第15話 鏡のなかの決闘
その夜、鏡が初めてわたしから逃げた。
寝室の姿見へ近づくと、リゼの姿が消えた。窓硝子へ移る。振り向けばそこにもいない。燭台、銀盆、水差しの水。彼女はわたしが覗く寸前に、次の反射へ逃げていく。
「リゼ。話をしましょう」
返事はない。
「答えなかったことを怒っているの?」
暖炉脇の甲冑が、かすかに笑った。
「怒ってないよ」
「では、出てきて」
「嫌だ」
「怒っているでしょう」
「あんたはアタシが怒ると、すぐ話せって言う。自分が黙るのは許すくせに」
声は甲冑からしたが、磨かれた胸当てにはわたししか映らない。
「ごめんなさい」
「それも嫌い」
胸当てに亀裂が走った。
同じ場所に、鋭い痛みが走る。夜着の襟元へ血がにじんだ。
「鏡を割れば、あなたも傷つく」
「知ってる」
「わたしも傷つく」
「それも知ってる」
ようやく、姿見の奥へリゼが現れた。
鏡の中の彼女は、暖炉の火掻き棒を持っていた。こちらの部屋では、同じ棒が壁に掛かったままだ。それでも鏡の内側で振り上げれば、鏡面に白い亀裂が生まれる。
「やめて」
「返鏡の儀まで待てって?」
「儀式には行かない」
「王家と教会が、断ったくらいで諦めると思う?」
「北境なら時間を稼げます。その間に儀式を止める証拠を」
「その前に連れ戻されたら?」
「そうならないように」
「聞いてるのは、そうなったらどっちが消えるかだ!」
火掻き棒が鏡を打った。
甲高い音が寝室を切り裂く。
左の掌が裂け、血が落ちた。リゼの掌にも、同じ傷が開いている。
「アタシが消えれば済む」
「済みません」
「あんたは生き残る。王国が欲しがってるのは、公爵令嬢の身体と昼の顔だ。夜の悪女がいなくなれば、少なくとも処刑の理由は一つ減る」
「あなたがいなくなる」
「だから何だ」
「嫌なの」
「嫌でも生きろ!」
「それを、あなたが決めないで!」
声を上げると、炎が揺れた。
リゼが目を見開く。
「お母様も、カタリーナ様も、殿下も、大司教も、みんな同じことを言いました。『あなたのため』だと。わたしがどう生きるか、何を感じるか、誰を失っても耐えるかまで、先に決めた」
「一緒にするな」
「同じです。自分を犠牲にしているから正しいと思うなら、もっと悪い」
「アタシが勝手に生き残ったら、あんたが消えるかもしれないんだぞ!」
「だから二人で方法を探すの」
「綺麗事だ!」
「そうかもしれない。それでも、あなたが一人で結末を決めるよりいい」
鏡の亀裂が増えた。
リゼは火掻き棒を両手で握り、肩を震わせている。怒っているのか、泣いているのか分からない。
「あんたは、アタシがいれば怒らなくて済んだ」
「ええ」
「嫌なことを言うのも、殴るのも、嘘を暴くのも、全部アタシにやらせた」
「ええ」
「前の人生でアタシがやったことは、自分の罪だって言ったくせに、本当はアタシを恨んでる」
「恨んでいます」
リゼの顔から血の気が引いた。
わたしは鏡へ手をつく。亀裂の端が掌を切った。
「聖女の法衣を切り裂き、理由を説明しないまま身体を返したこと。事情を知らないわたしだけに謝らせたこと。あなたを怖いと思いながら、何が起きたか分からない夜を越えたこと。全部、今でも許していない」
「だったら消えたほうがいいだろ」
「許せない相手は、生きていてはいけないの?」
「アタシを残して、何になる」
「何かになる必要はありません」
「役に立たないなら、なおさらだ!」
「役に立つから一緒にいるのではない!」
わたしは鏡のそばに置かれた帳面を開いた。二人で決めた契約の余白には、リゼの字が増えている。
『北の酒は甘くないものがいい』
『馬は白より黒』
『春になったら海を見る』
『エリザベスの青いドレスはつまらない。赤を買う』
「これは、わたしが捨てた怒りですか」
「そんなの、ただの落書きだ」
「あなたの好みでしょう」
「だったら何だ」
「わたしは甘い酒が好き。白い馬が好き。海より山が落ち着きます。赤いドレスは似合わない」
「似合う。あんたがびびってるだけだ」
「ほら、違う」
一つの身体から生まれても、同じものを望んでいない。怒りだけでは、春の海を見たいとは願わない。
「あなたは、わたしの一部ではない。少なくとも、それだけではない。だから便利な力として残したいのでも、失った感情を取り戻したいのでもありません」
リゼは帳面から目を逸らした。
「海なんか、別にどうでもいい」
「では、行かない?」
「……行く」
鏡面が大きく震えた。
リゼの目から、初めて涙が落ちた。
「じゃあ、何でだよ」
「あなたが生きたいからです」
「そんなの、理由にならない」
「わたしには、それで十分なの」
「嘘だ」
「あなたは、わたしが信じている嘘を見抜けないでしょう」
「逃げるな!」
「逃げていません。わたしは、あなたが怖い。許せないところもある。一緒にいると痛いし、恥ずかしいし、何度も困らされる。それでも、あなたに消えてほしくない」
「必要だからだろ」
「違う」
「あんたは怒るのが下手だから。アタシがいないと、また黙って殺されるから」
「違うわ」
「アタシは、あんたが捨てた感情のゴミ箱じゃない!」
「知ってる!」
声が重なった。
わたしは額を鏡へ押し当てた。冷たい硝子の向こうで、リゼも同じように額をつける。
「知ってる。だからわたしは、わたしを殺さない。あなたも殺させない」
「……言ってること、分かってる?」
「分かっています。前なら、あなたが生きるならわたしは消えてもいいと答えた。さっきも、そう答えそうになった」
リゼの唇が歪んだ。
「それを聞いたら、アタシが喜ぶと思った?」
「いいえ。ようやく、あれが愛情ではないと分かったの。自分の命を差し出して、残された人に重さを持たせるだけ。選ぶ苦しさから逃げていただけです」
「だったら、返鏡の儀であんたが消えそうになっても、アタシに譲るなよ」
「譲りません」
「アタシが泣いて頼んでも?」
「嫌です」
「殴るぞ」
「殴り返します」
「あんた、弱いだろ」
「ルーカス様に剣を習います」
リゼの口元が、ほんの少し上がった。
それでも火掻き棒は下りない。
「怖いんだよ」
彼女は掠れた声で言った。
「あんたが優しくなるたび、次は消されるって思う。必要なくなったから、もう休んでいいって。アタシを抱きしめて、鏡の奥へ置いていくって」
「しません」
「母親も、そう言った」
空気が止まった。
「お母様が?」
「銀幕の奥で見た。たぶん、アタシの記憶じゃない。鏡に残ってた誰かの記録だ」
リゼが傷ついた手を鏡へつく。
わたしの血と彼女の血が、亀裂の上で重なった。
寝室が消えた。
*
白い部屋。
若い母が、大きな鏡の前に座っている。
腕の中に、銀髪の幼子がいた。三歳のわたしに見える。けれど鏡の中にも、同じ年の子がいる。どちらが母の腕に抱かれているのか、光が強すぎて分からない。
母の背後には、白い法衣の男。
幼子が泣く。
『いや。ひとりにしないで』
母はその子の髪を撫で、鏡へ向かって言った。
『この子は、あなたが生きるために産んだ子』
鏡の中の子へ言ったのか。
腕の中の子へ言ったのか。
それとも、背後にいた誰かへ告げたのか。
母の口元は笑っていた。目からは涙が流れている。
白い法衣の男が銀幕を下ろす。
最後に見えた母の唇が、別の言葉を作った。
音は聞こえなかった。
*
寝室へ戻る。
火掻き棒が、鏡の中の床へ落ちた。
わたしたちは、長いあいだ何も言わなかった。
暖炉の薪が崩れる。
城壁の向こうで、夜警の鐘が一つ鳴る。
「アタシは、あんたのために生まれたのかな」
リゼが訊いた。
「分かりません」
「あんたが、アタシのために作られたのかも」
「それも、分かりません」
「第一面はアタシだった」
「ええ」
「本物が一人だけなら?」
「その問いを、信じるのをやめます」
鏡へ置いた手に、向こうから彼女の手が重なる。
「生まれた理由が何であっても、あなたが生きた時間は消えない。わたしの時間も。だから、どちらも消さない」
「片方を選べって言われたら?」
「選びません」
「両方失うって脅されたら?」
「脅した人に、選ばせる権利がないと答えます」
「それでも刃を置かれたら?」
「そのときは、二人で逃げ道を探す。見つからなければ、二人で刃を奪う」
「優等生の台詞じゃないな」
「あなたが教えたのよ」
「返鏡の儀を壊す?」
「ええ」
「教会も?」
「必要なら」
「王子も?」
「必ず」
リゼが、いつものように口角だけで笑った。
「やっと、悪女らしくなったな」
「あなたほどではありません」
扉が激しく叩かれた。
夜警ではない。急使を知らせる三度の打音だった。
封を切ったルーカスが、寝室の外で立ち尽くしている。手にした羊皮紙には王家の双頭鷲。末尾には国王の印と、フリードリヒ殿下の副署があった。
本文は一行だけだった。
『エリザベス・フォン・アルバートへ王都への出頭を命ずる。召喚を拒めば、公爵夫人カタリーナを共犯として処刑する』




