第5話 紅茶は甘い嘘の味
毒を入れた紅茶だけが、冷めるのが早かった。
それに気づいたのは、ティアが床へ倒れたあとだった。
*
「鏡は、何でも覚えているの?」
茶会が始まる一時間前。
わたしは南客間へ続く控室で、手袋の皺を伸ばしていた。
卓上鏡の中では、リゼが銀髪を指へ巻きつけている。昨夜、身体を貸したせいか、いつもより輪郭が濃い。
「何でもじゃない。一日に一度、数呼吸だけ。鏡が見たものを映せる」
「どの場面を映すかは?」
「鏡が決める。こっちが頼んでも、どうでもいい場面を返してくることがある」
「あなたにも、仕組みは分からないのね」
「生まれたときから使えたから」
言ってから、リゼは眉を寄せた。
「たぶん」
「たぶん?」
「アタシ、生まれたときを覚えてない」
軽く言った声の底に、苦いものが混じった。
「最初の記憶は?」
「暗い鏡。泣いてるあんた。白い手」
白い手。
処刑台で合図を出した、アウグストの指を思い出す。
詳しく聞こうとしたとき、扉が叩かれた。
「お嬢様、皆様がおそろいです」
アンネの声だった。
鏡の中のリゼが、昨夜の席次表を掲げる。
『エリザベス。ティア。セシリア』
三人の名が隣り合うよう、何者かが席を変えた。
「記録が役に立たなくても、わたしが見ます」
「何を?」
「全部」
鏡へそう約束し、客間へ向かった。
*
婚約発表から三か月後。学院入学を半年後に控えた令嬢たちへ披露する婚約祝賀の茶会は、白薔薇を飾った南客間で開かれた。
招かれた令嬢は十二人。王立ルミナス学院への入学を半年後に控えた者が多い。学院での友人関係を作るための、穏やかな顔をした選別の場だった。
中心にいるのは、セシリア・ローゼンハイム伯爵令嬢。
淡い金髪と青い瞳。白い手袋。十六歳にして聖女と呼ばれる彼女が微笑むと、周りの令嬢も安心したように笑った。
「ご婚約、おめでとうございます。エリザベス様」
「ありがとうございます、セシリア様」
「王子殿下に選ばれるなんて、わたくしたちの誇りですわ」
祝福の言葉は滑らかだった。
壁の鏡で、リゼが舌を出す。
『甘い』
セシリアの隣には、ティアという子爵令嬢が座っていた。栗色の髪を二つに編み、何度も膝の上で指を組み直している。
「ティア様、お寒いの?」
「いいえ。ただ、こうしたお席に慣れていなくて」
右手の人差し指に、淡い青の粉がついていた。
礼法と同じくらい詰め込まれた薬学の授業で、似た色を見たことがある。液体へ溶けると熱を奪う鉱薬だ。ただ、菓子の着色にも使う。色だけで罪にはできない。
給仕が紅茶を注ぐ。
同じポットから、順番に。
湯気の量も、琥珀色の濃さも変わらない。ティアのカップにも、給仕が離れたあとまで細い湯気が立っていた。
最後のカップが置かれたとき、客間の扉が開いた。
「北境伯ルーカス・フォン・ヴァルデマール様でございます」
全員が立ち上がった。
今日は軍服の肩に王家の紋章がある。第一王子から婚約祝いの品を預かってきたらしい。
ルーカスは一礼し、銀細工の箱をカタリーナへ渡した。わたしと目が合っても、昨夜のことを知っている素振りはない。
「どうぞお掛けください」
セシリアの声で、皆が席へ戻る。
ほんの数呼吸。
誰も、自分の椅子の下など見ていなかった。
わたしはルーカスから受け取った祝辞を読み上げ、茶会が再開した。席へ戻ったとき、ティアのカップからだけ湯気が消えていた。
ティアがカップを持ち上げる。
左手で取っ手を持ち、右手を受け皿へ添えた。
一口。
二口。
「美味しい……」
その声が途中で切れた。
カップが床へ落ちる。
白い絨毯へ紅茶が広がり、ティアの身体が椅子から崩れ落ちた。
悲鳴が上がる。
「ティア様!」
「誰か、医師を!」
セシリアが真っ先に駆け寄り、ティアの肩を抱いた。
青ざめた唇。浅い呼吸。意識はないが、脈はある。
「皆様、カップへ触れないでください」
わたしが言うと、視線が一斉に集まった。
その間に、一人の令嬢が足元で何かを見つけた。
「これは……?」
小さな青い瓶。
落ちていたのは、わたしの椅子の下だった。
部屋の空気が変わる。
「瓶を拾ってはいけません」
「でも、エリザベス様のお席から」
「先ほど、ティア様のお茶へ手を伸ばしていらしたわ」
「角砂糖を勧めただけです」
「でしたら、なぜ毒瓶が?」
疑いは火より速く広がった。
前の人生と同じだ。
毒入りの杯。わたしの席から出た証拠。説明するほど、用意していた言い訳だと思われる。
処刑台の木枠が、首へ戻ってきた気がした。
息が浅くなる。
視界が滲む。
「エリザベス様……泣いていらっしゃるの?」
誰かが囁いた。
頬を涙が流れていた。
止めようとしても止まらない。
怖い。
また誰も信じてくれず、同じ場所へ連れていかれるのが怖い。
同時に、腹が立っていた。
わたしの恐怖まで、罪の証拠に使われることに。
壁の鏡で、リゼが叫んでいる。
『見ろ。泣くなじゃない。見ろ!』
わたしは涙を拭かなかった。
見る。
床へ落ちたカップ。絨毯の染み。ティアの手。わたしの椅子。並んだ名前札。
紅茶の湯気。
ティアのカップからだけ、湯気が消えている。
「医師が来るまで、窓を開けてください。皆様はその場に」
「命令なさるおつもり?」
セシリアがティアを抱いたまま見上げる。
「あなたに、その資格があるのかしら」
「疑われているからこそ、逃げずに確かめます」
声は震えていた。
それでも、一歩も退かなかった。
「ティア様の紅茶だけが冷めています」
卓上のカップへ順に手をかざす。どれもまだ熱い。わたしのものも、セシリアのものも。
「同じポットから、同じ順番で注がれました。ティア様は六番目。十二番目のカップにさえ湯気があるのに、これだけが冷たい」
「毒のせいでは?」
「ええ。青い瓶の粉は、液体から熱を奪います。給仕直後、ティア様のカップにも湯気がありました。消えたのは、皆が立ち、わたしが祝辞を読んでいた間です。粉が入ったのは、その数十呼吸のどこかです」
青い瓶には触れず、その口を示した。栓の縁に淡い青の粉が残っている。
「でも、エリザベス様が入れたのかもしれないわ」
「わたしは祝辞を読んでいました。十二人の前で」
「瓶を渡して、ティア様ご自身に入れさせた可能性も」
セシリアの言葉に、ティアの右手を見る。
人差し指の青い粉。
「その可能性はあります」
令嬢たちがざわめく。
「お認めになるの?」
「ティア様がご自分で入れた可能性を、です」
わたしは膝をつき、ティアの右手を皆に見えるよう持ち上げた。
「粉が指紋の溝に入っています。けれど、ティア様は左手でカップを持っていた。右手の粉は、受け皿へ触れただけではつきません」
青い瓶を見つけた令嬢が息をのむ。
「毒を、ご自分で……?」
「量はごく少ないはずです。致死量なら、これほど安定した呼吸にはなりません」
「決めつけですわ」
セシリアは微笑んでいた。
完璧で、優しい聖女の笑み。
鏡の中で、リゼが顔をしかめる。
『甘すぎる』
「まだあります」
わたしはルーカスを見る。
「北境伯。昨夜お持ちだった席次表を、お借りできますか」
客間が静まり返った。
ルーカスは理由を尋ねず、軍服から折り畳んだ紙を出した。
「王宮へ提出された最初の写しだ」
そこでは、ティアの席はわたしの正面だった。
「今朝、席が変えられています。わたしの隣へ。ティア様が倒れ、わたしの椅子の下から瓶が見つかるように」
「公爵夫人のご指示では?」
「お母様の筆跡ではありません」
「ご家族をかばっているだけかも」
「でしたら、鏡に尋ねましょう」
わたしは壁の大鏡へ歩み寄った。
左手を銀の面へ触れる。
「覚えているものを、見せて」
鏡面が暗くなった。
やがて、少し前の客間が映る。
ルーカスの入室で、全員が立ち上がる。十二人のドレスが鏡の視界を横切る。その陰から、白い手袋の手が伸びた。
青い瓶を、わたしの椅子の下へ置く。
たった三呼吸。
映像はそこで消えた。
全員の視線が、セシリアの白い手袋へ集まる。
右手首の真珠ボタンが、一つなくなっていた。
鏡の映像の手袋にも、同じ場所に空の糸が揺れていた。
だがセシリアは驚かなかった。小さな銀のバッグを開き、真珠のボタンを卓上へ置く。糸がついたまま、綺麗に外されていた。
「茶会の前に緩んでいたので、外しました。白い手袋なら給仕も皆様もつけています。これで、わたくしの手だと決まるのかしら」
決まらない。
鏡は一歩先の証拠ではなく、誰かが用意した疑いへ、わたしたちを一歩だけ近づけたにすぎない。
「鏡が偽りを映さないと、誰が証明できます?」
セシリアの声は静かだった。
「証明できません」
わたしは答えた。
「だから、鏡だけを証拠にはしません。紅茶の温度、ティア様の指、変更された席次。そして、瓶を置いた手。この四つは犯人の名ではなく、同じ手順が用意されていたことを示しています」
涙はまだ流れている。
けれど声は、もう震えていなかった。
「皆を立たせる。ティア様が自分のカップへ粉を入れる。わたしの隣で倒れる。その隙に、わたしの席から毒瓶を見つけさせる」
一つずつ、逃げ道を閉じる。
「それが、今日用意されていた悪女の作り方です」
ティアの睫毛が震えた。
「ごめん、なさい……」
意識を取り戻した彼女が、かすれた声を漏らす。
「弟の学院推薦を、取り消すと、言われて……」
「もう話さなくていいわ」
セシリアが優しくその髪を撫でた。
労わる仕草さえ、誰が弱いかを示すために見えた。
「エリザベス様は、お怒りにならないのですね」
「怒っています」
「そうは見えません」
「怒りは、わたしの一番強い味方に預けてあります」
鏡の中で、リゼが目を見開いた。
それから、誰よりも悪そうに笑う。
セシリアの微笑みが、初めてほんの少し歪んだ。
「なら、その味方ごと悪女にしてあげる」
声は、わたしにしか届かなかった。
医師が駆け込み、ティアは別室へ運ばれた。茶会は中止になった。
令嬢たちは誰もわたしを責めなかったが、誰も鏡のことを尋ねなかった。見てはいけないものを見た顔で、一人ずつ帰っていく。
最後に残ったセシリアは、扉の前で振り返った。
「悪女は生まれない」
金色の髪が、午後の光を受けて聖女の輪のように輝く。
「作られるのです」
彼女はわたしの横を通り過ぎるとき、耳元へ唇を寄せた。
「今日は、鏡と北境伯がいましたものね」
息が止まる。
セシリアは鏡の中のリゼを、まっすぐ見ていた。
「次は、ちゃんとあなたを一人にする」




