第7話 裏帳簿
帳簿は嘘をつかない。
嘘をつくのは、数字の置き場所を決めた人間だ。
「つまり、盗みに入るんですね」
アンネは声を弾ませた。
「違います。照合です」
「夜中に鍵を開けて?」
「記録の不正を確かめます」
「盗人は皆、目的を長く言うものです」
学院の消灯から二時間。
わたしたちは礼拝堂地下の書庫前にいた。
わたしは手鏡の中。身体を動かしているのはリゼだ。腰までの銀髪を一つに束ね、学院の外套の裾を持ち上げている。
「静かにして」
リゼが囁く。
「お嬢様に言われると、いつもより説得力がありませんね」
「アタシはリゼ」
「存じています」
アンネは平然と答えた。
驚いたのは、わたしのほうだった。
茶会の前夜、彼女は身体を借りたリゼを見ている。別人だと気づきながら、半年近く誰にも話さなかった。
けれど今夜、寮室で交代する瞬間まで見せたのは初めてだ。
「怖くないの?」
鏡の中から尋ねる。
「どちらのお嬢様がです?」
「わたしたちが」
「昼のお嬢様は、叱る前に謝ります。夜のお嬢様は、叱られてから謝りません。どちらも、幽霊よりは扱いやすそうです」
「褒めてないね」
「事実です」
リゼが笑う。
アンネは書庫の扉へ鼻を寄せた。
「さっきまで、誰かいました。蝋と白檀の匂いがします」
「神官?」
「たぶん。あと、新しいインク」
「扉の向こうの匂いまで分かるの?」
「匂いは、鍵を守りませんから」
赤茶の髪を短く結んだ侍女は、得意そうに鼻をこすった。
「アンネ」
わたしはあらためて呼びかけた。
「ここから先は、知らなかったでは済みません。教会と学院が記録を偽っていれば、確かめた者も狙われます」
「はい」
「協力を断っても、あなたを辞めさせません。見たことを話さないと約束してくれるなら、それで十分です」
「お給金は?」
「危険手当を加えます」
「それと、もう一つ」
アンネは鼻先を指で押さえた。
「わたしの鼻のことは、教会に黙っていてください。孤児院にいたころ、『選別に使える子』だと言われたことがあります」
「選別?」
「嘘をついた子を当てる仕事です。外すと食事を抜かれました。だから、役に立つ鼻だと知られるのは嫌なんです」
明るい声のまま言う。
その軽さが、長く重いものを持ってきた人の話し方に聞こえた。
「約束します。あなたの許可なく、誰にも話しません」
「アタシも」
リゼが続ける。
「ただし、今夜は借りる。新しいインクを探して」
「契約成立ですね」
「では、お断りする理由がありません」
「本当に、それでいいの?」
アンネは手鏡の中のわたしと、外にいるリゼを順に見た。
「お嬢様が二人なら、秘密も二倍です。お給金は一人分で我慢します」
冗談めかしているが、目は笑っていない。
「わたし、役に立たなくなって捨てられるのが一番嫌なんです。危険だと教えたうえで仕事をくださるなら、選ぶのはわたしです」
選ぶのは、わたし。
リゼが小さく息を吐いた。
「決まり。雇うよ」
「雇用主はわたしです」
「身体はアタシ」
「お二人とも、まず鍵を開けませんか」
アンネが前掛けから細い鍵を出した。
「なぜ持っているの?」
「掃除係のおばさまに、厨房の焼き菓子と交換していただきました」
「盗んでないじゃん」
「照合ですから」
三人で顔を見合わせ、笑いをこらえた。
こんな状況で楽しいと思う自分に驚く。
一人で正しくあろうとした前の人生には、なかった感覚だった。
*
地下書庫には、紙と湿気の匂いが満ちていた。
学院から送られた交遊録の写しは、年度別の棚に並んでいる。その奥に寄付金台帳があり、さらに鉄格子を隔てて教会の支出台帳が置かれていた。
鍵は同じだった。
「学院の噂話と、教会のお金が同じ部屋」
リゼが呟く。
「偶然にしては、親切な配置ね」
「隠す人って、自分が便利な場所に置くんだよ」
机へ二冊の帳簿を広げた。
棚の端には、交遊録へ載せる前の投書が束ねられていた。
ノエルを告発した紙もある。
『盗品を隠すところを見た者がいます』
差出人の名はない。質札の写しは端だけ不自然に切られ、店の印が見えないようになっている。裏返すと、紙の透かしに両面神教会の紋章があった。
「学院の生徒が、教会の公文書用紙で匿名投書?」
「親切な神官が紙を貸したのかもね」
リゼの声は冷たい。
投書の受領欄には、セシリアの署名。その隣に小さな記号があり、教会の支出台帳の頁番号と一致していた。
噂と金が、同じ番号でつながっている。
学院の寄付金台帳には、こうある。
『銀鏡修繕費 三百二十リール。匿名篤志家より受領』
同じ日付を、教会の支出台帳で探す。
『品行教育費 三百二十リール。ルミナス学院へ支出』
金額は同じ。名目だけが違う。
翌月は、学院側が『寮室調度費』、教会側が『夜間観察費』。
その翌月は、『奨学金』と『交友誘導費』。
「交遊じゃなくて、交友?」
アンネが文字を指す。
「人付き合いを誘導するためのお金……」
ノエルの友人たちが、一日で同じ態度を取った理由が見えた。
誰かを孤立させるために、教会が学院へ金を払っている。
「でも、これだけでは誰のための費用か分からない」
「数字の置き場所」
リゼが帳簿を斜めから見る。
頁の中央、金額欄の左に不自然な余白があった。紙を灯りへ透かすと、削られた文字が浮かぶ。
「上から書き直してる」
アンネが鼻を近づける。
「新しいインクは表。下に、鉄みたいな古い匂いがあります」
薄い紙を重ね、鉛筆の腹でこする。
消された筆圧が、ゆっくり現れた。
『十八番 礼法教育』
『十八番 鏡面観察』
『十八番 交友分離予備費』
呼吸が止まる。
わたしの人生が、費用の項目になっている。
「次の頁」
リゼの声から、笑いが消えた。
頁をめくる。
そこには、五年前からの支出が月ごとに並んでいた。
公爵邸へ神官が鏡を磨きに来た日。
カタリーナの授業が厳しくなった日。
マリアンヌが引き取られた日。
王子との婚約が発表された日。
すべてに金額と番号がついている。
『十八番目の器 育成経過良好』
末尾には、アウグストの署名。
婚約準備の封筒で見つけたものと、同じ筆跡だった。
「器って、何を入れるもの?」
アンネが問う。
「分からない」
わたしは答えた。
「でも、わたしの名前ではないことだけは分かる」
胸が冷たくなる。
十五年間、わたしが学んだこと。笑い方。謝り方。痛みの隠し方。友人の選び方。
全部が、エリザベスを育てるためではなかった。
十八番を育てるためだった。
腹を立てるべきなのに、最初に浮かんだのは謝罪だった。
期待どおりに育てられなくて、申し訳ありません。
胸に生まれた言葉を自覚し、吐き気がした。
番号をつけた相手へまで、わたしは良い子であろうとしている。
『謝るな』
帳簿の黒い表紙へ、鏡文字がにじんだ。
リゼも同じ行を見ている。
「分かっています」
『分かってない顔』
「なら、覚えるまで書いて」
鏡文字が一瞬止まり、乱暴に重ねられた。
『あんたは番号じゃない』
「燃やす?」
リゼが言う。
「だめ。証拠がなくなる」
「じゃあ持っていく」
「なくなれば気づかれます。必要な頁だけ写します」
「そう言うと思った」
リゼは不満そうにしながら、紙とペンを引き寄せた。
アンネが周囲を見張り、わたしが手鏡から行を読み、リゼが写す。
三人の作業は驚くほど速かった。
廊下で靴音がした。
定期巡回には早い。
アンネが蝋燭を吹き消し、わたしたちを棚の陰へ押し込む。鍵が回り、扉が開いた。
「誰かいるのか」
若い神官の声。
リゼの身体が身構える。逃げれば足音で気づかれる。隠れても、机には開いた帳簿がある。
アンネが暗がりから一人で出た。
「申し訳ございません。蝋がこぼれまして」
「侍女が、こんな時間に?」
「明朝、大司教猊下の監査があると伺いました。汚れを残せば、学院の恥になります」
ためらいのない嘘だった。
神官が鼻を鳴らす。
「帳簿へ触れたか」
「字が読めませんので、触れても役に立ちません」
「手を見せろ」
アンネが両手を差し出す。
指先には、掃除用の煤だけ。写しを取ったインクは、あらかじめ手袋をしたリゼの指に残っている。
神官は納得し、明かりを机へ向けた。
その瞬間、リゼが小さな鏡片で光を反らす。反対側の棚で、鼠が走ったような影が動いた。
「誰だ!」
神官が影を追う。
アンネはすれ違いざま鍵を抜き、こちらへ合図した。
三人で音を立てず、書庫を滑り出る。
階段を二つ上がるまで、誰も息をしなかった。
「字が読めない?」
リゼが笑いをこらえて尋ねる。
「雇用主の秘密と、お給金の数字だけ読めます」
今度は、わたしも笑った。
階段の踊り場で、遠くの鐘が鳴った。
「そういえば、消灯前に届いていました」
アンネが前掛けの内側から、一通の封筒を出す。
狼の封蝋。
ルーカスからだった。
『学院の鏡が曇った夜、また同じ夢を見た』
短い文のあとに、もう一行。
『夢で見たあなたは、夜のほうだった』
「アタシ?」
リゼが手紙を裏返す。
「どうして、ここにいると分かったの」
返事はない。
扉の向こうに足音もない。
アンネが封筒を嗅いだ。
「外の冷たい匂いです。届けた人は、もういません」
リゼは手紙を帳面へ挟んだ。
「あの男、ますます気に入らない」
「捨てないの?」
「証拠だから」
耳が赤く見えたのは、蝋燭のせいだろうか。
最後の写しを折り畳もうとしたとき、指が止まった。
十八番の前に、もう一つ同じ形式の欄がある。
十七番。
金額も、項目も黒く塗り潰されていた。
ただし、名前だけが残っている。
エレオノーレ・フォン・アルバート。
十二年前に死んだ、わたしの母の名だった。




