223【前編】灰かぶりと歪んだ世界に錬金術師は父親の浮気相手と連れ子と暮らすことになる三角関係に怒りが湧いたがこのめちゃくちゃな家庭に叫びたくなった。わざわざウチに連れてくるのはなんの優越感なのだろう
聞こえるわけがないのに、日常は音を立てて崩れていった。崩れる、という表現は適切ではないかもしれない。もともと構築されていなかったものが、わずかに残っていた形を失っていったという方が、しっくりくる。
「シエル。お客さんがいらっしゃっているわ」
母の声が錬金術工房の奥から響く。
フラスコを傾け、慎重に薬液を混ぜていた手を止めた。金色の液体が小さな泡を立てて、きらめく。
失敗は許されない。これだから錬金術は面白い。一歩間違えればただのゴミ。成功すれば金になる。シンプルで分かりやすい。
「今行きます」
億劫な返事をして白衣をはたいた。母がお客さんと言う時は大抵、錬金術の依頼が来ている時。正直、あまり乗り気ではない。人が求めるものは大抵、面倒で期待ばかり大きい上に期待されるのは嫌いだ。
どうせ、期待は裏切られる。裏切る側でありたい。工房を出ると客間の扉が開いていた。立っていたのは見慣れない女。
艶やかな黒髪を背中まで伸ばし、優雅なフリルがあしらわれたドレスを身につけている。顔立ちは整っているが、どこか傲慢な響きを感じさせる。
「あら、あなたがシエルさん?お噂はかねがね」
女は見るなり、にこやかに微笑んだ。笑顔の裏に底の見えない不気味さを感じ取り、愛想笑い一つ浮かばず無表情に女を見返した。
「どのようなご用件でしょうか?」
単刀直入に尋ねる。無駄な会話は嫌い。女の言葉はやたらと遠回しに聞こえる。
「あら、ごめんなさい。自己紹介が遅れましたわね。私、ユルユティと申します。この子が」
ユルユティと名乗った女は背後に隠れていた少女を前に出した。年下に見える、おそらく十歳にも満たない少女。薄い水色の髪を肩まで揃え、大きな瞳が見つめている。警戒心と怯えが瞳に。
「エミリー、です」
か細い声で少女は名乗る。ユルユティが背に手を添え、優しく押し出した。
「実はこの子をあなたのお父様とご縁があって、しばらくの間だけこちらでお世話になることになったのよ」
ユルユティの言葉に頭は急速に思考を停止した。
父とご縁?お世話になる?
それは一体、何を意味するのか。
「……は?」
思わず、素っ頓狂な声が出た。母がいつの間にかユルユティと親しげに話している。笑顔を浮かべ、長年の友人のようだ。母はもっと控えめで、人見知りな性格だったはず。
「あら、知らなかったの?ふふ、サプライズだったかしら」
ユルユティは楽しそうに笑う。笑顔が神経を逆撫でする。
「まさか、愛人、ですか」
ストレートに尋ねた。ユルユティの顔から一瞬にして、笑顔が消えた。エミリーは、びくりと肩を震わせる。
「シエル!なんてことを言うの!」
母は嗜めるが引かなかった。この状況で他にどんな理由があるというのだろうか。父は数年前から出張と称して家を空けることが増えていた。突然現れた見知らぬ女と子供。
錬金術で培った直感は、それが何であるかを明確に告げていた。ユルユティはすぐに笑顔を取り戻し、目を見てはっきりと答える。
「ええ、そのまさか。新しい奥様になるの」
頭に直接響いた。新しい奥様。つまり、母は座を追われるということか。
いや、そうではない。母は健在。ならばどうなる?二人の奥様?冗談じゃない。
「母はどうなるんですか?」
問いにユルユティは困ったように眉を下げた。
「それはお父様がお決めになることよ。ただ、お父様の隣にいたいだけなの」
甘ったるい声で言う。吐き気がして女が心の底から嫌いになった。
夜、父が帰ってきたものの、出張帰りにしてはずいぶんと上機嫌。ユルユティとエミリーが家族のように父を迎えれば母は、いつものように穏やかに父の荷物を片付けている。
「シエル。今日からユルユティとエミリーがこの家で暮らすことになった。仲良くしてやってくれ」
父は何の悪びれもなく告げた。父の顔をまじまじと見つめながら、己の知る父は優しくて、少しばかり頼りないが真面目な人間だったのに。それが今、目の前にいるのは知らない顔をした男。
「……はい」
それだけしか言えなかった。言いたかったことは山ほどあった。ふざけるな、と。母はどうするのだ、と。
だが、言葉は喉の奥に引っかかって、出てこなくて。その日から日常は奇妙なものになった。
朝食のテーブルには母の他に、ユルユティとエミリーが座っている。父はユルユティの隣に座り、楽しそうに談笑している。母はいつもより口数が少なく、俯きがちに。状況を静観することにした。
騒いだところで何も変わらない。父はもう変わってしまった。母は変われない。ただ、状況を観察し、時々内心で力を入れるだけ。
「あら、シエルちゃん。今日の朝食は、少し塩気が足りないんじゃないかしら?」
ユルユティが上品な口調で母に言った。母ははっとして、すぐに謝罪。
(塩気が足りない?昨日、味見した時は丁度良かったはず。ていうか、あなた、昨日からこの家に住み始めたばかりでよくそんなこと言えるな。図々しいにも程がある。ああ、でもそれこそが愛人の素質、というやつか。恐ろしいな人間という生き物は)
心の中で毒づく。もちろん、口には出さない。面倒なことは避けたい。波風を立てるのもごめん被る。エミリーはいつもおどおどしていた。ほとんど目を合わせようとしないけれど時々、ちらりと盗み見る。
視線に特に意味を感じなかった。ただの子供で、相手も何の興味もないだろう。
日課は変わらない。朝食を終えると錬金術工房に籠る。錬金術は裏切らない。素材を混ぜれば法則通りに反応する。予測可能で信頼できる。人間とは大違い。
「シエルお姉様は、いつも工房に籠っているのね」
ある日、エミリーが工房の扉の前に立っていた。珍しいこと。エミリーが話しかけてくることは滅多にない。
「何か用?」
フラスコを振りながら、エミリーに問うと小さな声で言った。
「あの……お姉様は、何を作っているの?」
「いろいろ。毒、薬、媚薬、金貨、なんでも作れる。ただし、依頼があれば」
冗談めかして言うとエミリーは目を丸くした。
「すごい」
「すごいことはない。ただの技術。それよりも、お前は母さんの邪魔をしてはいけないよ」
母が、浮気相手のユルユティにいじめられているのを何度か目撃していた。ユルユティは巧妙に、間接的に母を貶める。母は何も言い返さない。
黙って耐えている。憤りを感じていたが、どうすることもできなかった。関われば面倒なことになる。それが主義だから。
エミリーは言葉に何かを言いたげに口を開き、閉じた。結局、何も言わずに去る。
(なんだ、あいつ。私のことを怖がっているの?気難しい錬金術師には近寄るな、関わるな。それが一番でしょうし)
考えていたが、エミリーはその日以来、度々工房に顔を出すようになった。扉の外からそっと覗き込む。それを無視したが。
工房の奥から母の悲鳴が聞こえて、慌てて工房を飛び出した。リビングに駆けつけると、そこには倒れた母と隣で冷たい目をして立っているユルユティ。エミリーは隅で震えている。
「どうしたんだ、母さん!?」
母に駆け寄った。母の顔は青ざめ、額には汗が滲んでいる。
「大したことないのよ、シエル。ちょっと、めまいがしただけ」
母は震える声で言ったが、顔色はめまいではないことを示していた。
「あら、大丈夫?最近、お疲れのご様子だったものね」
ユルユティが心配そうな顔で近づいてきたが、目には嘲笑が浮かんでいた。
(心配しているふり。よくもまあ、そんな白々しい演技ができる。感心する)
心の中で罵倒した。
「母さん、休もう。ユルユティ、あなたは母さんに近づかないように」
母を抱きかかえ部屋へ連れて行こうとした時、ユルユティの声が響いた。
「あら、そんな言い方をするものじゃないわ、シエル。もうろくしているから、色々と手がかかるのよ。私が代わって、家事を引き受けてあげようかしら」
怒りを覚え、母を馬鹿にしていると許せなかった。
「もうろくしているのは、あなたの頭。この家はあなたの好きにはさせない」
ユルユティを睨みつけた。
ユルユティは一瞬たじろぎ、すぐに嘲笑を浮かべる。
「あらあら、怖い怖い。でもね、シエル。この家はもうすぐわたくしが管理することになるのよ。あなたもいずれは出て行くことになるでしょうね?」
心を深く抉った。家、居場所。それが奪われる。家から追い出されるのか。
「……ふざけてる」
絞り出すように言った時、エミリーが袖を掴んだ。
「お姉様」
エミリーは泣きそうな顔で見上げた。
「大丈夫。心配しなくていい」
エミリーの頭をポンと叩きつつ、自分でも驚くほど、優しい声が出た。エミリーを安心させようとしているのか?なぜ?
自身も、不安で、怒りでどうにかなりそうだったのに。自室に閉じこもった。




