186 地味な作業で制作したカーテンは防塵防音機能を失い薄汚れた布に成り下がりクッションは魔法の弾力を失い石のように硬くなる。屋敷全体の温度を一定に保っていた壁掛けの刺繍が色褪せて屋敷は凍寒に包まれた
ポカポカとした、陽だまりの中でひたすら針を動かしていた手元にあるのは、何の変哲もない白い布。銀の糸で、細かな幾何学模様を刺繍していく。一針ごとに、わずかな魔力が布に吸い込まれていく感覚がたまらなく好きだ。
彼女にとって刺繍はただの趣味ではない。生活の一部であり、呼吸と同じ。静かな午後のひとときを不快な金属音が台無しにしてくる。
「クギデオンヌ! またか?地味な作業に耽っているのか!?いい加減上を向け!下を向くな。恥ずかしいだろ!」
土足で踏み込んできたのは、婚約者のバルトロ公爵令息だ。その後ろには、いかにも高価そうなシルクのドレスをこれ見よがしに着飾った、侯爵令嬢のミィラが控えている。なぜともに?
クギデオンヌは針を止め、ゆっくりと顔を上げた。邪魔だ。普通に作業の邪魔。
「……バルトロ様どうかされましたか。そんなに声を荒らげて。わたしはなにかミスを?」
「どうかしたではない! 平民のような慎ましさが我慢ならないと言っている。公爵家の妻となる者が朝から晩まで針仕事など、恥さらしもいいところだ」
婚約者のはずのバルトロは鼻を鳴らし、浮気相手のミィラの腰を引き寄せた。浮気だなぁとしか思わない。好きじゃないから嫉妬はしない。
「ミィラを見ろ。彼女こそが公爵夫人にふさわしい華やかさを持っている。綺麗だろう?これだけ言えばもうわかるな?地味で暗いお前とは、本日限りで婚約を破棄させてもらう」
クギデオンヌは指先に残る銀糸の感触を確かめた。驚くほどショックはない。むしろ、これでようやく心置きなく刺繍に没頭できるという喜びがこみ上げてきたほどだ。彼は優しくないし嫌いだから。
「左様でございますか。承知いたしましたわ。では、屋敷にある私物は、すべて引き取らせていただきますね」
「は、勝手にしろ。端切れや糸くずなどこちらから願い下げだ!汚いものを見せるな」
「さよなら!捨てられた女さん!」
バルトロは謎に勝ち誇ったように笑い、ミィラを連れて部屋を出ていった。なぜか浮気相手が見下したが、初対面なのに変なの。見送ってから準備をする。
「わたしの能力は地味じゃないのだけど」
それから数日後、クギデオンヌは王都の片隅にある小さな家で、まったりと新しい生活を始めていた。朝、鳥のさえずりで起き、お気に入りの茶葉で淹れたお茶を飲める。誰に文句を言われることもなく、好きなだけ布に魔法を縫い込んでいく。
一方で、バルトロの公爵邸では異変が起きていた。
彼が「地味な布だな」と馬鹿にしていたものは、すべてクギデオンヌが魔力で編み上げた特殊な調度品。作り手がいなくなった途端、カーテンは防塵と防音機能を失い、薄汚れた布に成り下がった。
ソファのクッションは魔法の弾力を失い、石のように硬くなっていく。屋敷全体の温度を一定に保っていた壁掛けの刺繍が色褪せ、屋敷の中は凍えるような寒さに包まれてしまう。
「どういうことだ! なぜこんなに寒い! 掃除をしても、すぐに埃が溜まるのはなぜだ!」
バルトロは叫んだが、答える者はいない。
新しく婚約したミィラは、不便で汚い屋敷に愛想を尽かし、すでに実家へ逃げ帰ってしまったという。
「あー、本当に静か。やっぱり一人で縫い物をするのが一番だわね」
クギデオンヌは、新しく仕立てた防寒用のストールを肩にかけた。刺繍には今や王宮からも魔法の布として注文が入り始めている。
家の前で一人の男が足を止めた。旅装束に身を包んでいるが立ち振る舞いには隠しきれない気品がある。
「失礼。ここが伝説の糸紡ぎの魔女の家だろうか」
男はクギデオンヌが庭に干していた、汚れを弾く雑巾をじっと見つめている。将来の夫になるとは夢にも思わなかったが、運命を感じて風が吹いた。
「はい、そうですね。ご注文ですか?」




