話し始めた。
*
北境伯へ送った伝令は、学院の正門で本人と行き違った。
ルーカスは従僕の証言を最後まで聞き、机上の王都図へ三本の線を引いた。王宮から中央聖堂までの表通り、地下の奉仕路、そして祭具を運ぶ水路。
「護送を襲えば、殿下が鏡を壊す口実を得ます」
「では、聖堂へ入ってから」
「明日の公開礼拝では遅いかもしれない」
声が急いた。わたしは唇を噛む。
「申し訳ありません。わたしが昨夜、潜入を許さなければ」
「謝罪を止めてください」
「ですが」
「あなたが許した。夜のあなたが決めた。罠を仕掛けたのは殿下です。責任を正しい場所へ置いてください」
叱責ではない。静かな声だった。
それでも、わたしの中では何かが軋んだ。自分を責めていれば、少なくとも次は自分を直せばよい。敵の悪意を認めれば、自分ではどうにもならないものがあると認めることになる。
「怖いのです」
言葉が、勝手に落ちた。
「一人で決めるのが。間違えたら、今度こそリゼが消える」
「なら、一人で決めなければいい」
ルーカスの手が、わたしの肩へ置かれた。
前なら反射的に身を引いていた。痛みも恐怖も見抜かれる気がしたから。
今日は逃げなかった。
軍服越しの手は重く、温かかった。
「あなたを失うのも、夜のあなたを失うのも同じくらい耐えがたい。でも、二人がいなくても、あなたは一人で立てる」
「矛盾しています」
「ええ。あなたのことになると、私は最近よく矛盾する」
灰色の目が、珍しくわたしから逸れた。
机上には、彼が到着前に書いた保護命令があった。従僕一人のために北境の宿駅を三つ開き、追手が来れば自分の名で拒めと記してある。末尾の保護対象は『アルバート公爵令嬢』ではなかった。
『エリザベス、およびリゼ』
まだ公には存在しない名まで、同じ大きさの文字で並んでいる。
「いつから、用意していたのですか」
「昨夜、あなた方が王宮へ入ったと知ったときから」
「わたしたちが失敗すると?」
「失敗してほしくない相手のために備えるのが、私の仕事です」
それが仕事だけではないと、彼自身も今ようやく気づいたようだった。
アンネが咳払いをした。
「お二人が続きをなさる前に、もう一つ。従僕の靴から銀糸を一本取りました」
紙の上へ置かれた糸は、髪より細い。けれど鏡へ近づけた瞬間、わたしの左手の痣が灼けた。
銀糸の表面に、肉眼では読めないほど小さな祈りの文字が刻まれている。正しい向きで読むと、鏡面の光が暗くなる。裏から透かすと、逆向きの文字だけが白く浮いた。
「幕は銀で力を遮っているのではありません」
わたしは糸を黒い蝋燭の煤へ通した。祈りの文字が埋まり、鏡の暗がりに細い亀裂が走る。
「命令を、鏡へ読み続けている。『閉じよ』『返すな』『名を眠らせよ』と」
「教会の祭具で、殿下が人を捕らえた」
ルーカスの口調が冷えた。
「王子と教会は、少なくとも技術を共有しています」
わたしは銀糸を裏返した。
「命令なら、書き換えられるはずです」
*
鏡を運ぶ水路には、古い点検室があった。
正午前、ルーカスが護送の進路を一刻だけ変え、アンネが点検室の鍵を開けた。荷車には大鏡が一枚。灰色の覆いの下で、さらに三重の銀幕に包まれている。
兵を傷つけずにいられる時間は、鐘が二度鳴るまでだった。
「エリザベス様、わたしがやります」
「いいえ。これは、わたしが読みます」
煤をつけた指で、一枚目の銀幕をなぞった。
『閉じよ』の文字を潰し、その下へ逆向きに『開け』と書く。
左手が裂けた。見えない刃が皮膚の内側を走り、血が指先から落ちる。
「痛いです」
初めて、そう言えた。
「止めますか」
「いいえ。手を貸してください」
ルーカスが後ろからわたしの手首を支えた。力を奪わず、震えだけを止める持ち方だった。
二枚目に『返せ』と書く。
三枚目へ触れた瞬間、覆われた鏡の奥で音がした。
こつ。
こつ、こつ。
「リゼ?」
返事はない。
代わりに、鏡の内側から数えきれない指が一斉に叩き始めた。
幼い指。節くれだった指。爪の剥がれた指。銀幕の下には何も映っていないのに、叩く場所だけが白くへこむ。
『十八』
『返して』
『わたしの名は』
『まだ生きて』
声が重なり、言葉にならない悲鳴へ変わる。
わたしの膝が震えた。
「見ないで!」
その叫びだけは、聞き違えなかった。
「リゼ!」
銀幕の端をつかむ。掌が焼けても離さなかった。ルーカスが布を留める鋲を剣の柄で砕き、アンネが煤を塗り込む。
一枚目が裂けた。
二枚目が床へ落ちる。
最後の幕の向こうに、暗い廊下が現れた。
壁も床も鏡でできている。奥へ行くほど、同じ顔をした少女たちが立っていた。泣く者、怒鳴る者、口だけを動かす者。どれも輪郭は薄く、名前の代わりに数字を胸へ刻まれている。
その手前に、リゼがいた。
髪は乱れ、両手から血を流している。いつもの笑みはなかった。
「迎えに来ました」
「馬鹿。来るなって書いただろ」
「読んだから来たの」
わたしは最後の銀幕へ、逆向きの命令を書いた。
『ここへ帰れ』
幕が中央から裂け、白い光が暗い廊下へ差し込む。
リゼが一歩、こちらへ踏み出した。
その足が止まる。
彼女は背後を振り返った。鏡の群れのずっと奥で、誰かが子守歌を歌っていた。
「どうしたの。早く!」
「無理だ」
「怖いなら、わたしが行く」
「それが駄目なんだよ!」
リゼが裂け目を内側から押さえた。帰還の光が、彼女の指の間で細くなる。
水路の向こうで鐘が鳴った。兵が戻る。もう時間がない。
「明日の祝祭。あの鏡を見せ物にする気だ。そこでなら、また道が開く」
「なら、一緒に戻りましょう」
「今は駄目だ。奥で見た。昔の器だけじゃない。あんたの記憶も、アタシの記憶も、どっちが先だったかも、全部ここにある」
「それでも」
「来ないで」
リゼの顔に浮かんだのは、拒絶ではなかった。
わたしを守ろうとする者の、怯えだった。
「ここには、あんたが見たら自分を嫌いになるものがある」




