↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/15

第4話 夜の散歩者

夜の匂いは、昼より正直だ。


 だから、あの男だけ何の味もしないのが気に入らなかった。


 アタシは窓枠に片足をかけ、三階から庭を見下ろした。


 鏡の中で五年。外へ出た最初の夜にしては、悪くない眺めだ。


 風には湿った土と薔薇の匂い。遠くの厨房から焼いた林檎の甘さ。夜番の兵士は面倒くさい、庭師は帰りたい、廊下を歩く侍女は恋人に会いたい。


 口に出さなくても、人間はだいたい匂う。


 嘘は甘い。本音は苦い。


 けれど月明かりの下に立つ黒髪の男からは、何も来なかった。


 砂糖も、薬草も、焦げた蜜もない。


 まるで舌のない相手をなめているみたいだった。


「三階です」


 背後の姿見から、エリザベスの声がする。


「見れば分かる」


「階段を使って」


「見つかる」


「落ちます」


「あんた、心配性だね」


「この身体は、わたしの身体でもあります」


「アタシのでもある」


 窓の外へ身を乗り出す。


「だから落とさない」


 壁を這う蔦へ手をかけ、石の出っ張りへ裸足を置く。鏡の中にいたころ、庭へ忍び出す使用人を何度も見ていた。どこを踏めば音がせず、どの窓から死角になるかも知っている。


 エリザベスの小さな悲鳴を背中に聞きながら、二階の庇へ飛び移った。


 身体が軽い。


 息が冷たい。


 足の裏が痛い。


 全部、嬉しかった。


 鏡の中にも景色はあった。光も、色も、音も届いた。


 でも風は吹かない。雨は冷たくない。花へ顔を寄せても匂いはせず、走っても胸は苦しくならない。


 エリザベスが触れたものだけが、薄い膜を何枚も挟んで伝わってきた。痛みも喜びも、いつも誰かの残りものだった。


 今は石壁のざらつきが手のひらを削り、枝が寝間着を引っかく。


 怪我をすればエリザベスも傷つく。分かっている。


 それでも、自分で選んだ痛みがこんなに鮮やかだとは知らなかった。


 最後の枝から芝生へ降りると、男は剣の柄に手を置いた。


「窓から出るとは思わなかった」


「待ち伏せしたくせに、予想が甘い」


「エリザベス嬢」


「それ、誰のこと?」


 男の灰色の目が細くなる。


 笑わない。怒らない。驚きもしない。


 黒い軍服の左肩には、紋章を外した縫い跡が残っていた。王家の近衛なら、紋章を隠して公爵邸へ入る理由がない。


「北境伯ルーカス・フォン・ヴァルデマール」


 名前を呼ぶと、今度はわずかに眉が動いた。


「顔を知っていたか」


「昼のアタシが知ってた」


「昼のあなた」


「言葉尻を拾う男、嫌われるよ」


「すでに嫌われている」


 苦味がない。


 強がりなら、舌の奥に甘さが残るはずなのに。


 アタシは彼の周りを半円に歩いた。男は身体ごと追わず、視線だけを動かす。戦場で背後を取られない人間の動きだ。


「王家の犬が、首輪を外して何してるの」


「今夜は王命で来ていない」


「なら不法侵入」


「あなたも似たようなものだろう」


「ここ、アタシの家」


「そうか」


 否定しなかった。


 普通なら、同じ身体を使う二人目の言葉など、狂人の戯言だと笑う。こいつは最初から、アタシがエリザベスではない可能性を数に入れている。


「なぜ窓を見てた?」


「夢で見た」


 やっと甘さが来ると思った。


 何もない。


「五年前から、同じ夢を見る。銀髪の令嬢が処刑台に伏せ、刃が落ちる直前、足元の鏡にいる女だけが立ち上がる」


 夜風が止まったように感じた。


「その女が、笑っていた」


「毎回、同じ?」


「途中までは。ある夜は刃が落ちる。ある夜は鏡が割れる。ある夜は、処刑台に誰もいない」


「夢なんて、頭が勝手に作る」


「そう思って記録した。日付、月齢、天候、夢の中で聞こえた鐘の回数。三十二回分ある」


「暇なんだね、北境伯」


「夢の翌日には必ず、北境の鏡が一枚曇った。偶然で片づけるには多い」


 ぞくりとした。


 この男は、予知夢を信じて会いに来たんじゃない。信じなくて済むだけの証拠を集め、それでも消えなかったから動いた。


「夢の中で、アタシは何か言った?」


「声は聞こえない。ただ、口が動いていた」


「読めた?」


「二つだけ。ごめん、と。次は、と」


 処刑台でエリザベスへ告げた言葉。


 胸の奥が冷える。


 まだ起きていない未来を、こいつは五年前から見ていた。


「夢の女を口説きに来た?」


「確かめに来た」


「何を」


「今夜、窓が開くかどうかを」


 アタシは笑った。


「開かなかったら?」


「帰る。明日の、学院入学前の婚約祝賀茶会で、エリザベス嬢を遠くから見るだけだ」


「開いた」


「ああ」


「夢が当たって、おめでとう」


「喜んではいない」


 初めて、かすかな苦味がした。


 本音。


 でも薄すぎて、何を悔やんでいるのか分からない。


「北境伯が、十五歳の公爵令嬢の窓を見張る理由になってない」


「北境を守るためだ」


 また、無味。


 嘘ではない。けれど、本当の理由へ触れた味もしない。


「王都では、証拠がなければ動けないと言う者が多い」


 ルーカスの指が剣の鍔をなぞる。


「私も、そう言って動かなかった夜がある」


「誰かが死んだ?」


 答えはなかった。


 沈黙にも味があるはずなのに、やはり何も感じない。


「今回は、証拠がなくても来た。それだけだ」


 たぶん、戦か政争で仲間を見捨てた。


 その償いに、予知夢の少女を守ろうとしている。


 そう読んだ。


 間違っている気もした。


「昼のあなたが隠している痛みを、夜のあなたが歩かせている」


 ルーカスが言った。


 胸の奥で、エリザベスが息をのむ気配がした。


「見えるふりは高くつくよ」


「代価なら払う」


「アタシたちが何者か、言いふらす?」


「私が見たのは、夜に散歩する令嬢一人だ」


「嘘じゃないのが腹立つ」


「あなたは、嘘が分かるのか」


「さあね」


 今の言葉は、自分でも味がしなかった。


「一つ聞く」


 ルーカスがアタシを見る。


「昼と夜、どちらが本物だ」


「質問を間違えてる」


「なら、正してくれ」


「どっちを本物にしたい、って聞くんだよ」


「どちらも嘘ではないなら、選ぶ理由がない」


 また無味だった。


 綺麗ごとなら甘くなる。誰にでも言える言葉なら、水みたいに薄い苦味が残る。


 なのに、本当に何もない。


「ますます気に入らない」


「よく言われる」


 ルーカスは軍服の内側から、折り畳んだ紙を出した。明日の茶会の席次表だった。


「王宮から届けられた写しだ。三度、席が変えられている」


「誰が?」


「記録上は、公爵夫人の指示だ」


 紙を受け取り、月光に透かす。消した跡の上へ新しい名が書かれていた。


 エリザベス。ティア。セシリア。


 三人が隣り合うように。


「黒い人の字じゃない」


「私もそう見た」


「これを渡して、何が欲しい?」


「まだ決めていない」


 無味。


 アタシは紙を寝間着の胸元へ押し込んだ。


「信用はしない」


「必要ない」


「でも使う」


「それでいい」


 背を向けても、ルーカスは追ってこなかった。


 明日の茶会は、この屋敷の南客間で開かれる。戻る途中、アタシは客間へ寄った。


 壁には大きな鏡。銀の花瓶。磨かれたティーポット。鏡になるものはいくらでもある。


 正面の鏡へ手を置く。


「覚えて」


 鏡面がかすかに波打った。


 一日に一度、ほんの数呼吸だけ、鏡が見た光景を呼び戻せる。


 見られる範囲は鏡の正面だけ。音は残らない。呼び戻せるのは、その日のうちに一度きり。しかも、鏡が何を大事だと思うかはアタシにも選べない。


 だから能力と呼ぶには、ずいぶん気まぐれだ。


 アタシは銀の花瓶を鏡の前へ移し、ティーポットと席の半分が映り込む角度へ向けた。花瓶の腹にも鏡の像が重なる。どちらかが覆われても、もう一方には残る。


 席次表どおりなら、エリザベスの椅子は鏡の正面だ。


 昔は悪戯にしか使わなかった。明日は、違う使い方ができるかもしれない。


 廊下へ出たところで、赤茶の髪の侍女と鉢合わせた。


「あ」


「見なかったことにして」


「それは、おいくらで?」


「は?」


 侍女は燭台を掲げ、アタシの顔をまじまじと見た。


「お嬢様にしては、歩く音が楽しそうです」


「寝ぼけてるんじゃない?」


「わたし、アンネと申します。鼻だけはいいんです。寝ぼけた人は、もっと温かい匂いがします」


「犬?」


「人です。ところで、お嬢様が二人いるなら、給金も二人分ですか?」


「悲鳴を上げないの?」


「上げると給金が増えます?」


 気に入った。


「増えない。でも黙ってたら、面白いものが見られる」


「では、そちらで」


 アンネはあっさり頷き、客間の扉を閉めた。


「明日の茶会、銀の花瓶は動かさないで」


「理由を聞いても?」


「知らないほうが、いい顔で驚ける」


「承知しました。もう一人のお嬢様」


 最初の鐘が鳴る前に部屋へ戻った。


 約束どおり、身体を返す。


 銀の冷たさが裏返り、アタシは鏡の中へ戻った。外でエリザベスが膝をつき、息を整える。


「窓から出ないという規則を追加します」


「契約違反はしてない」


「書いていなければ何をしてもよい、という意味ではありません」


「じゃあ、書き足せば」


 文句を言いながら、エリザベスは帳面を開いた。


 アタシは鏡の曇りへ、今夜知ったことを一つずつ書いた。


 夢。処刑台。席次表。動けなかった夜。無味の言葉。


 最後の一行だけ、少し迷った。


『あの男は味方になる。でも、アタシには味が分からなかった』


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。