206知識は人を賢くするけれど敬意を忘れた無能にとっては自分を縛り上げる呪いの鎖になるの。隣に寄り添う新しい愛妾と共にあろうことか貴重な古文書を酒のコースター代わりに使いながら図書管理官へ言葉を放った
王宮の深奥、静寂が支配するはずの大図書室。婚約者である第一王子のトマースは、隣に寄り添う新しい愛妾と共にあろうことか貴重な古文書を酒のコースター代わりに使いながら、図書管理官のミーチュリアに冷酷な言葉を放った。
「ミーチュリア、お前との婚約を破棄する。お前はいつも本ばかり読んでいて、埃臭くて愛想がない。大体、本なんてただの紙の束だろ?これからは、流行の歌や踊りでおれを楽しませてくれる彼女が隣にふさわしい。お前みたいな女は書庫の隅でカビでも食べてろ!」
「……本を紙の束と言ったわね?」
視界が真っ赤に染まった。この数年間、王家の正当性を守るために整理し、修復してきた膨大な英知を汚された怒りで指先が震える。
「わかったわトマース。紙の束に何が書かれているか一文字も理解していなかったようね。私が管理していた王家の特権承認記録と資産の譲渡証明書。これらすべての閲覧権限を、管理官の特権で今この瞬間に凍結する」
「ハッ、勝手にしろ!そんな古い記録なんぞなくてもおれが王子である事実に変わりはない」
震える手で巨大な書庫の鍵を閉ざした。無駄な紙だと言って酒をこぼした文書こそが、王子として王位を継承するための法的根拠そのものだったことをトマースは知らないのだろうな。愚かとしか言いようがない。
十分後。トマースが意気揚々と開いた豪華なパーティーの最中、監査官たちが雪崩れ込んできた。
「トマース殿下。貴方の王位継承資格を証明する原本が、図書管理官によって未承認とされています。貴方が勝手に使っている資産の多くも、法的な譲渡記録が確認できません。今すぐにすべての贅沢を停止し、取り調べに応じていただきます」
「な、なんだと!?ミーチュリア!ミーチュリアを出せ!あいつが書いた記録があるはずだ!」
「残念だけどねトマース。酒で汚したページに全財産の権利が書いてあったの……本を大切にしない奴に、言葉の加護なんて宿らないってこと」
混乱する王宮を背にし、門の外で待っていた男の胸に飛び込んだ。古文書の解読を専門とする魔導考古学者であり、情熱を誰よりも愛してくれたガオント。愛しい人。
「……ミーチュリアよく言った。無知な奴に、君の守ってきた歴史を触らせる資格はないだろ」
「ガオント!私、本が汚されるのは見ていられなかった……っ!」
彼の胸で悔しさと解放感で涙を流した。ガオントは髪を優しく撫で、そのまま抱き上げた。優しさに胸が鳴る。
「大丈夫だ。君が守りたかった知識はすべて僕が持ち出した。ミーチュリア、二人で新しい真理の図書館を作ろう。本を愛し、真実を求める者だけが集まる世界で一番美しい場所を」
「……うん。私の大好きな本、全部ガオントと一緒に読む」
背後で「おれは王子だ!本を、本を持ってこい!」と叫ぶトマースの声が虚しく響いたが読まれないような断片のようなもの。火に焚べたら即燃える切れ端。
王宮から言葉の重みを奪い、無知な王子を座から引きずり落としてから一年。設立した私設真理の図書館は大陸中の賢者が教えを乞いに集まる、世界で最も価値のある聖域となっていた。
ここでは、知識を愛する者だけが扉を開くことを許される。本の手入れをし、ガオントが内容を魔導具へと具現化する。平穏を邪魔する不純物は文字通り一文字も存在しなかった。
「ミーチュリア、今日の新刊の目録だよ。それと、書庫の外の廃棄物置き場で読み書きもできない野良犬が騒いでいる」
ガオントが古い羊皮紙を広げながら視線を窓の外へ向けた場所には、第一王子トマースの無惨な姿が。王位継承の根拠を失い、財産も身分も剥奪された彼はボロボロの服を纏い、震える手で地面に落ちた古紙を拾い集めている。
「ミーチュリア!頼む、一冊だけでいい!金になる知識が書いてある本を貸してくれ!僕は王子だったんだ、こんな汚い場所で終わるはずがないんだ」
「……野良犬どころか落書きね。ガオント、彼の言葉の信憑性をスキャンしておいて」
愛用の羽ペンを置き、冷たい声で命じた。
過去の栄光という名の誤植に囚われており、新たな知識を吸収するメモリは残っていない。一冊の本を貸し出すことは、貴重な紙資源の冒涜であり、知性の損失と判定されると出た。
拡声の魔導書を開き、絶望に震える彼へ最後の一行を突きつける。
「トマースに貸せる本なんて、この世のどこにもない。紙の束だと笑って酒をこぼしたあの日、自分の未来という物語を自ら塗りつぶしたの。ふさわしいのは誰にも読まれず、理解もされないまま朽ち果てる余白だけの人生」
待ってくれミーチュリア!僕は……僕は君を愛していたんだ!本よりも君を……!
「愛?……その言葉の意味すら調べたことがないくせに軽々しく使わないで。ガオント、消して。図書館に汚い言葉を記録させたくない」
「了解ミーチュリア。物語に無価値な注釈はいらない」
ガオントが魔導書を閉じると、強力な忘却の風が巻き起こった。トマースは自分の名前すら思い出せないほどの混乱に陥り、自分がかつて誰であったかも忘れたまま荒野の彼方へと追い出された。
言葉を汚した者に、語るべき明日など残されていないのだ。
「……終わったよミーチュリア。今夜は二人だけで秘密の禁書を読み耽ろう」
ガオントが後ろから手を回し、指先にある万年筆を取り上げた。体温が伝わるたびに胸の中に、どんな名作よりも甘い物語が綴られていく。
「今夜は感情をすべて僕が独占する共同執筆の時間だ。君がため息をつくたびに愛の濃度を書き足して、夜が明けるまで読み終わらない物語にする設計なんだけど」
「 物語の結末は死ぬまで書き換えないで?」
「美しい不変の契約。君との日々を永遠の傑作にしてみせる」
知識を侮り、真実を汚した者は誰の記憶にも残らない空白へと消えた。唯一の真理と刻み合った二人の書庫は滑らかな光が包み込む。




