第2話 二人目の契約
「あんたを殺そうとしたのは、アタシじゃない。アタシを殺そうとしたのが、あんただよ」
扉の向こうで、もう一度ノックが鳴った。
「お嬢様?」
返事を待つ女の声は、侍女のものではなかった。
カタリーナ。
わたしの継母であり、この屋敷の女主人。
鏡の中でリゼが口元に指を立てる。
「三秒で泣きやんで。あの人、あんたの瞬きまで数えるから」
「泣いてなど――」
頬に触れると、指先が濡れた。
自分でも気づかなかった涙を拭い、寝間着の襟を整える。処刑された記憶を持つ二十歳のわたしが、十五歳の朝のために表情を作る。
「お入りください」
扉が開いた。
黒いドレスに身を包んだカタリーナは、朝の光の中でも影のように見えた。黒髪には一筋の乱れもない。視線が寝台、床の新聞、わたしの裸足へと動き、最後に姿見の前で止まる。
「起床時刻を七分過ぎています」
「申し訳ございません」
「謝罪は二秒以内に。遅い謝罪は反省ではなく、言い訳を探しているように見えます」
「申し訳ございません」
今度は二秒以内に答えた。
鏡の中で、リゼがうんざりした顔をする。
カタリーナは銀の盆から、一通の封筒を取った。王家の緑の封蝋と、両面神教会の白い紐がかかっている。
「明日の婚約発表に先立ち、王宮から準備書類が届きました。朝食後に目を通しなさい。十時から礼法、十一時から神学、午後は王子殿下にお見せする刺繍の仕上げです」
「承知いたしました」
「エリザベス」
立ち去りかけた継母が振り返る。
「鏡に向かって、誰と話していたのです」
心臓が大きく打った。
リゼは笑みを消し、身じろぎもしない。完璧な鏡像へ戻っている。
「悪夢を見ましたので、自分に落ち着くよう言い聞かせておりました」
「悪夢の内容は」
「覚えておりません」
嘘だった。
処刑台の木の匂いも、刃が落ちる音も、大司教の微笑みも、忘れられるはずがない。
カタリーナの視線がわたしの左手へ落ちる。薬指の白い傷を見つめたあと、彼女は何も言わずに扉を閉めた。
足音が遠ざかるのを待ってから、鍵をかける。
握り締めていた手を開くと、爪の跡が四つ並んでいた。
カタリーナは、わたしが嬉しいか悲しいかを尋ねない。求めるのは、いつも正しい時刻に正しい顔を見せることだけだ。婚約が決まった日でさえ、喜び方を教えられた。歯を見せず、頬を上げすぎず、王家への感謝が自尊心よりわずかに勝って見える微笑み。
前の人生では、それを愛情だと思おうとしていた。
少なくとも、見捨てられてはいない証拠だと。
「あんた、怒ってる」
鏡の中のリゼが言った。
「怒っていません」
「甘い」
「……何が?」
「あんたの嘘。蜂蜜を焦がしたみたいな味がした」
「ふざけないで」
「ふざけてない。嘘は甘い。本音は苦い。昔からそう」
わたしは机の上の燭台をつかんだ。
銀の台座は重い。鏡を砕くには十分だった。
「だったら答えて。わたしを悪女にしたとは、どういう意味?」
「そのままの意味」
「王子殿下の杯に毒を入れたの?」
「入れてない」
「マリアンヌを階段から突き落とした?」
「知らない」
「聖女の法衣を切り裂いたのは」
「アタシ」
迷いのない返事だった。
五年後の光景が、閉じたはずのまぶたの裏に蘇る。
奉献祭の朝。白い法衣が祭壇に広げられ、その胸元から裾まで刃物で裂かれていた。床には銀の鋏。握っていたのは、わたしの手。
聖女セシリアは裂けた布を胸に抱き、声もなく泣いていた。
周囲には甘い香が立ち込めていた。法衣へ縫い込まれた銀糸が朝日を反し、傷口のように赤く明滅していたのを覚えている。倒れた侍女たちは礼拝堂の隅へ運ばれ、誰も彼女たちを見なかった。皆が見ていたのは、鋏を持つ公爵令嬢と、傷つけられた聖女だけだった。
『違います』
そう言おうとしたのに、何が違うのか説明できなかった。
自分の足でここへ来たのか。なぜ鋏を握っているのか。白い布を切り裂く感触が、なぜ指に残っているのか。
目覚めたわたしには、そこへ至る記憶がなかった。
「なぜ、あんなことを」
「あの刺繍から甘い匂いがした。侍女が三人倒れた夜と同じ匂い。だから切った」
「説明すればよかったでしょう!」
「誰に? アタシが出たとき、口を開けば『公爵令嬢らしくない』って押し戻したのはあんただ」
「わたしは、あなたの存在すら知らなかった」
「でも、アタシが怒るたびに蓋をした。痛い、嫌だ、逃げたい。そう思うたび、あんたは笑った。行き場をなくしたものが、全部こっちへ落ちてきたんだよ」
燭台を握る手に力が入る。
怒りを押し込めた覚えは、いくらでもあった。
けれど、それが別の誰かを育てたなどと、信じられるはずがない。
「マリアンヌのことは」
問い直すと、リゼの顔から挑発が消えた。
「本当に、知らない」
「嘘なら味で分かるのでしょう」
「自分の嘘は分からない。都合のいい嘘も。本人が本当だと思い込んでる嘘も」
「便利な力ね」
「不便だから言ってる」
前の人生、冬の大階段でマリアンヌが倒れていた。
折れた杖。ねじれた足。わたしを見上げる怯えた目。
わたしは踊り場に立ち、右手を伸ばしていた。
周囲の令嬢たちは、わたしの右手を見ていた。
『触らないで』
マリアンヌが叫んだ。助け起こそうとした手は行き場を失い、その形だけが「突き落としたあとの手」として皆の記憶に残った。
裁判では、わたしが彼女の杖を隠したことになっていた。けれど杖を折った感触も、隠し場所も、わたしには分からなかった。
その直前だけが、黒く抜け落ちている。
「アタシが覚えてない夜は、ほかにもある。でも、あの階段の前後は何もない。眠ってたって感じとも違う。切り取られてる」
「信じろと?」
「好きにすれば」
リゼは鏡面すれすれまで顔を寄せた。
「砕く?」
わたしは燭台を振り上げた。
これを落とせば、前の人生の罪を作った女は消える。
処刑台へ続く未来を、今ここで断ち切れる。
振り下ろした燭台が鏡面に触れた瞬間、左手に鋭い痛みが走った。
「っ……!」
燭台が床へ落ちる。
薬指の傷から、赤い血が一筋流れていた。鏡の中でも、リゼが同じ手を押さえている。
銀の面には髪の毛ほどの亀裂が走り、その奥から黒い水のようなものがにじんだ。息をする間に亀裂は閉じたが、傷の痛みは残った。
「鏡を壊せば、アタシだけ消えると思った?」
「……分からない」
「アタシも分からない。でも、たぶん二人とも無事じゃない」
「それを先に言いなさい」
「先に聞きなよ」
腹が立った。
これほど誰かに腹を立てたのは、いつ以来だろう。
同時に、奇妙なほど頭が冷えていく。
「確かなことを、先に分けましょう」
わたしは血のにじむ薬指を押さえた。
「今の痛みは、わたしとあなたの両方にある。身体も一つ。これは変えられないのね」
「たぶん。鏡の中に逃げても、傷はついてくる」
「夜にしか交代できないことは?」
リゼはすぐには答えなかった。
「そういう決まりだって、最初から知ってた。でも、誰に教わったかは覚えてない。鏡の前じゃなきゃ駄目なのも同じ」
変えられない事実と、理由も知らずに信じている規則。その二つは同じではない。
リゼを消せないのなら、選択肢は二つ。恐れて目をそらすか、利用するか。
いいえ、違う。
利用すれば、わたしも彼女を道具として扱う者たちと同じになる。
彼女の言葉がすべて真実である保証はない。わたしを助ける保証もない。けれど、記憶のない時間に彼女が生き、わたしの知らない痛みを知っている。それだけは、左手の傷が証明していた。
信頼ではなくてもいい。
まず互いに裏切ったとき、何を失うかを同じ紙に書く。それなら、わたしにもできる。
「交渉しましょう」
リゼが目を瞬いた。
「アタシと?」
「前の人生を知る者同士として。あなたが本当に別の人格なら、命令ではなく条件を出します」
机に紙を広げ、羽根ペンを取る。
「一つ。互いの合意なく身体を奪わない」
「いいよ」
「二つ。相手が知らない間にしたことは、必ず書き置きに残す」
「字が気に入らなくても文句なし」
「読める字で書いて」
「努力はする」
「三つ。交代は当面、夜だけ。昼間に勝手な行動をしない」
「そもそも昼は出られない。鏡が硬くなる」
「では、異議は?」
「一つ追加。アタシを消す方法を探すなら、隠さない」
ペン先が止まる。
「分かりました」
「敬語、気持ち悪い」
「慣れて」
紙の末尾に、エリザベスと署名する。
鏡の中のリゼが指を動かすと、わたしの署名の下に曇りが集まり、乱暴な文字を作った。
リゼ。
「あなたを赦したわけではない」
「上等。アタシも、あんたに飼われる気はない」
目が合う。
笑うべき場面ではないのに、どちらからともなく口元が緩んだ。
死因を作った相手と、生き残るための契約を結ぶ。
正しいはずがない。
それでも、前の人生で一度も感じなかった高揚が、胸の奥に小さく灯っていた。
机の端に置いた封筒が目に入る。
「王宮からの準備書類……」
「さっきの黒い人、あれを鏡に見せないよう持ってた」
封蝋を切る。
中には婚約発表の式次第、妃教育の予定表、健康証明書が入っていた。その間から、一枚の薄い紙が滑り落ちる。
子どもの脚に装着する金属製の補助具の写しだった。
右下に、小さく名がある。
マリアンヌ。
「三か月後に家へ来る子の装具が、なぜわたしの婚約書類に?」
「裏」
リゼに言われ、封筒を返す。白い紐の下、糊で隠されていた部分に、細い文字が透けていた。
水を一滴含ませると、消されていた文章が浮かび上がる。
その筆跡を、わたしは知っていた。
処刑台で見た、美しい指の主。
署名は、アウグスト・フォン・レーゲンブルク。
その名の上に、処刑宣告よりも恐ろしい七文字があった。
『器育成経過 良好』




