87婚約者に隠し子がいたから捨てた。婚約者以外の女性との間に子がいてそれを意図的に隠していたから別れるのは当たり前だ
「……え?今、なんて?」
カフェの喧騒が嘘みたいに遠くなった。
そんな顔をする権利があると思っているのかと怒りが湧く。目の前に座る婚約者、アッシュの顔が信じられないものを見るように歪んでいる。
「だから、婚約を破棄してください」
もう一度はっきりと言った。少し声が震えたのは仕方ない。昨日、アッシュに隠し子がいると知ったばかりなのだから。しかも子はもう五歳になるらしい。
「メービス、君、一体何を……」
アッシュは焦ったように身を乗り出してくる。いつも冷静で完璧な彼がこんなに取り乱すなんて。
「だって、私、知らなかったんです。アッシュに子供がいるなんて。それに……その、子供のお母さんのことも」
そこまで言うと胸が締め付けられる。だって、アッシュはいつも優しくてこちらのことを大切にしてくれると思っていたから。
「それは……誤解だ!メービス、話を聞いてくれ!」
必死に弁解しようとするけれど、もう聞きたくなかった。事実は事実だ。婚約者以外の女性との間に子供がいて、それを意図的に隠していた。立ち上がろうとしたらアッシュが慌てて引き止める。
「待ってくれ、メービス!君にちゃんと説明する義務がある!」
「ああ、もういいんです」
アッシュの手を振りほどきカフェを飛び出した。冷たい夜風が頬を撫でる。涙が溢れて前が滲んだ。こんな目に遭うなんて。前世は普通だったのにこっちの世界に転生して、王国の王子様と婚約までしたのに。
「メービス!」
背後から聞き慣れた優しい声がした。振り返ると幼馴染のルクノアが心配そうな顔で立っている。
「どうしたんだ?顔色が悪いぞ」
ルクノアは顔を見るなり駆け寄ってきた。小さい頃からずっと一緒だったルクノアは落ち込んでいるとすぐに気づいてくれる。
「あのね、ルクノア……私、アッシュ様との婚約を破棄することにしたの」
ポツリとそう言うとルクノアは驚いたように目を丸くした。
「婚約破棄!?一体何があったんだ?」
カフェでアッシュに言われたこと、昨日知った事実を涙ながらにルクノアに話す。黙って話を聞き終えるとギュッと手を握った。
手の温かさがじんわりと心に染み渡る。
「そんな……酷い男だ。メービスがそんなバカな思いをしていたなんて、おれは全然知らなかった……」
ルクノアは悔しそうに唇を噛み締めた。
「うん……でも、もう大丈夫。私、ちゃんと前を向くって決めたから」
言ったものの、やっぱり心にはぽっかりと穴が開いている。これからどうしたらいいんだろう。そんな気持ちを察したのかルクノアは少し照れたように、真剣な眼差しで見つめて言う。
「メービス。あのさ」
ゴクリと喉が鳴る音が聞こえた。ルクノアの顔が少し赤い。
「もし、よかったら……おれと、結婚してくれないか?」
え?
思わず間の抜けた声が出た。ルクノアは今、なんて言ったの?
「ずっとメービスのことが好きだったんだ。子供の頃からずっと、アッシュと婚約したって聞いた時は本当に辛かった。もし、メービスが許してくれるなら」
ルクノアは目をまっすぐに見て、言葉を続けた。
「メービスを絶対に幸せにする。辛い思いは二度とさせない。ずっと隣にいるから」
心にじんわりと広がっていく。子供の頃からいつも一番近くで支えてくれたルクノア。優しさもずっと知っていた。アッシュの裏切りで傷ついた心にルクノアの言葉が優しく触れる。
申し出に頭はまだ混乱しているけれど、彼の真剣な眼差しを見ていると安心できる自分がいた。
「……ほ、本当に?」
震える声にルクノアは力強く頷いた。
「ああ、本気だ。メービス、おれを信じてほしい」
信じる。そうだ、ルクノアのことをずっと信じてきた。 今度はゆっくりと息を吸い込んでルクノアの目を見返した。
「うん。私でよかったら、喜んで」
承諾の言葉を聞いた瞬間、ルクノアの顔がパッと明るくなった。春が訪れたみたいに。
「本当か!?ありがとう、メービス!」
手を優しく包み込んだ。隣で嬉しそうに笑うルクノアを見上げながらそっと微笑んだ。




