221【後編】穏やかな生活がしたい。ゆっくり起きて美味しい朝ごはんを自分で作って庭で育てたハーブで淹れたお茶を飲みながら本を読む。疲れたら昼寝をして夕方に近所を散歩する。何気ない心安らぐ毎日を送りたい
ほのぼの
まさに、ティリスが夢見ていた穏やかな生活がそこにはあった。時折ふとした瞬間に、マフリラオンのことが頭をよぎる。
優しい笑顔や真剣な眼差し。婚約者として過ごした短いけれど大切な時間は心に確かに刻まれていた。
そんなある日。庭の手入れをしていたティリスは、遠くに見慣れた紋章をつけた馬車が近づいてくるのを見つけた。
まさかと思いながらも立ち上がると、馬車から降りてきたのはやはりマフリラオンだった。
「マフリラオン様……?」
驚きを隠せないティリスにマフリラオンは穏やかに微笑みかけた。
「やあ、ティリス。元気そうで安心したよ」
「はい、おかげさまで。ですが、どうしてここに……?」
ティリスは王太子である彼が、こんな小さな村まで足を運ぶとは想像もしていなかった。
「少し、君の様子を見に来たくなったんだ。それに、これを」
マフリラオンはそう言って従者に持たせていた籠をティリスに差し出した。中には見たこともないような美しい花束と、丁寧に包装された箱が入っている。
「これは……?」
「花は、君の庭に合うかなと思って選んでみた。箱の中身は村では手に入りにくいかもしれないと思って。いくつか僕のお気に入りの紅茶と、王宮の菓子職人に頼んで焼いてもらったクッキーだ」
マフリラオンの優しい心遣いにティリスは胸が熱くなった。婚約は解消されたけれど優しさは変わらない。
「お気遣いいただきありがとうございます」
「気にしないで。君が元気でいてくれることが、僕にとっては何よりだから」
マフリラオンはそう言って寂しそうな表情を浮かべた。ずきりとなる。表情を見逃すことができなかった。
「あの……もしよろしければお茶でも召し上がっていかれませんか?庭で育てたミントの葉がありますので」
誘いにマフリラオンはぱっと顔を明るくした。
「それは嬉しいな。ありがとう」
二人は庭のテーブルに腰かけ、ティリスが淹れたミントティーを飲みながらゆっくりと話をした。
「粗茶ですが」
マフリラオンは王都の出来事や、ティリスが心配していたであろう家族のことなどを話してくれた。
ティリスは、村での穏やかな暮らしや、庭で育てている花やハーブのことなどを話す。話が途切れた時、マフリラオンは少しだけ真剣な表情になった。
「ティリス……改めて聞かせてほしい。今の生活は本当に君が望んでいたものなのか?何か、我慢していることはないか?」
ティリスはマフリラオンの優しい眼差しに心を打たれながら、正直に答えた。
「はい。確かに一人で暮らすのは少し寂しい時もあります。でも、こうして自分のペースで生活できることは本当に幸せだと感じています。毎日が穏やかで心が安らぐんです」
「そうか……なら、安心したよ」
マフリラオンはほっとしたように微笑んだ瞳の奥には拭いきれない憂いのようなものが感じられた。
「ティリス」
マフリラオンは声を落として言った。
「婚約を解消した今だからこそ、正直に話せるかもしれない。僕は……君のことがずっと好きだったんだ」
ティリスはマフリラオンの言葉に息を呑んだ。彼の気持ちはティリスも感じていたことだった。優しくて誠実で一緒にいると心が温かくなる。そんな彼にティリスもまた特別な感情を抱いていたのだ。
「殿下……」
「マフリラオンと呼んでほしい」
微笑んだ。
「望む穏やかな生活を壊したくないから、この気持ちを伝えるべきか迷った。でも、言わずに後悔するよりも伝えた方がいいと思ったんだ」
「はい……私もマフリラオン様のことはとても尊敬していますし、一緒にいると心が安らぎました。婚約者として過ごした時間は私にとって大切な思い出です」
言葉は遠回しではあったけれどマフリラオンへの好意を確かに示していた。
「ありがとうティリス」
マフリラオンは希望を灯したような瞳でティリスを見つめた。
「君の気持ちが聞けて嬉しい。もちろん、君の望む生活を邪魔するつもりはない。ただ、もし君がいつか僕の隣にいたいと思う日が来たら。その時は迷わずに言ってほしい」
ティリスはマフリラオンの真剣な眼差しに、深く心を揺さぶられた。今の穏やかな生活はかけがえのないものだけれど彼の優しさもまた大切なもの。
「……ありがとうございます。言葉は私の心に大切にしまっておきます」
二人の間には再び静かな時間が流れた。空気は先ほどまでのものとは少し違っている。
「では」
「ああ」
マフリラオンは夕暮れが近づく頃、家を後にした。馬車が見えなくなるまでティリスは庭からずっと彼を見送る心の中には穏やかな喜びと戸惑いが入り混じっていた。
(いつか気持ちも変わる日が来るのか)
ティリスは夕焼け空を見上げながら問いかけた。答えはまだ分からないけれど、マフリラオンの温かい言葉は心に確かに響いている。
穏やかな村での生活を始めて数ヶ月。ティリスは魔法を使った農業にすっかり夢中になっていた。前世の知識と魔法を組み合わせることで、信じられないほどの効率で野菜や果物を育てることができたのだ。
例えば種を植えた場所にそっと魔法をかけると、あっという間に芽が出てる。ぐんぐんと成長していく。
水やりの魔法を使えば広大な畑も一瞬で潤すことができる。雑草は根っこごと抜き取る魔法で簡単に処理できるし。
害虫は優しい魔力に惹かれた小さな妖精たちが喜んで退治してくれる。畑はみるみるうちに豊かな実りを迎え村人たちはその光景に目を丸くした。
最初は訝しんでいた村人たちもティリスが育てた野菜や果物を分けてもらううちに次第に魔法農業を受け入れるようになっていった。
「ティリスさんの畑の野菜は本当に甘くて美味しいね!」
「こんな立派な作物は見たことがないよ。何か特別な魔法を使っているのかい?」
村人たちの優しい言葉にティリスは照れながらも嬉しさを感じた。魔法は村の食卓を豊かにし笑顔を増やしていた。
そんなある日。ティリスは収穫したばかりのトマトを手に考え込んでいた。
「あっちに寄越せるかも」
これだけの量があれば村人たちに分けるだけでなく、王都にいるマフリラオンにも送ってあげられるかもしれない。
(彼も私の作った野菜を喜んでくれる?)
思った瞬間、胸に様々な感情が走る。婚約は解消されたけれど感謝の気持ちは今も変わらない。
彼のことをもっと知りたい。彼の役に立ちたいという気持ちが少しずつ大きくなっていることに、気づき始めていた。
話したせいだろうか。意を決したティリスは野菜と果物を丁寧に箱に詰め、手紙を添えた。元婚約者のものを受け取ってくれるかもわからないけど。
「収穫したばかりのものを送ります。もしよろしければ召し上がってください」
と言葉を綴った。ドキドキする。
数日後。王宮から使者が訪れた。手にはマフリラオンからの返事が握られている。わざわざ。
「ティリス様、マフリラオン殿下よりお預かりいたしました」
使者から手紙を受け取ったティリスはドキドキしながら封を開けた。どうやら迷惑ではなかったらしい。中には文字で感謝の言葉が綴られている。
「ティリスへ
野菜と果物を送ってくれてありがとう。トマトは、信じられないほど甘くて驚いた。王宮の料理人たちも美味しさに感嘆していたよ。君が素晴らしい作物を育てていると聞いて、とても嬉しく思う。君の努力と魔法が、多くの人を幸せにしているんだね。もしよければ近いうちにまた君の村を訪れたいと思っている。君の育てた野菜を使った料理をぜひまた味わってみたい。
マフリラオン」
手紙を読み終えた顔は喜びで破顔。マフリラオンも作ったものを喜んでくれた。また会いに来てくれるという。安堵する。
(また、マフリラオン様に会えるんだ……)
胸が高鳴るのを感じながらティリスは庭の花々を見つめた。魔法で育てた花たちは日光を浴びて、キラキラと輝いている。
マフリラオンの再訪の日。ティリスは心を込めて育てた野菜を使った料理を勉強していた。料理の香りが鼻いっぱいに広がる中、扉が開いた。
そこに立っていたのは元婚約者であり、今では彼女を応援してくれる優しい青年。
「ありがとうございます」
「いや、こちらこそ」
二人はスープを囲みじっくり作られた野菜料理を味わいながら、これからのことをゆっくりと語り合った。
魔法農業に対する情熱。村人たちとの良き関係に余程感動していた。
ティリスもまた。優しさと思いやりにもっと深く惹かれていくのを感じていた。
魔法と人が繋いだ二人の新しい関係は、契約的な婚約とは違いもっと人間的でもっと人情的なものへと変わりつつあった。魔法が育むのは作物だけではない。
「ありがとう、美味しいね」
「そうですか。嬉しいです」
彼女とマフリラオンの感情もお互いの下から芽を出し始めているのかもしれない。




