第14話 北の答え
北の風は、王都の噂を運ばない。だから、ここでは誰もわたしを毒蛇と呼ばなかった。
代わりに、到着した日の門番はわたしの馬車を見て言った。
「ずいぶん軽い荷だな。追放か、駆け落ちか?」
御者台のルーカスが無表情に答える。
「保護だ」
「似たようなもんです」
門番は笑って通行証へ判を押した。
王都なら不敬で首が飛びそうな会話だった。ルーカスは気にする様子もなく、判の乾きを確かめている。
『アタシ、ここ好き』
馬車の窓に映ったリゼが、到着一刻で決めた。
北境の城塞都市グラウベルクには、金箔の門も磨かれた石畳もない。雪解け水で道はぬかるみ、城壁には去年の戦の傷が残っていた。それでも市場の声は明るく、人々はわたしを見ても囁かなかった。
「交遊録が届いていないのでしょうか」
「届いています」
ルーカスが言った。
「北の者は、紙に書かれた噂より、冬に届く小麦を信じます」
宿舎へ入る前に、市場の商人たちが北境伯を取り囲んだ。毛皮商は関税を一割下げろと迫り、塩商は街道警備が遅いと怒鳴る。伯爵相手でも遠慮がない。
夜、リゼが表へ出ると、その輪へ勝手に加わった。
「一割は欲張りすぎ。去年、南へ流した毛皮の数を言ってみな」
「お嬢ちゃんに商売が分かるか」
「分からないから帳簿を見せろって言ってる。見せられないなら、あんたが嘘つきだってことは分かる」
毛皮商は目を丸くし、それから大声で笑った。
「気に入った! 半割でどうだ」
「二分。代わりに東門の倉庫代を冬だけ下げさせる」
「三分」
「二分五厘」
翌朝、契約書ができていた。
兵舎では、新兵がリゼの歩き方を見て「殴り合いなら強そうだ」と言った。リゼはその場で木剣を借り、三人まとめて雪へ転がした。
『王都より話が早い』
「全員を敵か味方に分けないで」
『負けたあと酒を奢ってきた。味方だろ』
「乱暴な判定ね」
鏡の中で言い合いながら、わたしは久しぶりに声を出して笑った。
北へ来てから、鏡の引く力は弱くなっていた。夜になっても意識を奪われず、交代の前には必ず互いの声が届く。銀の皿に触れても痣は熱を持たない。
そしてルーカスは、一度も悪女の夢を見なかった。
「北には、両面神の古い鏡が少ない」
彼はそれだけを事実として述べた。
理由は、まだ誰にも分からない。
五日目の朝、城下の施療院を訪ねた。石造りの小さな建物には二十七人の患者がおり、薬棚には空の瓶が九本並んでいた。
「王都からの救済便が、雪で遅れたのでしょうか」
老薬師は笑わなかった。
「雪は三月に解けました。荷は毎年、南の倉で軽くなるんです」
奥の寝台で、少女が咳をした。ルナの領地へ送られるはずだったものと同じ、熱冷ましが足りないという。
老薬師はわたしの名を聞いても態度を変えなかった。
「毒を盛ったって噂のご令嬢か」
「そう書かれています」
「で、薬は持ってきたのか」
「北境伯の備蓄から、三箱」
「なら今日は、薬を持ってきたご令嬢だ。明日のことは明日決める」
その判定が、わたしにはありがたかった。過去も評判も消してはくれない。ただ今日したことを、今日の分だけ見てくれる。
帰りの馬車で、リゼが言った。
『消えた三割の向こうに、あの子たちがいたんだな』
「ええ」
『じゃあ、遠慮するな。これは復讐だけじゃない』
*
安息は四日で終わった。
アンネが王都から持ち出した原簿の写しには、交遊録だけでなく寄付金の出入りも記されていた。わたしの告発に証人として名を連ねた四人の家は、そろって教会の冬季救済へ多額の寄付をしたことになっている。
けれど、北境へ届いた薬と小麦は記録の七割しかなかった。
「三割は輸送中の損失だと、報告されています」
会議卓で会計官が言った。
向かいの塩商が鼻を鳴らす。
「塩ならともかく、小麦が毎年きっちり三割、同じ四家の倉を通るたび消えるかよ」
毛皮商が運送証を並べた。
「こっちは荷車の数だ。教会へ百台届けたことになっている日、南門を通ったのは六十九台。門番三人の署名もある」
証拠は、わたしの前へ一枚ずつ積み上がった。
四家は噂を広めただけではない。救済金を横領し、その一部を交遊録の記録委員へ流していた。
『やり返せるな』
窓に映ったリゼが笑う。
「そうね」
『嬉しくないの?』
「嬉しい。だから怖いの」
監査が入れば、家長だけでは済まない。爵位が停止され、領地の使用人も職を失うかもしれない。あの食堂で席を立った令嬢たちが、今度は同じ数の招待状を失う。
それを想像して躊躇する自分と、当然だと喜ぶ自分がいた。
「私刑にはしません」
わたしは会計官へ告げた。
「横領と告発を分けて記録してください。わたしを嫌ったことを罪にはしない。虚偽の証言と金の流れだけを、王立監査院へ提出します」
「告発者としてお名前が出ます」
「構いません」
「公爵令嬢が復讐に北境を使ったと書かれるでしょう」
羽根ペンを持つ手が震えた。
また招待状が減る。家から勘当されるかもしれない。カタリーナは、完璧な微笑で「耐えれば済んだのに」と言うだろう。
涙が一滴、監査請求書の余白へ落ちた。
「それでも、提出します」
署名する。
震えたせいで、最後の一文字が少し曲がった。
『下手くそ』
リゼが言った。
「書き直さないわ」
『それでいい』
ルーカスが請求書の証人欄へ署名した。北境の商業組合、薬師組合、南門の警備隊長が続く。
六日後、王都から監査開始の報が届いた。
四家の会計役が取り調べられ、資産の移動が禁じられた。交遊録は「事実関係の再調査」を理由に臨時号を回収した。翌週の紙面から、わたしの名は消えた。
謝罪はなかった。
けれど、嘘も止まった。
監査院は四家の爵位をすぐには奪わず、まず救済用の口座を凍結し、北境と三つの領地へ不足分を返すよう命じた。南門の倉からは、隠されていた薬箱が四十二、封も切られず見つかった。
学院から招待状が十一通届いた。どれも「誤解していた」「心配していた」と書いてある。
わたしは返事を急がなかった。許すかどうかも、再び席を並べるかどうかも、相手が決めることではない。
「勝ったの?」
誰もいない執務室で尋ねると、ルーカスは首を横へ振った。
「始めただけです」
「厳しいのですね」
「ここで勝ったと言えば、あなたは次も一人で背負う」
「……よく分かるようになりましたね」
「見ていましたから」
机の報告書は片づき、仕事として話すことはもうなかった。それでも立ち上がる気になれない。
「用件は終わりましたが、もう少しここにいても?」
ルーカスは空になった茶器へ手を伸ばしかけ、珍しく途中で止めた。
「私も、茶を入れ直す理由を探していました」
守られる必要がなくても、話していたい。
その望みを口にできたことが、どの監査結果より胸を温かくした。
彼は内ポケットから細い包みを取り出した。
黒ずんだ銀の髪留めだった。狼の横顔が彫られ、留め金の裏に小さく『A』とある。
「姉のアネットの物です」
ルーカスの声が硬くなる。
「私が十五のとき、姉は王都へ召し出されました。名誉ある神官候補だと聞かされた。半年後、病死したと棺だけが戻った」
「器の候補だったのですか」
「十七番が死んだあとの、予備だった。番号を与えられる前に壊れた、と教会の記録にありました」
人へ使う言葉ではない。
「当時の私は、何かおかしいと知っていた。姉から、鏡の中に泣く子がいると手紙をもらっていたからです。それでも証拠がないと言って、父の命令に従った」
「あなたは十五歳だった」
「年齢は、動かなかった理由にはなっても、姉が戻らない事実を変えない」
彼は髪留めをわたしの掌へ置いた。
「姉を救えなかったのは力がなかったからではない。証拠がないと言い訳したからです」
銀は冷たい。けれど、長く彼の胸元にあった温度がわずかに残っていた。
わたしは髪留めを握り、彼の手ごと包む。
「なら今度は、証拠があるうちに動きましょう」
「はい」
「アネット様のためだけではなく、わたしたちのために」
ルーカスは答えなかった。
ただ、包んだ手を引かなかった。
*
その夜、マルタからの手紙が届いた。
封筒の裏には、公爵家の蝋ではなく、古い鍵の形の封印が押されている。
『お嬢様。鏡を取り返したと聞きました。喜ぶより先に、お伝えしなければなりません』
『大司教は、次の新月に返鏡の儀を行う準備をしています。十二年前、エレオノーレ様にも同じ儀式が行われました』
『教会は、二つに分かれた人格を一つへ戻す儀式だと申します。しかし、戻った者を私は見たことがありません。儀式のあとに残るのは一人だけです』
便箋の最後に、乱れた文字がある。
『どちらが消えるかは、大司教にも選べません』
鏡を見る。
リゼがこちらを見ていた。
北へ来て初めて、彼女の顔から笑みが消えている。
「もし消えるのがアタシじゃなくて、あんただったらどうする?」
答えは喉まで上がった。
あなたが生きるなら、それでもいい。
その言葉が、リゼを傷つけると分かった。
だからわたしは、何も答えられなかった。




