220【前編】穏やかな生活がしたい。ゆっくり起きて美味しい朝ごはんを自分で作って庭で育てたハーブで淹れたお茶を飲みながら本を読む。疲れたら昼寝をして夕方に近所を散歩する。何気ない心安らぐ毎日を送りたい
ざまぁなし
香り高い紅茶を一口。
「……というわけで、婚約は解消させていただきます」
おっとりとした口調でティリスは目の前の美しい青年に告げた。豪華なシャンデリアが煌めく広間で、二人の間には少しばかりの沈黙が落ちる。青年マフリラオンは信じられないといった表情でティリスを見つめていた。
「ティリス、君は、いったい何を」
「聞こえませんでしたか?もう一度申し上げます。わたくし、ティリス・スノーライトは、マフリラオン・バルドウィン殿下との婚約を解消させていただきます」
ティリスはにこりと微笑んだ顔には少しの迷いも見られない。マフリラオンは眉をひそめ、少し語気を強めた。
「そんな、急に一体どうしたというんだ!何か不満があるなら言ってくれ。話し合えばきっと……」
「不満、ですか?そうですね……殿下はとても素敵で、お優しい方だと思いますわ。お顔も綺麗ですし、文武両道でいらっしゃいますし」
ティリスはそう言いながら、マフリラオンの整った顔立ちをじっと見つめた。確かに、絵画から抜け出してきたような美しさ。金色の髪は光を浴びて輝き、吸い込まれそうな青い瞳は真剣そのもの。
(困り顔のイケメンも目の保養になる)
心の中でそう思いながら、ティリスは言葉を続けた。
「ですが、わたくしには、どうしても譲れないことがあるのです」
「譲れないこと、だと?」
マフリラオンは訝しんだように問い返した。ティリスはゆっくりと頷く。
「はい。ずっと考えていたんです。前世の記憶が戻ってきて、自分がこの世界の人間ではないと知ってから……色々なことを思い出しました」
「前世の記憶……?」
マフリラオンはますます混乱したようだ。無理もないだろう。突然、婚約者が前世の話をし始めたのだから。
「ええ。元の世界ではごく普通の女子学生でした。毎日、友達とくだらない話で笑ったり、好きな漫画を読んだり、たまに寝坊して慌てたり……そんなごくごく平凡な生活を送っていたんです」
ティリスは遠い目をしながら、懐かしむように言った。
「この世界は魔法があって、素敵なドレスを着られて、お城に住めて……確かに夢のような世界かもしれません。でも、どこか違うんです。わたくしが本当に求めているものとは」
「君が本当に求めているもの……?」
マフリラオンの声は先ほどの強い調子から一転して戸惑いに満ちていた。
「はい。穏やかな生活がしたいんです。朝はゆっくり起きて、美味しい朝ごはんを自分で作って、庭で育てたハーブで淹れたお茶を飲みながら本を読む。疲れたら昼寝をして夕方になったら近所を散歩する。そんな、何気ないけれど心安らぐ毎日を送りたいんです」
ティリスはふわりと微笑んだ笑顔は、マフリラオンの心を少しだけ揺さぶる。
「殿下の隣にいるといつもどこか緊張してしまうんです。王妃になるための勉強も、社交界の華やかなお付き合いも、少し荷が重すぎました。もちろん、殿下はいつも優しく励ましてくださいましたが」
「ティリス……そうだったのか」
マフリラオンは、初めて本当の気持ちを知ったような顔をしていた。
「隣にいるよりも、もっと自分のペースで自分の好きなように生きていきたいのです。わがままを言っているのは分かっています。殿下のような素晴らしい方との婚約を解消するなど、ありえないことなのかもしれません」
ティリスは少しだけ俯いた。それでも、決意は揺るがない。
「ですが、出した結論です。どうか気持ちを理解していただけると嬉しいです」
再び顔を上げ、マフリラオンをまっすぐに見つめた瞳には、穏やかでありながらも強い光が。マフリラオンはしばらくの間、何も言わずにティリスを見つめ返していた。
広間には、シャンデリアの煌めきと静かな空気だけが漂っている。果たして彼願いを受け入れるのだろうか。
マフリラオンは、深くため息をついた顔には、先ほどの驚きや戸惑いに加えてほんの少しの寂しさが滲んでいるようにも見える。
「ティリス……君の気持ちはよく分かった」
少し驚いて顔を上げた。まさか、こんなにもあっさりと受け入れられるとは思っていなかったからだ。
「本当ですか?」
「ああ。確かに突然のことで驚いたし、正直に言って、寂しい気持ちもある。君は聡明で優しくて、一緒にいると心が安らいだ。王妃としてきっと素晴らしい女性になってくれただろう」
遠い目をした。
「言葉を聞いて、無理強いすることはできないと思ったんだ。誰だって、自分が本当に望む生き方をしたいと思うのは当然のことだろう?それが、僕の隣である必要はないんだね」
「……ありがとうございます、殿下」
ティリスは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。マフリラオンの言葉は心にそっと寄り添ってくれる。
「ただ、一つだけ聞かせてほしい」
マフリラオンは真剣な眼差しでティリスを見つめた。
「君が本当に望む穏やかな生活とは、具体的にどんなものなんだ?よければ少しだけ教えてくれないか?」
問いかけに少し考えてからゆっくりと口を開く。
「そうですね……朝は太陽の光でゆっくりと目を覚ましたいです。小鳥のさえずりを聞きながら、自分で焼いたパンと淹れたてのコーヒーで朝食をとるんです。庭には、色とりどりの花やハーブを植えて、眺めながらのんびりとお茶を飲む時間も作りたいです」
「自分でパンを焼くのか?ハーブティーも自分で?」
驚いたように尋ねた。
「はい。それが当たり前のことでしたから。ない道具や材料もあるかもしれませんが、工夫次第でなんとかなると思っています。図書館で色々な本を読んで新しいレシピを試してみるのも楽しそうです」
語りながら目を輝かせた様子は、先ほどまでの緊張した面持ちとはまるで別人。
「日中は本を読んだり、手芸をしたり。庭の手入れをしたりして過ごしたいです。気が向いたら、近所の村まで散歩に出かけてそこで出会った人たちと他愛ないおしゃべりをするのもいいです。夜は星空を見上げながら、今日あったことをゆっくりと思い返す。そんな穏やかな毎日を送りたいんです」
マフリラオンは言葉を一つ一つ丁寧に聞き入っていた。語る未来は王宮の華やかさとは対照的だったけれど温かく魅力的だ。
「なるほど……想像してみるとそれはそれで素敵な生活だ」
マフリラオンは微笑んだ。
「君が本当にそれを望むなら君の意思を尊重するよ。婚約は正式に解消しよう」
「本当によろしいのですか?」
ティリスは改めてマフリラオンに確認した。
「ああ。君の幸せが僕の願いだから。もちろん、君が困ったことがあればいつでも頼ってくれて構わない。友人としてできる限りのことはするつもりだ」
ティリスは心から安堵した。同時に彼のような優しい男性との婚約を解消することに、ほんの少しの寂しさも覚える。
「ありがとうございます殿下。あなたの優しさはきっと多くの人を幸せにするでしょう」
ティリスは深々と頭を下げた。自分の望む穏やかな生活へと一歩踏み出すことができる。
「それから、ティリス」
マフリラオンは躊躇うように言った。
「もし、この国で穏やかに暮らす上で何か困ることがあれば遠慮なく言ってほしい。微力ながら新しい生活を応援したいと思っている」
「……ありがとうございます。お言葉、心に留めておきます」
再び微笑んだ。婚約は解消されたけれど二人の間には、新しい形の信頼関係が生まれたのかもしれない。
こうして、ティリス・スノーライトとマフリラオン・バルドウィンの婚約は穏やかな話し合いの末に解消された。
(自由を得られたっ)
ティリスはこれから始まる自分の新しい生活に、胸を高鳴らせていた。
婚約解消から数週間後。ティリスは王都から少し離れた緑豊かな小さな村に居を構えていた。
古いけれど可愛らしい一軒家を借り、庭には少しずつ花やハーブを植え始めている。朝は鳥の声で目覚め、自分で焼いたパンとハーブティーの香りに包まれる毎日。




