第3話 完璧令嬢の作り方
朝五時。
今日の最初の授業は、泣かずに痛がる練習だった。
「指を」
カタリーナの命令に従い、わたしは右手を机へ置いた。
継母は細い銀の定規で、わたしの第二関節を打つ。
乾いた音がした。
「痛みを否定してはいけません。否定は嘘になります。けれど、感情のまま訴えれば相手へ責任を負わせる。高位の令嬢には許されないことです」
「はい、お母様」
「今の表情は、相手を責めています」
もう一度、定規が落ちた。
指先が痺れる。
「痛うございます。ですが、お気になさらないでください」
「眉が寄っています」
「痛うございます。ですが――」
「声が低い。怒っているように聞こえます」
三度目。
鏡の中で、リゼが定規を蹴り飛ばす真似をした。
回帰してから三か月。王家との婚約発表は、戻った翌日に予定どおり行われた。明日は学院入学を半年後に控えた令嬢たちへの祝賀茶会だ。
その間に、姿見だけでなく、銀盆や窓硝子にも、集中すれば彼女の姿が見えるようになっていた。
わたしが痛いと言えないたび、リゼが代わりに顔をしかめる。
わたしが笑うたび、リゼが代わりに怒る。
契約を結んだ夜から、彼女は毎晩、鏡の曇りへ言葉を残した。
『昼食のスープ、まずい』
『王子の手紙、三行で眠くなった』
『黒い人の定規、折っていい?』
役に立たない書き置きばかりに見えて、その一番下には必ず、誰が部屋へ入り、何を動かし、どの扉に新しい鍵が増えたかが記されていた。
わたしが見落としてきたものを、リゼは怒りながら見ていた。
『噛みつけ』
鏡の曇りに、乱暴な文字が浮かんだ。
口元が緩みかけ、慌てて引き締める。
「何がおかしいのです」
「申し訳ございません」
「謝罪が早すぎます。今度は言葉だけに聞こえる」
遅ければ言い訳。早ければ虚言。
正しい謝罪は、カタリーナの胸の中にしかない。
「立ちなさい。微笑みの練習へ移ります」
壁際には三枚の鏡が並べられていた。
正面、右斜め、左斜め。逃げ場のない三方向から、公爵令嬢としての出来を測るための鏡だ。
「口角は指一本分。目元は緩めても、視線を下げない。王子殿下より賢く見えても、愚かに見えてもいけません」
わたしは教えられた角度で笑った。
右の鏡では、リゼが歯を見せて笑った。
『そんな男、退屈させてやれ』
笑いをこらえるのに、さきほどの痛みより苦労した。
朝食までの一時間で、微笑みを二十七回、謝罪を十二回、礼を九回やり直した。
食堂を出るころには、頬の筋肉が自分のものではないように固まっていた。
回廊を曲がった先で、小さな杖の音がした。
こつ。ずる。こつ。
足を引きずる少女が、侍女長マルタに手を引かれて歩いてくる。
淡い茶色の髪。細い肩。右脚を支える金属の補助具。
マリアンヌだった。
三日前、遠縁の家からアルバート公爵家へ引き取られた、わたしの義妹。
彼女が杖をつくたび、前の人生の大階段が脳裏に重なる。
折れた木。ねじれた足。わたしへ向けられた恐怖。
「お、お姉様」
マリアンヌが急いで礼をしようとして、杖を滑らせた。
考えるより先に手を伸ばす。
細い腕へ指が触れた瞬間、彼女の身体が強張った。
「ごめんなさい!」
謝ったのは、マリアンヌだった。
「わたしが、道を塞いで……」
わたしの手から逃げるように、マルタの後ろへ身を寄せる。
まだ何もしていない。
この少女は、前の人生を知らない。階段から落ちてもいない。
それなのに、どうして最初からわたしを恐れているの。
「こちらこそ、驚かせてごめんなさい」
言った途端、カタリーナの教えが頭をよぎった。
謝罪が早すぎる。
また間違えた。
『違う』
回廊の窓に、リゼの文字が走った。
『今のは、あんたが言いたくて言った』
マリアンヌは怯えながらも、わたしの右手を見ていた。赤く腫れた指の関節に気づき、唇を噛む。
「お姉様も、痛いのですか」
問いに答えられなかった。
痛い、と言えばいいだけなのに。
マリアンヌは補助具の留め金へ手を置いた。金属が皮膚へ当たる場所には、赤い擦り傷ができている。
「わたしは、痛いです」
告白するような小声だった。
「でも、お母様は、アルバート家の娘なら笑いなさいって」
自分を見ているようだった。
いいえ、この子が真似ているのは、今のわたしだ。痛みを隠し、先に謝り、相手を安心させようとする姿を、たった三日で覚えてしまった。
「痛いときは、痛いと言っていいのよ」
口から出た言葉に、自分が一番驚いた。
「お姉様は?」
「わたしは……練習中です」
マリアンヌが、初めてほんの少し笑った。
「お嬢様は我慢強くていらっしゃいますから」
マルタが代わりに答えた。灰色の髪を低くまとめ、腰には古い鍵束を下げている。
「幼いころから、一度も弱音を――」
「一度も?」
わたしが聞くと、マルタの目が揺れた。
「三歳までは、泣き方をご存じないような……いえ、わたくしの記憶違いでございます」
「三歳まで?」
「失礼いたしました。マリアンヌ様の装具を調整してまいります」
マルタは深く頭を下げ、義妹を連れて足早に去った。
『逃げたね』
窓の中でリゼが笑う。
「お嬢様」
玄関広間から、執事の張り詰めた声が届いた。
「アウグスト大司教猊下がお越しです」
左手の傷が疼いた。
*
アウグストは、処刑台と同じ微笑みでわたしを見た。
時間が戻っても、白い法衣も、美しすぎる指も変わらない。
「ご婚約、まことにおめでとうございます」
「光栄に存じます」
「王国の希望となるお方です。心身ともに健やかであらねばなりません」
応接室へ運ばれた姿見の前で、大司教は白い手袋を外した。鏡の縁を指でなぞり、裏側の刻印を確かめる。
医師が患者を診る手つきではなかった。
収穫前の果実を調べる商人の手だ。
「表面に微細な揺らぎがありますね」
鏡を打った朝のことだろうか。
リゼは現れない。
それでも、銀の奥で彼女が息を殺しているのが分かった。
大司教は懐から小さな銀の鐘を出し、鏡の前で一度鳴らした。
澄んだ音が部屋を満たす。
鏡面だけが、音の波に合わせてかすかに震えた。左手の傷が同じ間隔で脈打つ。
「最近、同じ夢を繰り返し見ますか」
「いいえ」
「鏡の中から声をかけられたことは?」
「ございません」
二つ続けて嘘をついた。
鏡の奥で、リゼが息を吐く気配がする。甘い、と笑われるかと思ったが、何も聞こえなかった。
「それは結構」
アウグストは安堵したように微笑んだ。
声が聞こえないことが、なぜ喜ばしいのか。
逆に言えば、聞こえる可能性を彼は知っている。
「教育に変更は?」
アウグストが尋ねる。
「必要ありません」
カタリーナは背筋を伸ばしたまま答えた。
「感情は、表情になる前に殺しなさいと教えています」
「殺すのではありません」
大司教は優しく訂正した。
「国のために整えるのです」
わたしの前で、わたしの感情について話している。
なのに二人とも、わたしへ意見を求めない。
アウグストは鏡の裏へ顔を寄せ、刻印を読んだ。その唇が、十八、と動いたように見えた。
「よく育っています」
満足そうに、彼は言う。
「実る日が楽しみだ」
処刑台の刃が落ちる音が、耳の奥で蘇った。
指先が震える。
隠さなければ。
怒りも、恐怖も、疑いも。
向かいの鏡で、リゼが先に笑った。
わたしはまだ、口角を上げていない。
ほんの一瞬だった。
次に瞬きをしたときには、鏡像はわたしと同じ無表情に戻っていた。
アウグストがこちらを見る。
「どうかなさいましたか」
「いいえ。祝福のお言葉を賜り、嬉しく存じます」
完璧な微笑みを浮かべる。
今度は、鏡の中のリゼが笑わなかった。
*
夜。
机の上に、契約書と一冊の帳面を広げた。
三か月の間に、リゼの書き置きは二十七枚になっていた。カタリーナが隠した手紙。夜ごと鏡を拭きに来る神殿の下男。西棟の閉ざされた部屋。どれも疑わしいが、決め手はない。
最初のころ、わたしは書き置きを一枚ずつ箱へ隠していた。見つかれば、独り言を書き連ねる病人だと思われる。そう言うとリゼは、『アタシを病気扱いするな』と三日間、返事をしなかった。
四日目の紙に、わたしは初めて命令ではなく謝罪を書いた。
『あなたの存在を、隠すべき恥のように扱いました。ごめんなさい』
返事は短かった。
『次は言って』
それから帳面は、鍵のかかる箱ではなく、二人の机の中央に置いてある。
今日の頁に、わたしは書き加えた。
『大司教は鏡の刻印を読んだ。十八と発音した可能性あり。マルタは三歳以前の話を避けた』
鏡の中から、低い声がする。
「文字だけじゃ足りない」
「何をするつもり?」
「歩く。聞く。鍵のかかった扉を、開けてみる」
「見つかれば、あなたではなくわたしが罰を受ける」
「だから許可を取ってる」
リゼが手のひらを鏡へつけた。
「貸して。最初の鐘までに返す」
契約の一条目。
互いの合意なく、身体を奪わない。
わたしは三か月、一度も同意しなかった。彼女を恐れていたからではない。そう自分に言い聞かせてきた。
本当は、自分がいなくなる感覚を知るのが怖かった。
けれど、待っているだけでは、また育てられたとおりのわたしになる。
鏡へ左手を重ねる。
「最初の鐘まで」
「分かってる」
「誰も傷つけないで」
「向こうから来なければね」
「リゼ」
「冗談」
たぶん、半分だけ。
「同意します」
銀の面が水のように沈んだ。
指先から冷たさが入り込み、腕、肩、胸を満たす。足元が裏返り、床が遠ざかった。
息を吸ったはずなのに、肺が動かない。
次の瞬間、わたしは鏡の内側に立っていた。
部屋にいるわたしの身体が、ゆっくり目を開く。
紫の瞳が、楽しそうに細められた。
「やっと外だ」
リゼは編み上げられた銀髪をほどいた。肩を前へ落とし、裸足のまま床を踏む。同じ身体なのに、立ち姿だけでまるで別人だった。
「狭い。寒い。最高」
「声は聞こえています」
鏡の内側から言うと、リゼが振り返る。
「知ってる。ちゃんと見てて」
彼女は窓の留め金を外した。
夜気が部屋へ流れ込み、銀髪を大きく揺らす。
その笑顔が、ふいに止まった。
月明かりの庭に、一人の男が立っている。
黒い軍服。剣。灰色の目。
肩からは、王家の紋章だけが外されていた。
男は三階の窓にいるリゼを、初めから待っていたように見上げていた。




