第6話 聖女の園
入学して三日で、一人の令嬢が消えた。
退学届より先に、彼女の椅子が片付けられていた。
王立ルミナス学院の食堂は、一学年百二十人分の席がある。その朝だけは、窓際の長机に不自然な空白があった。
入学式の日、わたしはここでなら変われるかもしれないと思った。
公爵邸とは違い、起床後の表情をカタリーナに測られることはない。寮室の鏡にはリゼがいて、机の引き出しには二人の帳面がある。授業を自分で選び、誰と食事をするかも決められる。
制服を着れば、公爵令嬢も男爵令嬢も同じ学生に見えた。
少なくとも、三日前までは。
「あそこは?」
わたしが尋ねると、隣の令嬢はスープへ目を落とした。
「初めから、誰も座っておりませんわ」
嘘だった。
昨日まで、そこにはノエル・バルデン男爵令嬢がいた。
入学初日、彼女はわたしにインク壺の場所を教えてくれた。二日目には、寮のパンは端のほうがよく焼けていて美味しいと笑った。
そして三日目の朝、名前ごと消えた。
始まりは、学院の交遊録だった。
生徒の評判、奉仕活動、家同士の交流を記録し、週に一度回覧する冊子。学院を出たあとの縁談や家の信用にも使われるため、教師より熱心に読む者もいる。
入学日の夜、その臨時欄へ匿名の告発が載った。
『バルデン男爵令嬢は、同室者の宝石を盗んだ疑いあり』
証拠として、彼女の名が書かれた質札の写しが添えられていた。
翌朝、同室者は部屋を替えた。
昼には食事の席から友人が消えた。
午後、婚約者の家から面会を断る手紙が届いた。
ノエルは質屋へ行ったことがないと訴えた。筆跡も違う、日付には実家にいたと言った。それでも交遊録には、翌日、新しい一文が加わった。
『反省の様子なし。周囲への威圧的な弁明が認められる』
弁明したことまで、罪の形に直された。
三日目、彼女の朝食だけが運ばれなかった。
昼前には寮室の名札が外された。
一週間後の日付で書かれた退学届が、なぜかその日のうちに受理されていた。
「病気で帰郷なさったそうです」
皆が同じ言葉を口にする。
病気の名を尋ねると、誰も答えない。
交遊録の中では、疑いは記録された瞬間に事実になる。事実になったものを否定すれば、反省がないと追記される。
処刑台と同じだった。
刃が落ちる前に、周囲が名前を奪う。
『あの金髪、やり方を変えたね』
銀のスプーンに、リゼの文字が浮かんだ。
食堂の中央では、セシリアが令嬢たちに囲まれている。
白い手袋。穏やかな笑み。胸元には、交遊録の記録係を示す銀の鍵。
あの茶会から半年。彼女は約束どおり、わたしを一人にする場所を用意していた。
毒も、目撃者も必要ない。
学院全体を使えばいい。
「原簿を見せていただけますか」
朝食後、わたしは記録室を訪ねた。
壁一面に、過去二十年分の交遊録が並んでいる。中央の机には、今期の原簿が鎖で留められていた。
セシリアが鍵を指で弄びながら微笑む。
「何をお調べに?」
「ノエル様の告発です。質札の原本と、匿名投書の受領時刻を確認したいのです」
「ご本人が退学なさった以上、記録は封印されました」
「退学届は一週間後の日付でした」
「書き間違いでしょう」
「受理印は昨日です」
「事務方の間違いかもしれません」
すべて、かもしれない。
けれど原簿を見せないという結論だけは揺れない。
「記録係は、疑いを事実にする権限を持つのですね」
「いいえ」
セシリアは悲しそうに目を伏せた。
「わたくしは、皆様が寄せた心配を記すだけです」
悪意ではなく心配。
命令ではなく記録。
誰も手を汚していない顔で、一人を消せる言葉だった。
「次は、わたしですか」
「何のことでしょう」
「茶会で、そうおっしゃったでしょう」
「覚えておりませんわ」
微笑みは崩れない。
壁の硝子戸で、リゼが顔をしかめた。
『甘い。でも、本人は本気で忘れたことにしてる』
リゼが味を読めない種類の嘘。
「原簿は学院長の許可がなければ閲覧できません」
「では、許可をいただきます」
「どうぞ」
その余裕が、罠の深さを示していた。
記録室の外には、閲覧と搬送の記録板がかかっていた。
交遊録の原簿は毎夜、記録係が封印する。翌朝、学院事務局が写しを作り、週末には礼拝堂へ一部を送る。理由は「品行教育への助言を受けるため」。その下には、両面神教会から学院へ支払われる記録管理費の項目があった。
生徒同士の噂話に、なぜ教会が金を出すのか。
ノエルの頁を見られなくても、原簿がどこを通るかは分かった。
礼拝堂か、学院事務局。
どちらかに写しが残っている。
記録室を出たところで、誰かがわたしの名を呼んだ。
「エリザベス!」
振り返る。
栗色の巻き髪を揺らし、一人の令嬢が駆けてくる。
「ルナ……」
ルナ・ベルナール。
前の人生で、学院時代に最も長く隣にいてくれた友人。わたしが断罪されたとき、最後まで手紙を書こうとしてくれた人。
初めての舞踏会で足を踏んだわたしを笑わず、自分もわざと踏み返してくれた。昼食に誘う勇気のなかったわたしの前へ、何も聞かず皿を置いた。わたしが「平気」と言うたび、本当にそうかと二度だけ尋ねてくれた。
三度は聞かなかった。
それが彼女の優しさだった。
彼女はわたしの両手を取り、笑った。
「本当にあなたなのね。入学式では遠くて、話しかけられなくて。会いたかった」
「わたしも」
胸の奥が温かくなる。
五年前へ戻ってから、失った人と再会するたびに思う。
まだ、やり直せる。
今度こそ、大切にできる。
ルナの指が、わたしの袖を握った。
その視線が、わたしの背後へ動く。
回廊の向こうを、セシリアが歩いていた。
白い手袋が軽く上がる。
ルナの指が離れた。
「ごめんなさい。次の授業が」
「まだ鐘は鳴っていないわ」
「準備があるの」
笑顔のまま後ずさり、逃げるように去っていく。
残された袖には、爪でつまんだ皺があった。
『脅されてる』
窓の中でリゼが言う。
「分かっています」
『追う?』
「今追えば、彼女をもっと困らせる」
『じゃあ放っておく?』
答えられない。
相手のために何もしないことと、相手の意思を尊重することは、よく似た顔をしている。
どちらを選んでも、前の人生の後悔がついてくる。
「アルバート公爵令嬢」
低い声がした。
回廊の柱の陰に、ルーカスが立っていた。学院の北境奨学金を監査するため、朝から校内に来ていると聞いていた。
「北境伯。先ほどから見ていらしたのですか」
「見るだけで動かなかった、と責められても仕方がない」
「責めておりません」
「なら、自分を責めるのもやめたほうがいい」
どうして分かるのだろう。
わたしが返事を探していると、彼は封をした小さな札を差し出した。北境伯家の狼の印がある。
「困ったら北へ使いを。名前を書かなくても、この封を見せれば私に届く」
「助けていただく理由がありません」
「理由は、助けが必要になってから考える」
「貸しになります」
「生きていれば返せる」
銀の窓枠で、リゼが頷いている。
『もらっとけ』
わたしは札を受け取った。
「ありがとうございます」
ルーカスはそれ以上踏み込まず、一礼して去った。
手の中の封は温かかった。
*
消灯の鐘が鳴って一時間後、寮室の扉が三度叩かれた。
決められた合図ではない。
リゼが鏡の中で身構える。
「どなた?」
「わたし」
かすかな声。
扉を開けると、ルナが立っていた。外套も着ず、室内履きのまま。頬は涙で濡れている。
「入って」
「だめ。長くいられない」
「誰に何を言われたの?」
ルナは首を振った。
「名前は言えない」
「言えば、何が起こるの」
「弟が学院へ入れなくなる。父の領地へ、教会の施療院が来なくなる。そう言われた」
「誰に?」
「それを言ったら、同じよ」
脅迫者の名は言えない。
けれど、家族と領民を同時に握れる者は限られている。
学院だけの問題ではない。交遊録の鎖は、教会と貴族社会の外まで伸びている。
「家族だけでなく、領民まで人質に?」
肩が震える。
当たっていた。
「わたしに何をするよう命じられたの」
「それも、まだ言えないの」
「まだ?」
「ごめんなさい」
ルナは唇を噛み、わたしの袖を両手でつかんだ。
昼には離した手を、今度は必死に離すまいとしている。
「私、あなたを裏切らなきゃいけないの」
「ルナ」
「お願い、今のうちに嫌いになって」
「できません」
「どうして!」
「あなたが、嫌われに来た顔をしていないから」
ルナは声を殺して泣いた。
背中へ手を伸ばしかける。
触れてよいのか迷った間に、彼女は身を引いた。
「一つだけ、伝えに来たの」
廊下を確かめ、鏡へ怯えた目を向ける。
リゼの姿は、わたしにしか見えないはずだった。
それでもルナは、そこに誰かがいると知るように声を落とした。
「あなたの秘密を、セシリア様はもう知っている」




