第12話 祝祭の夜の両面神
祝祭の鐘は、処刑台で聞いた鐘と同じ音だった。
一度目で首を垂れ、二度目で罪を告白し、三度目で刃が落ちる。
前世の記憶に重なるように、中央聖堂の大扉が開いた。
正午の光が白い石床をまっすぐに切り、その先に三枚の銀幕が垂れている。昨夜リゼを捕らえた大鏡は、祭壇の中央に据えられていた。
「顔色が悪い」
隣を歩くルーカスが、参列者へ聞こえない声で言った。
「逃げるなら今です」
「逃げません。ただ、鐘が嫌いなだけ」
「私も嫌いになりました」
彼はそれ以上励まさなかった。代わりに右手を差し出す。
わたしはその手を取った。
貴族たちの視線が一斉に集まる。王太子の婚約者が、北境伯に手を預けて歩く。それだけで、明日の交遊録は埋まるだろう。
明日までリゼが生きているなら、いくらでも書かせればいい。
祭壇前にはフリードリヒ殿下がいた。
「おはよう、エリザベス。昨夜はよく眠れたかな」
「おかげさまで、一睡もしておりません」
「それは心配だ」
微笑みは完璧だった。銀幕の向こうから弱い音がする。
こつ。
リゼが、まだそこにいる。
「殿下」
わたしは彼の目を見た。
「わたしの半分を返してください」
「君は最初から一人だよ。今日は、それを皆に証明する」
祝祭は両面神が夜と昼を分け、王国へ秩序を与えた日だと教えられている。聖堂には二つの顔を持つ神像が並び、昼の顔は慈悲深く、夜の顔は牙を見せていた。
けれど今年、壇上へ立たされるのは神ではない。
わたしだった。
大司教アウグストが白い法衣で進み出る。労働を知らない美しい指が、祝福するようにわたしの額へ近づいた。
「怖がることはありません、エリザベス嬢。鏡に巣食う悪しき面を切り離せば、あなたは以前の清らかな令嬢へ戻れます」
「切り離した面は、どうなるのですか」
「本来あるべき場所へ帰ります」
「どこへ?」
「名のない闇へ」
聖堂の奥で、銀幕が大きく揺れた。
「名ならあります。リゼです」
参列席がざわめく。
大司教だけが笑みを変えなかった。
「病には、患者が親しみを込めて名をつけることがあります」
「話し、考え、怖がり、生きたいと願う病があるのですね」
「病人には、そう見えるのです」
言葉が柔らかいほど、その奥にある刃は鋭かった。
祭司たちが銀幕の端を持つ。布には新しい祈りが縫い足されていた。昨日わたしが煤で消した箇所は、金糸で塞がれている。
大司教が聖堂中へ告げた。
「王太子殿下の婚約者は、長く鏡の病に苦しんでおられました。本日、両面神の御前で夜の面を封じ、昼の面だけを正しき器へ戻します」
「公開処刑と、よく似た手順ですね」
わたしの声に、空気が止まった。
アウグストはまばたきを一度した。
「不吉なたとえです」
「鐘の回数まで同じですもの」
三枚の銀幕が鏡を覆う。
聖堂の光が、一段暗くなった。
左手の痣が熱を持つ。鏡の奥から、リゼの痛みが流れ込んだ。息ができない。胸を圧迫され、身体の輪郭が少しずつ消えていく。
『来るな』
声が、頭の奥でかすれた。
『アタシごと閉じさせろ』
「嫌です」
口に出して答えた。
大司教が片手を上げる。
「第一の鐘を」
鐘が鳴った。
祭司が祈りを唱える。
「昼は昼へ、夜は夜へ。正しき顔を器へ、過ちの顔を鏡へ」
銀幕の文字が光り、わたしの足元から影が消えた。
昨夜調べた銀糸は、魔力を奪っていたのではない。鏡へ命令を読み聞かせていた。
ならば、鏡の決まりも同じではない。
身体は一つで、傷は二人へ届く。それだけは、鏡を砕きかけた朝から変わらない。
夜にしか交代できないこと。鏡の前でなければならないこと。それは銀糸と同じく、教会が読み聞かせた命令かもしれない。
そして二人の同意を求めるのは、鏡の掟ではない。わたしたち自身が交わした約束だ。
変えられないこと。変えられる命令。自分たちで守ると決めたこと。
三つを、同じ檻に入れてはいけない。
「第二の鐘を」
轟音とともに、鏡の奥で何かが千切れた。
『エリザベス、やめろ。奥にあった記録を見た。アタシが消えれば――』
「あなたのために決めたふりをして、一人で消えるつもり?」
『生き残るほうが大事だ!』
「二人で生き残ると決めたでしょう」
祭司がわたしの左手を祭壇へ置いた。痣の形が鏡の紋様と重なる。
大司教は慈父のような目をしていた。
「宣誓なさい。『夜の面を鏡へ渡すことに同意します』と」
前世では、言われた通りの言葉を何度も口にした。
婚約を受け入れます。
家の決定に従います。
わたしが悪かったのです。
最後には、自分の処刑にまで同意させられた。
わたしは祭壇へ置かれた手を握りしめる。
「鏡よ」
大司教の笑みが深くなった。
「夜の面をわたしへ返すことに、同意します」
銀幕が膨らんだ。
「文言が違います」
「逆にしただけです」
わたしは左手を鏡へ向ける。
「リゼ。夜まで待たない。今、あなたを選ぶ」
返事はなかった。
一瞬だけ、胸を恐怖が貫いた。
それから、暗闇の奥で笑い声がした。
『あとで泣いても知らないからな』
「同意して」
『同意する。身体を寄越せ、エリザベス!』
真昼の光の中で、世界が裏返った。
*
鏡の中は、夜よりも冷たかった。
わたしは暗い廊下へ投げ出される。目の前の銀幕に、リゼの輪郭が重なった。
同じ銀髪がほどけ、同じ紫の目が細くなる。
祭壇の上で、リゼがわたしの身体を起こした。
「昼にアタシを出したのは、あんたが初めてだよ」
聖堂中が悲鳴に包まれる。
日光に触れたリゼの皮膚から、白い煙が立った。左腕は上がらず、歩くだけで膝が折れかける。それでも、彼女は笑った。
「悪しき面を封じるんだっけ?」
アウグストが初めて後ずさる。
「あり得ない。夜の面は太陽の下で形を持てない」
「半分しか動かないけどな。半分あれば十分だ」
祭司が押さえる銀幕へ、リゼは右手を突き込んだ。
掌が焼ける。痛みは鏡の中のわたしにも走った。
「リゼ、無理をしないで!」
「今さら上品に助けられるか!」
彼女は幕の裏側に縫われた『閉じよ』の文字をつかんだ。布ではなく、命令そのものを引くように腕を振り下ろす。
一枚目が中央から裂けた。
二枚目の祭司が手を離す。
フリードリヒ殿下が「押さえろ」と命じるより早く、ルーカスが祭壇へ上がった。剣は抜かない。ただ祭司とリゼの間へ身体を入れる。
「公開礼拝で、病人を拘束するおつもりか」
「北境伯、これは王家の儀式だ」
「ならば、王家の名で彼女が同意した証拠を示されよ」
貴族たちの視線が一斉に大司教へ向く。
その隙に、リゼが三枚目をつかんだ。
「返してもらうぞ。アタシたちの名前を!」
銀幕が、雷に打たれたように裂けた。
真昼の光が鏡の牢獄を貫く。
背後にいた無数の少女たちが、いっせいにこちらを見た。
泣いていた者も、怒鳴っていた者も、音もなく唇を動かす。
『忘れないで』
光が弾けた。
わたしは身体へ戻る。
足の力が抜けたが、床には落ちなかった。ルーカスの腕が背中と膝を支えていた。
「二人とも、いますか」
「わたしは、ここに」
『アタシもいる』
鏡の中でリゼが肩をすくめた。
ルーカスは目を閉じ、短く息を吐いた。安堵した顔を見られまいとするように、すぐいつもの無表情へ戻る。
参列席の最前列で、老婦人が胸元の両面神像を外した。誰かが「悪霊ではなかったのか」と囁き、別の誰かが「同意していた」と答える。たった今まで一つだった教会の説明に、目に見える亀裂が入っていた。
「では、立てますか」
「少しだけ、このままで」
「承知しました」
フリードリヒ殿下が裂けた銀幕を踏み越えた。
「素晴らしい。規則を破ったのか、それとも規則が最初から嘘だったのか」
「どちらでも、殿下へ差し上げる見世物ではありません」
「君はいつも、私が欲しくなる答えをする」
大司教は騒ぐ祭司たちを手で制し、穏やかに告げた。
「鏡を回収しなさい。穢れが広がります」
「いいえ」
ルーカスが大鏡の枠へ手をかけた。
「これは、北境伯領で保護する証拠品です。公開の場で一人の令嬢を拘束し、存在しない同意を捏造した証拠として」
その言葉に、貴族たちがまたざわめく。
大司教は笑みを保ったまま、手を下ろした。ここで力ずくに奪えば、儀式の正しさより鏡の秘密を優先したと示すことになる。
「どうぞ。ですが、鏡は真実だけを映すとは限りません」
「人も同じです」
アンネが裏口から荷車を回し、鏡は聖堂から運び出された。
誰も追ってこない場所まで離れてから、わたしたちは枠を外した。表には両面神の紋様。裏板の中央には、細い刃物で刻まれた文字がある。
『第十七番 エレオノーレ』
母の名だった。
その下へ、同じ書体で二行が続く。
『第十八番 第一面 リゼ』
『第二面 エリザベス』
「第一面……」
指でなぞると、痣が熱く脈打った。
リゼは鏡の中で黙っている。
第一と第二は、生まれた順なのか。優劣なのか。それとも、別の何かなのか。
「下にもあります」
アンネが灯りを寄せた。
リゼの名の下に、横一文字の深い傷が三つ並んでいた。
ただの傷ではない。文字を刻み、その上から削り取った跡だ。
三人分の名前が、鏡から消されていた。




