第1話 処刑台の鏡
断頭刃が持ち上がる音は、思っていたよりも軽かった。
鎖が滑り、滑車が乾いた悲鳴を上げる。たったそれだけだ。人ひとりの人生を終わらせる準備にしては、あまりにも呆気ない。
処刑台の上で、わたし――エリザベス・フォン・アルバートは両手を背に縛られ、首を木枠に固定されていた。
眼下には王都の民が詰めかけている。雨も降っていないのに、広場の石畳は黒く濡れて見えた。誰かが投げた泥が、銀色の髪にこびりついている。
「毒婦!」
「王子殿下をたぶらかした悪女め!」
「聖女様に詫びろ!」
怒号が波のように寄せては返す。
婚約者だった第一王子への毒殺未遂。義妹マリアンヌに対する虐待。聖女への冒瀆。隣国との内通。
罪状はどれも、少しずつ覚えがあった。
ただし、語られている形ではない。
毒入りの杯を王子の手から払い落としたのは、わたしだ。階段から落ちかけたマリアンヌの腕をつかんだのも、わたしだ。聖女の奇跡に疑問を呈したのは、その陰で三人の侍女が血を吐いて倒れたからだった。
けれど、誰も続きを聞こうとはしなかった。
わたし自身でさえ、最後には説明することを諦めた。
正しくあろうとするたびに誰かが傷つき、守ろうとした相手ほど怯えた目でわたしを見る。そうして二十歳になった今、王国中が知っている。
エリザベス・フォン・アルバートは、救いようのない悪女だと。
「悔い改めなさい、エリザベス」
穏やかな声がした。
処刑台の脇に立つアウグスト大司教は、雪よりも白い祭服をまとっていた。六十を過ぎても、その顔には不思議な若々しさがある。とりわけ聖印を結ぶ指は、彫像のように美しかった。
「あなたの罪は、王国の安寧を乱しました。されど慈悲深き双面神ヤヌスは、迷える魂を拒みません」
彼は一度も声を荒らげなかった。
裁判のときも。地下牢でわたしに自白書を差し出したときも。
「最期に告白を」
わたしは唇を開いた。
ごめんなさい、と言えばいい。罪を認めれば、せめて家名への非難は薄れるかもしれない。
そう考えたのに、喉から出たのは別の言葉だった。
「わたしは、何だったのですか」
広場の怒号が一瞬だけ遠のいた。
大司教は目を細める。慈愛に満ちた微笑みだった。
「十八番目の器ですよ」
かすかな声は、群衆には届かなかっただろう。
「よく耐えました」
その言葉を聞いた途端、左手の薬指が焼けるように痛んだ。幼い頃から消えない、輪を描くような白い傷痕。縛られた指先を動かすと、縄が皮膚に食い込んだ。
十八番目。
何の、と問う時間は残されていない。
執行人が合図を待っていた。
わたしの顔の下には、大きな鏡が敷かれている。
処刑される罪人に己の顔を見せ、死の瞬間まで罪を悔いさせる――それが双面神殿の決まりだった。磨き上げられた銀鏡の中で、泥に汚れた女が頬を木台につけている。
ひどい顔だと思った。
青ざめた肌。切れた唇。何日も眠っていない目。
これが王国を惑わせた悪女だというのなら、ずいぶん惨めな怪物だ。
大司教の白い手が上がった。
そのとき、鏡の中のわたしが立ち上がった。
息が止まる。
現実のわたしは木枠に首を挟まれ、指一本自由にならない。それなのに鏡の中の女は、まるで水の底から浮かび上がるように身を起こした。
同じ銀髪。同じ紫の瞳。同じ左薬指の傷。
けれど、その目だけが違う。
泣き出しそうなくせに、不敵に笑っていた。
「あなたは……」
声にはならなかった。
鏡の女が唇を動かす。
――ごめん。
大司教の手が振り下ろされた。
鎖が外れる。
――次は、あんたが選んで。
刃が落ちた。
銀の光が視界を切り裂き、激しい衝撃とともに世界が暗転する。
痛みは、なかった。
*
「――っ!」
わたしは自分の喉を押さえて飛び起きた。
息ができる。
首がつながっている。
指先で何度確かめても、肌には傷ひとつなかった。
薄い天蓋。淡い藤色の壁紙。窓辺に置かれた白薔薇。朝の光を受けて静かに揺れるレースのカーテン。
そこはアルバート公爵邸にあった、わたしの寝室だった。
ただし、五年前の。
「そんな、はず……」
声が高い。両手も細く、処刑前に刻まれていた小さな傷がない。
左の薬指を見た。輪の形をした白い傷痕だけが、そこに残っている。
寝台から降りると、膝が頼りなく震えた。床に落ちていた新聞を拾う。日付を一度読み、もう一度読み直した。
王暦四百十二年、花月三日。
わたしが十五歳になって、七日目の朝。
第一王子との婚約が正式に発表される、前日だった。
胸の奥から、遅れて鼓動が湧き上がる。
生きている。
その事実は喜びより先に、罪悪感となって胸を刺した。
処刑の日、お父様は広場にいなかった。公爵家の紋章を剥奪され、病床から出ることさえ許されなかったからだ。わたしに仕えていた者たちも屋敷を追われ、何人かは裁判の証人として拘束されたと聞いた。
その父も、罪のない使用人たちも、今はこの屋敷のどこかで息をしている。
会いたい。
寝室を飛び出し、その胸にすがりつきたい。怖かった、苦しかった、助けてほしかったと、十五歳の娘のように泣いてしまいたい。
けれど、扉へ伸ばした手は途中で止まった。
五年前のわたしは、悪夢を見たくらいで取り乱さない。朝の支度を終え、食堂へ行き、完璧な微笑みで父と継母に挨拶する。それがアルバート公爵令嬢だった。
過去が本当に戻ったのなら、家族に心配をかけるわけにはいかない。
また、同じ考え方をしている。
気づいた途端、指先が冷えた。
まだ、何も失っていない。お父様も、罪のない使用人たちも、この屋敷も。マリアンヌが家に引き取られるのは、三か月先だ。王子の杯に毒が入るのは四年後。侍女たちが倒れる奉献祭は、さらにそのあと。
間に合う。
今度こそ、間違えなければ。
こみ上げた安堵に、吐き気が混じった。
前にもそう思ったことがあった気がする。
正しく選べば、すべてを守れる、と。
けれど、わたしの選んだ正しさは、最後にはわたしの首を落とした。
窓の向こうで、教会の鐘が鳴る。
一つ。二つ。三つ。
わたしは数えながら、部屋の隅にある姿見へ目を向けた。
処刑台の鏡と同じ、銀の縁取り。
十五歳のわたしが、白い寝間着のまま立っている。腰まで流れる銀髪も、幼さの残る頬も、記憶どおりだった。
右手を上げる。
鏡の中の右手も上がった。
首を傾ける。
同じ角度に傾く。
馬鹿なことをしていると思った。あれは死の間際に見た幻だ。恐怖で頭がおかしくなっていただけだ。
わたしが息を吐き、手を下ろす。
鏡の中の手は、下りなかった。
「……え」
鏡像は上げた手をひらひらと振った。
それから、にやりと笑う。
処刑台で見た、泣き出しそうな笑い方だった。
悲鳴は出なかった。
足も動かなかった。
ただ、逃げてはいけないと思った。
わたしはこれまで、苦しいことほど見ないふりをしてきた。傷ついても平気な顔をし、助けてほしくても黙っていた。そうすれば立派な公爵令嬢でいられると信じていた。
その結果が処刑台なら、今度は同じ選び方をしてはいけない。
姿見へ一歩近づく。
鏡像も近づいてきた。
もう一歩。
互いの指先が、薄い銀の面を挟んで重なる。
触れた場所から、水面のような波紋が広がった。
「わたしは、エリザベス・フォン・アルバート」
声の震えを押し殺し、鏡の中の女を見つめる。
「あなたは誰?」
問いかけると、鏡像は驚いたように目を見開いた。
やがて、その顔から笑みが消える。
「リゼ」
声が聞こえた。
鏡の向こうからではない。頭の内側に、直接落ちてくる。わたしより少し低く、早口で、礼儀を知らない声。
「それがアタシの名前。まあ、勝手につけたんだけど」
「リゼ……」
「そう。あんたの名前の、いらないところを切っただけ」
わたしが眉をひそめると、リゼは満足そうに笑った。
「その顔、懐かしい」
「あなたは、処刑台にいたの?」
「いた」
「わたしを、ここへ戻した?」
「半分正解」
「どういう意味?」
「説明してる暇はない。もうすぐ侍女が来る。今日のあんたは、昨日までのエリザベスを演じなきゃいけない」
言い終わる前に、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
リゼの言うとおりだった。
「待って。なぜあなたは五年後のことを知っているの」
「だって、見てたから」
「どこで?」
リゼは鏡の奥を指さした。
「ずっと、ここで」
背筋を冷たいものが走った。
寝台で泣いた夜も、王子に笑いかけた朝も、マリアンヌの手を取った日も。誰にも見せなかったはずのすべてを、この女は見ていたのだろうか。
「それなら、なぜ今まで話しかけなかったの」
「話しかけた」
「嘘」
「嘘じゃない。あんたが聞かなかっただけ」
リゼは人差し指で鏡をこつこつと叩いた。音はしない。それでも、左のこめかみの奥が鈍く疼いた。
「王子に初めて花をもらった日、アタシは捨てろって言った。聖女の奇跡で侍女が倒れた夜、部屋を出るなって叫んだ。裁判の日には、アウグストの指を見ろって、喉が裂けるほど叫んだ」
「聞こえなかったわ」
「聞きたくなかったんだよ。あんたは鏡を見るたび、自分の顔じゃなくて、他人に見せる顔ばかり探してたから」
言い返そうとして、言葉を失う。
笑う角度。顎の高さ。目元に浮かべる、冷静で知的な光。鏡の前で確かめていたのは、いつも公爵令嬢エリザベスの出来栄えだった。
その奥に誰かがいるかもしれないなど、考えたこともない。
「でも、今は聞こえる」
「あんたが一度死んだからね」
あまりにも平然と言われ、心臓が強く脈打った。
「死ねば、鏡と話せるようになるの?」
「普通は死んだら終わり。あんたは普通じゃなかった。アタシも、この傷も」
リゼが左手を上げる。
薬指の白い輪が、一瞬だけ赤く光ったように見えた。
「それ以上は、まだ言わない」
「なぜ?」
「全部話して、またあんたが人の言うとおりに動いたら、戻ってきた意味がない」
勝手な言い分だ。けれど処刑台で聞いた言葉が、胸の底から蘇る。
次は、あんたが選んで。
「あなたは、わたしなの?」
「さあね」
「敵?」
「それを決めるのは、あんた」
扉の前で足音が止まる。
リゼの表情から、ふいに挑発的な色が消えた。代わりに浮かんだのは、処刑台では見抜けなかった恐怖だった。
「久しぶり、エリザベス」
鏡越しに、左手が重なる。
同じ白い傷痕が、銀の面の上でひとつになった。
「今度は、アタシを殺さないで」
扉が叩かれる。
「お嬢様、お目覚めでございますか?」
返事をしなければならない。けれど、鏡から目を離せない。
「わたしが、あなたを殺したの?」
リゼは答えず、唇の端を持ち上げた。
恐怖を隠すための、悪女の笑みだった。
「逆も、だいたい合ってるよ」
「逆……?」
「前の人生で、あんたを悪女にしたのはアタシ」




