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第8話 名札のない棺

 母の棺には、名前がなかった。


 番号を刻む場所だけが空いていた。


 アルバート公爵家の地下墓所。


 学院で十七番の名を見つけた翌日、わたしは体調不良を理由に帰邸した。カタリーナは王都の夜会へ出ており、父も領地視察で不在。母の墓を確かめるなら、今日しかなかった。


 アンネは地上で見張り、わたしはマルタにだけ、墓所を開けてほしいと頼んだ。


 理由を告げる前から、彼女の顔は青ざめていた。


 歴代当主と家族の棺には、名、生年、没年、家へ残した功績が刻まれている。


 母の白い石棺だけが、何も語らない。


 蓋の中央には、金属板をはめるための丸い窪みがあった。けれど板は外され、留め具の穴だけが二つ残っている。


 隣の棺には、幼くして亡くなった大伯母の名と、好きだった花まで刻まれていた。向かいの叔父には、領地を洪水から守った功績がある。


 死者は碑文の中で、誰だったかを守られている。


 母だけが、死後も誰であることを許されていない。


 十七番。


 昨夜見つけた台帳の文字が、空の窪みへ重なって見えた。


「なぜ、お母様のお名前がないのです」


 問いかけると、鍵束を持つマルタの肩が揺れた。


「古い石工の不手際でございます」


「十二年も、直さなかったの?」


「旦那様が何度か命じられました。ですが、教会から許可が下りず」


「家族の棺に名を刻むため、なぜ教会の許可が必要なのです」


 マルタは答えない。


 墓所の空気は冷たい。壁の灯火が揺れるたび、手鏡の中でリゼの顔が明滅した。


『聞いて』


 銀の面に文字が浮かぶ。


『逃がさないで』


 わたしは外套の内側から、昨夜写した帳簿を出した。


「母エレオノーレは、教会の台帳で十七番と記録されていました。わたしは十八番。あなたは何を知っているの」


「お嬢様、それをどこで」


「質問に答えて」


 声が思ったより強く響いた。


 マルタは墓所の入口を振り返り、膝をついた。


「ここでは、お話しできません」


「では、母の部屋へ」


「あのお部屋は、奥様のご命令で封じられております」


「わたしはアルバート家の令嬢です。実母の部屋を見るのに、継母の許可が必要ですか」


 言ってから、手が震えた。


 カタリーナへ逆らう言葉が、まだ身体の中では罪として響く。


 マルタはその震えを見た。


「いいえ」


 長い沈黙のあと、鍵束から一本を外す。


「もう、遅すぎます。ですが、これ以上遅くしてはなりません」


 *


 母の部屋は、公爵邸の西棟にあった。


 以前リゼが見つけた、鍵の増えた扉。


 十二年ぶりに開かれた室内は、時間だけが死んでいた。


 薄青いカーテン。刺繍枠に残された途中の白薔薇。譜面台の上で閉じた子守歌。化粧台には銀の櫛が置かれ、三本の長い銀髪が絡んでいる。


 母も、わたしと同じ髪だった。


 壁際には、鏡を置いていたらしい大きな台座がある。


 鏡だけがない。


 台座の前の床には、子どもの足形ほど埃の薄い場所があった。


 十二年間、閉ざされていた部屋。最近まで誰かがそこへ立っていたことになる。


「この部屋へ入った者がいるの?」


「鍵は、わたくしと奥様しか」


 マルタが言いかけて黙る。


 奥様とは、カタリーナのことだ。


 彼女は封じたはずの姉の部屋へ、何をしに来ていたのだろう。


「あの姿見は、ここにあったのですね」


「はい」


「いつ、わたしの部屋へ?」


「奥様がお亡くなりになったあとです」


 マルタは窓を開けず、積もった埃を布でそっと払った。


「十二年前、エレオノーレ様は両面神教会へ連れていかれました。病の治療と説明されましたが、前夜までお元気でした」


「誰が連れていったの」


「アウグスト猊下です」


 美しい指が浮かぶ。


「儀式の名は?」


 マルタの唇が震えた。


「返鏡の儀、と」


 手鏡の中で、リゼが顔を上げる。


「何をする儀式?」


「鏡に宿った病を、神へお返しする。そう聞かされました」


「母は、行くことに同意したのですか」


 マルタは鍵束を胸へ抱いた。


「馬車へ乗せられる直前、エレオノーレ様は鏡を布で包もうとなさいました。『あの子に見せないで』と、何度も」


「あの子?」


「お嬢様のことだと思いました。ですが猊下は、『もう片方の娘のことですね』と」


 もう片方。


 手鏡の中のリゼが、唇を引き結ぶ。


「そのとき、あなたはリゼを知っていたの?」


「いいえ。エレオノーレ様にお子様はお一人だけでした。ですから、病で混乱なさったのだと……そう思うしかありませんでした」


 母は十二年前から、二人を知っていた。


 少なくともアウグストも、知っていた。


「母は戻ったのですか」


「三日後に」


 マルタの声が細くなる。


「棺に入れられて、お戻りになりました」


 息ができなかった。


 母が死んだことは知っている。


 三歳のわたしには理解できず、泣くこともできなかったと教えられてきた。


 けれど、棺で戻ったとは聞いていない。


「お顔は?」


「見せていただけませんでした。棺には教会の封があり、開けば家名を剥奪すると」


「では、あの中に本当に母がいるかも分からないの?」


「……はい」


 地下に置いてきた白い棺が、急に空の箱に思えた。


 名前も、顔も、遺体も確かめられない。


 ただ、母は死んだと決められた。


「棺と一緒に戻ったものは?」


「姿見と、青いドレスだけです。指輪も、髪飾りも、日記もございませんでした」


 部屋の衣装棚を開く。


 奥に一着だけ、薄青いドレスが掛かっていた。記憶の中で、泣くわたしを抱いた母が着ていた色。


 布へ触れると、胸元の縫い目から小さなリボンが落ちた。


 幼児用の銀の髪結い紐。端に、Eの刺繍。


 エリザベスの頭文字。


 けれど結び目は、鏡の中から見たように左右が逆だった。


「姿見は、教会から一緒に返されたのですか」


「はい。あの鏡は、お母様があなたのために残したのです」


 初めて聞くはずの言葉なのに、胸が鋭く痛んだ。


「母が、そう言ったの?」


 マルタは目を伏せる。


「鏡を届けたアウグスト猊下が、そうおっしゃいました」


 母の言葉ではない。


 母を連れていき、棺だけを返した男の説明だ。


「あなたは、疑わなかったのですか」


「疑いました」


「それでも、黙っていた」


「お嬢様まで奪われるのが怖かったのです」


「黙っていたから、奪われなかったと?」


 マルタの顔が歪む。


 責めたい。


 責める資格がある。


 けれど彼女の鍵束を握る手は、わたしより強く震えていた。


「ごめんなさい」


 先に謝りかけて、唇を閉じる。


 今は、わたしが謝る場面ではない。


「続きを話してください」


「はい」


 マルタは涙を拭わず、頷いた。


「エレオノーレ様がお亡くなりになったあと、お嬢様は初めて泣かれました」


「初めて?」


「三歳まで、一度も涙を流されなかったのです。空腹でも、転んでも。声を上げることさえありませんでした」


「そんなはずはない」


 記憶がある。


 二歳の冬。母の部屋で転び、膝を擦りむいた。わたしは泣きながら青いドレスへしがみついた。


 母は抱き上げ、子守歌を歌ってくれた。


 窓の外には雪。


 銀の櫛で髪を梳く音。


 鏡の前で揺れる、二人分の影。


「わたしは、母の前で泣いたことがあります」


「いいえ」


 マルタは即座に否定した。


「わたくしは毎日、おそばにおりました。奥様は何度も心配なさっていました。どうすればこの子は泣けるのか、と」


 記憶の中の母は、確かにわたしを抱いている。


 では、マルタが嘘をついているのか。


 それとも、わたしの記憶が嘘なのか。


「リゼ」


 手鏡へ呼びかける。


「今の記憶を、あなたも知っている?」


 長い沈黙。


 やがて、鏡の中のリゼが頷いた。


「雪。青い服。歌」


「歌の続きは?」


 わたしは記憶のまま口ずさんだ。


「眠れ、わたしの朝の子。夜の子が目覚めぬように」


 リゼが目を閉じる。


「違う」


「何が?」


「アタシの記憶では、『朝の子が泣けるように、夜の子よ守って』」


 同じ旋律に、違う言葉。


 どちらも母の声で聞いた記憶がある。


 一つの場面を二人が分けたのか。誰かが別の言葉を植えたのか。それとも、二つとも偽物なのか。


「同じ記憶?」


「少し違う。抱かれてたのは、あんたじゃない」


 心臓が止まりそうになる。


「では、誰?」


 リゼは自分の腕を抱いた。


「お母さんの記憶、アタシも少し持ってる。でも、見せないほうがいい」


「なぜ?」


「見たら、どっちが先だったか分からなくなる」


 どちらが先。


 どちらが、本物。


 わたしはエリザベスとして十五年生きた。けれど三歳以前の記憶が誰かから与えられたものなら、その十五年は何を証明するのだろう。


「もしかすると」


 声が勝手に漏れた。


「わたしが消えたほうがいいのかも」


 リゼは返事をしなかった。


 いつもなら、馬鹿、と即座に怒る。


 鏡の中で、彼女は青ざめていた。


 わたしが消えることを望んでいるからではない。


 その言葉を聞くのが、怖い顔だった。


「今のは――」


 取り消そうとしたとき、化粧台の引き出しがひとりでに開いた。


 中には、小さな銀の鍵と、古い子守歌の譜面。


 鍵が跳ねた。


 床を滑り、鏡のない台座へ向かう。銀の先から細い糸のような光が伸び、わたしの左手へ巻きついた。薬指の痣が引かれる。身体ごと、空の台座へ連れていかれそうになる。


「離して!」


 マルタが腰の鍵束を投げた。鉄と銀がぶつかり、光の糸が一瞬だけ緩む。


 手鏡の内側から、リゼがわたしの手首をつかんだ。冷たい指の感触が、こちら側にまで届く。


「エリザベス、鍵を蹴れ!」


 言われたとおり、銀の鍵を靴先で引き出しへ戻す。引き出しは歯を閉じるように勢いよく閉まり、部屋の灯火が一斉に消えた。


 暗がりで、空の鏡台だけが鈍く光る。


 手鏡の奥で、黒い影が動く。


 リゼではない。


 わたしでもない。


 女の声が、鏡の深いところから囁いた。


「その記憶を開けないで」


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