第16話 母の嘘
継母は一度もわたしを叩かなかった。
少なくとも、あの人はそう信じていた。
銀の定規が指へ落ちても、それは矯正だった。食事を抜かれても節制。泣くまで鏡の前に立たされても、王妃になるための教育。
だから、王都へ戻ったわたしを迎えたカタリーナは、最初にこう言った。
「姿勢が崩れています」
アルバート公爵邸の朝の教室。かつて微笑みを二十七回やり直した部屋で、継母は背筋を伸ばして座っていた。
窓の外には王家の衛兵が六人いる。わたしが到着しなければ、正午に彼女を連行する命令だった。
王都へ入った時点で出頭届を法務院へ提出し、連座処刑は公廷の判断が出るまで停止された。その受領書が、今はわたしの鞄にある。
「北では誰も直さなかったのですか」
「直す必要がありませんでした」
「公爵令嬢の姿は、家の信用そのものです」
「もう、わたしの身体を家の所有物として話さないでください」
カタリーナの目がわずかに揺れた。
鏡の中でリゼが腕を組む。
『一言目から謝らなかった。上出来』
わたしの手は、ドレスの陰で震えていた。
北から王都まで三日。用意した言葉を何度も繰り返した。それでも、この部屋へ入れば十五年間の癖が戻る。声を低くしすぎてはいけない。睨んではいけない。先に相手の事情を考えなければ。
「王命に従って戻りました。あなたを救うと決めたからではありません。わたし自身の罪を、公廷で否定するためです」
「結果として、私の処刑も止まる」
「それと、赦すことは別です」
継母は返事をせず、机上の銀の定規へ視線を落とした。
「マリアンヌを呼びなさい」
隣室の扉が開いた。
義妹は杖をつき、マルタに支えられて入ってくる。右脚の補助具は、以前より身体に合うものへ替わっていた。わたしを見るなり駆けようとして、思い直してゆっくり近づいた。
「お姉様。毒を盛ったというのは、嘘なのですよね」
「ええ」
「悪い霊に身体を取られたというのも?」
「リゼは悪霊ではありません。わたしと一緒にいる人です」
マリアンヌは姿見へ向き直った。
「初めまして、リゼお姉様」
『……変な子』
そう言いながら、リゼは髪を整えた。
「声は聞こえませんが、今、照れていますか?」
「ええ、とても」
『余計なこと言うな』
笑いそうになったわたしを、カタリーナは不思議なものを見る目で見ていた。
「姉上と同じ笑い方をするのですね」
母を知る者の声だった。
「お母様の話をしてください」
「今さら、何を聞いても意味はありません」
「意味を決めるのは、あなたではない」
また、目が揺れた。
カタリーナは侍女たちを下がらせ、マルタへ扉を閉めさせた。それから、左の袖を肘までまくる。
白い腕に、わたしと同じ鏡形の痣があった。
ただし紋様の中央は焼け潰れ、古い傷で歪んでいる。
「最初に十七番へ選ばれたのは、私でした」
マリアンヌが息を呑む。
「十二歳で教会へ入り、鏡の前で泣けと命じられた。怒れ、姉を憎め、家を恨めと。けれど私は、鏡を椅子で割りました。感情を分ける前に外へ出した私は、器には向かないと判定された」
『昔は話が早かったんだな』
リゼが呟く。
「代わりに、姉上が選ばれた。姉上は優しく、我慢強く、誰にも怒りを見せなかった。教会が求める、完璧な土壌だった」
「お母様は、自分から?」
「私を家へ返すなら、と条件を出したそうです。私は助かり、姉上はエレオノーレではなく十七番になった」
継母の指が、銀の定規をつかむ。
「返鏡の儀のあと、戻ってきた棺に名札はなかった。公爵は妻を失い、三歳のあなたは泣き方さえ忘れていた。私は、姉上の代わりにこの家へ入りました」
「わたしを守るために?」
「そう思っていました」
「だから、痛くても笑えと?」
「悪女には隙が必要です。怒った顔、嫉妬した言葉、使用人の不満。何一つ与えなければ、あなたを悪女にはできない」
カタリーナは初めて、定規から手を離した。
「けれど、教会が欲しかったのは、感情のない娘ではなかった。感情を鏡へ追いやる娘だった。私はあなたを守るつもりで、器として完成させた」
「気づいたのは、いつですか」
「あなたが学院へ入ったあとです。私の印を真似た指示書が三通見つかった。マリアンヌの装具を粗悪なものへ替えろ。大階段の手すりを修理するな。姉妹を二人きりにする機会を作れ、と」
前世の大階段が蘇る。
折れた杖。背中へ触れた手。わたしを見て怯えるマリアンヌ。
「燃やしたのですか」
「二通は。家名を守るために」
残った一通を、カタリーナが机の底から出した。封蝋は公爵家のものだが、蝋の内側に双頭鷲の羽根が一本、逆向きに刻まれている。
王家の文書工房の印だった。
「なぜ、すぐわたしに見せなかったの」
「あなたが知れば、顔に出ると思ったからです」
「また、わたしのために決めた」
「生きていれば、いつか理解すると」
「理解しています」
カタリーナが顔を上げた。
「十七番になるはずだった恐怖も、お母様を失った罪悪感も。わたしを完璧にすれば救えると信じたことも」
わたしは立ち上がる。
「ですが、事情は傷を消しません」
定規を持つ右手。夜ごと鏡へ向けさせられた笑顔。痛いと言えば相手を責めることになると教えられた朝。
それらは、継母の過去を知っても消えなかった。
「私も被害者だった、と言うつもりはありません」
「言わなくても、それを知ったわたしが赦すと思っているでしょう」
カタリーナが手を差し出した。
子どものころ、その手に触れたくて仕方がなかった。母の妹なら、いつか母のように抱きしめてくれるかもしれないと思っていた。
わたしは震える手で、その手を払った。
乾いた音がした。
「あなたを処刑させない。でも、私の母に戻すこともしない」
「……最初から、私は母ではありません」
「そうやって、わたしの決別まであなたが決めないで」
声は震えた。けれど、謝らなかった。
カタリーナは手を膝へ戻した。
「では、私はどうなります」
「公爵家の家政権と、わたしとマリアンヌの後見権を返上してください。公廷では残った指示書を証拠として出す。裁判が終われば、北の聖リヴィア修道院へ。大司教の管轄から外れた場所です」
「追放ですか」
「境界線です。命は守る。でも、わたしの生活へ戻る権利は渡しません」
マリアンヌが杖を握りしめる。
「わたしも、お母様と離れるのですか」
「あなたは自分で選べます。手紙を書くことも、会いに行くことも。わたしと同じ選択をする必要はないわ」
マリアンヌは杖から片手を離した。
「では、裁判が終わったら、わたしは会いに行きます。娘だからではありません。どうして黙っていたのか、自分で聞きたいからです」
カタリーナが何かを言いかける。
「今は、お母様の答えを先に聞きません」
小さな声だったが、わたしよりまっすぐだった。
「お姉様は、わたしを階段から落としませんか」
胸を刺された。
「落としません」
「でも、怖い夢を見るのです。誰かに背中を押されて、お姉様の手をつかめない夢」
前世の記憶は、わたしとリゼだけのものではないのかもしれない。
わたしは義妹の前へ膝をついた。触れる前に尋ねる。
「手を握ってもいい?」
マリアンヌが頷く。
「あの階段で何が起きるはずだったのか、必ず調べます。あなたが覚えていなくても、わたしが覚えている。今度は、あなたの証言を誰にも書き換えさせない」
「リゼお姉様も?」
『押してない。少なくとも、アタシはそう信じてる。あの前後だけ、どうしても思い出せない』
「リゼも、あなたを傷つけた記憶はないと言っています。わたしたち二人とも、あの前後だけを失っているの」
マリアンヌはわたしの手を握り返した。
「では、分かるまでは、お姉様が二人いるほうを信じます」
カタリーナがそれを見て、ゆっくり目を閉じる。
「条件を受け入れます」
その声は、敗北したというより、長く握っていたものをようやく手放した人のものだった。
カタリーナはその場で三通の書面へ署名した。
家政権の返上。わたしとマリアンヌの後見権放棄。残された偽造指示書を公廷へ提出し、焼いた二通の内容も証言するという誓約。
最後に、公爵夫人の鍵束を机へ置いた。
「あなたを育てた十二年まで、否定するのですか」
「否定しません。感謝していることもあります。字を教わり、領地経営を学び、王宮で侮られない礼儀を身につけた」
継母の目に、わずかな期待が戻る。
「同じ十二年で、泣くことと怒ることを怖がるようにもなりました。感謝と傷は、互いを消してくれません」
「両方を抱えて、私を憎むのですか」
「今は、憎んでいます」
「いつまで?」
「分かりません。明日変わるかもしれないし、一生変わらないかもしれない。それを急いで決める義務も、あなたを安心させるために答える義務も、もうわたしにはありません」
カタリーナの顔から、最後の防御が落ちた。
「でも、その気持ちをあなたの処刑理由にはしない。わたしの怒りは、誰かを殺す許可証ではありません」
鏡の中で、リゼがゆっくり頷いた。
衛兵へ連行中止の文書を渡し、わたしは教室を出た。
回廊の端で、カタリーナが一度だけ呼び止める。
「エリザベス」
母の真似ではない声で、彼女は言った。
「殿下はあなたを殺さない。二人とも妃として飼うつもりよ」




