第4話 夜の散歩者
夜の匂いは、昼より正直だ。
だから、あの男だけ何の味もしないのが気に入らなかった。
アタシは窓枠に片足をかけ、三階から庭を見下ろした。
鏡の中で五年。外へ出た最初の夜にしては、悪くない眺めだ。
風には湿った土と薔薇の匂い。遠くの厨房から焼いた林檎の甘さ。夜番の兵士は面倒くさい、庭師は帰りたい、廊下を歩く侍女は恋人に会いたい。
口に出さなくても、人間はだいたい匂う。
嘘は甘い。本音は苦い。
けれど月明かりの下に立つ黒髪の男からは、何も来なかった。
砂糖も、薬草も、焦げた蜜もない。
まるで舌のない相手をなめているみたいだった。
「三階です」
背後の姿見から、エリザベスの声がする。
「見れば分かる」
「階段を使って」
「見つかる」
「落ちます」
「あんた、心配性だね」
「この身体は、わたしの身体でもあります」
「アタシのでもある」
窓の外へ身を乗り出す。
「だから落とさない」
壁を這う蔦へ手をかけ、石の出っ張りへ裸足を置く。鏡の中にいたころ、庭へ忍び出す使用人を何度も見ていた。どこを踏めば音がせず、どの窓から死角になるかも知っている。
エリザベスの小さな悲鳴を背中に聞きながら、二階の庇へ飛び移った。
身体が軽い。
息が冷たい。
足の裏が痛い。
全部、嬉しかった。
鏡の中にも景色はあった。光も、色も、音も届いた。
でも風は吹かない。雨は冷たくない。花へ顔を寄せても匂いはせず、走っても胸は苦しくならない。
エリザベスが触れたものだけが、薄い膜を何枚も挟んで伝わってきた。痛みも喜びも、いつも誰かの残りものだった。
今は石壁のざらつきが手のひらを削り、枝が寝間着を引っかく。
怪我をすればエリザベスも傷つく。分かっている。
それでも、自分で選んだ痛みがこんなに鮮やかだとは知らなかった。
最後の枝から芝生へ降りると、男は剣の柄に手を置いた。
「窓から出るとは思わなかった」
「待ち伏せしたくせに、予想が甘い」
「エリザベス嬢」
「それ、誰のこと?」
男の灰色の目が細くなる。
笑わない。怒らない。驚きもしない。
黒い軍服の左肩には、紋章を外した縫い跡が残っていた。王家の近衛なら、紋章を隠して公爵邸へ入る理由がない。
「北境伯ルーカス・フォン・ヴァルデマール」
名前を呼ぶと、今度はわずかに眉が動いた。
「顔を知っていたか」
「昼のアタシが知ってた」
「昼のあなた」
「言葉尻を拾う男、嫌われるよ」
「すでに嫌われている」
苦味がない。
強がりなら、舌の奥に甘さが残るはずなのに。
アタシは彼の周りを半円に歩いた。男は身体ごと追わず、視線だけを動かす。戦場で背後を取られない人間の動きだ。
「王家の犬が、首輪を外して何してるの」
「今夜は王命で来ていない」
「なら不法侵入」
「あなたも似たようなものだろう」
「ここ、アタシの家」
「そうか」
否定しなかった。
普通なら、同じ身体を使う二人目の言葉など、狂人の戯言だと笑う。こいつは最初から、アタシがエリザベスではない可能性を数に入れている。
「なぜ窓を見てた?」
「夢で見た」
やっと甘さが来ると思った。
何もない。
「五年前から、同じ夢を見る。銀髪の令嬢が処刑台に伏せ、刃が落ちる直前、足元の鏡にいる女だけが立ち上がる」
夜風が止まったように感じた。
「その女が、笑っていた」
「毎回、同じ?」
「途中までは。ある夜は刃が落ちる。ある夜は鏡が割れる。ある夜は、処刑台に誰もいない」
「夢なんて、頭が勝手に作る」
「そう思って記録した。日付、月齢、天候、夢の中で聞こえた鐘の回数。三十二回分ある」
「暇なんだね、北境伯」
「夢の翌日には必ず、北境の鏡が一枚曇った。偶然で片づけるには多い」
ぞくりとした。
この男は、予知夢を信じて会いに来たんじゃない。信じなくて済むだけの証拠を集め、それでも消えなかったから動いた。
「夢の中で、アタシは何か言った?」
「声は聞こえない。ただ、口が動いていた」
「読めた?」
「二つだけ。ごめん、と。次は、と」
処刑台でエリザベスへ告げた言葉。
胸の奥が冷える。
まだ起きていない未来を、こいつは五年前から見ていた。
「夢の女を口説きに来た?」
「確かめに来た」
「何を」
「今夜、窓が開くかどうかを」
アタシは笑った。
「開かなかったら?」
「帰る。明日の、学院入学前の婚約祝賀茶会で、エリザベス嬢を遠くから見るだけだ」
「開いた」
「ああ」
「夢が当たって、おめでとう」
「喜んではいない」
初めて、かすかな苦味がした。
本音。
でも薄すぎて、何を悔やんでいるのか分からない。
「北境伯が、十五歳の公爵令嬢の窓を見張る理由になってない」
「北境を守るためだ」
また、無味。
嘘ではない。けれど、本当の理由へ触れた味もしない。
「王都では、証拠がなければ動けないと言う者が多い」
ルーカスの指が剣の鍔をなぞる。
「私も、そう言って動かなかった夜がある」
「誰かが死んだ?」
答えはなかった。
沈黙にも味があるはずなのに、やはり何も感じない。
「今回は、証拠がなくても来た。それだけだ」
たぶん、戦か政争で仲間を見捨てた。
その償いに、予知夢の少女を守ろうとしている。
そう読んだ。
間違っている気もした。
「昼のあなたが隠している痛みを、夜のあなたが歩かせている」
ルーカスが言った。
胸の奥で、エリザベスが息をのむ気配がした。
「見えるふりは高くつくよ」
「代価なら払う」
「アタシたちが何者か、言いふらす?」
「私が見たのは、夜に散歩する令嬢一人だ」
「嘘じゃないのが腹立つ」
「あなたは、嘘が分かるのか」
「さあね」
今の言葉は、自分でも味がしなかった。
「一つ聞く」
ルーカスがアタシを見る。
「昼と夜、どちらが本物だ」
「質問を間違えてる」
「なら、正してくれ」
「どっちを本物にしたい、って聞くんだよ」
「どちらも嘘ではないなら、選ぶ理由がない」
また無味だった。
綺麗ごとなら甘くなる。誰にでも言える言葉なら、水みたいに薄い苦味が残る。
なのに、本当に何もない。
「ますます気に入らない」
「よく言われる」
ルーカスは軍服の内側から、折り畳んだ紙を出した。明日の茶会の席次表だった。
「王宮から届けられた写しだ。三度、席が変えられている」
「誰が?」
「記録上は、公爵夫人の指示だ」
紙を受け取り、月光に透かす。消した跡の上へ新しい名が書かれていた。
エリザベス。ティア。セシリア。
三人が隣り合うように。
「黒い人の字じゃない」
「私もそう見た」
「これを渡して、何が欲しい?」
「まだ決めていない」
無味。
アタシは紙を寝間着の胸元へ押し込んだ。
「信用はしない」
「必要ない」
「でも使う」
「それでいい」
背を向けても、ルーカスは追ってこなかった。
明日の茶会は、この屋敷の南客間で開かれる。戻る途中、アタシは客間へ寄った。
壁には大きな鏡。銀の花瓶。磨かれたティーポット。鏡になるものはいくらでもある。
正面の鏡へ手を置く。
「覚えて」
鏡面がかすかに波打った。
一日に一度、ほんの数呼吸だけ、鏡が見た光景を呼び戻せる。
見られる範囲は鏡の正面だけ。音は残らない。呼び戻せるのは、その日のうちに一度きり。しかも、鏡が何を大事だと思うかはアタシにも選べない。
だから能力と呼ぶには、ずいぶん気まぐれだ。
アタシは銀の花瓶を鏡の前へ移し、ティーポットと席の半分が映り込む角度へ向けた。花瓶の腹にも鏡の像が重なる。どちらかが覆われても、もう一方には残る。
席次表どおりなら、エリザベスの椅子は鏡の正面だ。
昔は悪戯にしか使わなかった。明日は、違う使い方ができるかもしれない。
廊下へ出たところで、赤茶の髪の侍女と鉢合わせた。
「あ」
「見なかったことにして」
「それは、おいくらで?」
「は?」
侍女は燭台を掲げ、アタシの顔をまじまじと見た。
「お嬢様にしては、歩く音が楽しそうです」
「寝ぼけてるんじゃない?」
「わたし、アンネと申します。鼻だけはいいんです。寝ぼけた人は、もっと温かい匂いがします」
「犬?」
「人です。ところで、お嬢様が二人いるなら、給金も二人分ですか?」
「悲鳴を上げないの?」
「上げると給金が増えます?」
気に入った。
「増えない。でも黙ってたら、面白いものが見られる」
「では、そちらで」
アンネはあっさり頷き、客間の扉を閉めた。
「明日の茶会、銀の花瓶は動かさないで」
「理由を聞いても?」
「知らないほうが、いい顔で驚ける」
「承知しました。もう一人のお嬢様」
最初の鐘が鳴る前に部屋へ戻った。
約束どおり、身体を返す。
銀の冷たさが裏返り、アタシは鏡の中へ戻った。外でエリザベスが膝をつき、息を整える。
「窓から出ないという規則を追加します」
「契約違反はしてない」
「書いていなければ何をしてもよい、という意味ではありません」
「じゃあ、書き足せば」
文句を言いながら、エリザベスは帳面を開いた。
アタシは鏡の曇りへ、今夜知ったことを一つずつ書いた。
夢。処刑台。席次表。動けなかった夜。無味の言葉。
最後の一行だけ、少し迷った。
『あの男は味方になる。でも、アタシには味が分からなかった』




