183 塩漬け案件。発酵作業を義務としていたら婚約者に捨てられたので過去を塩漬けに新たに前へ進む。彼は騎士団の保存食をダメにしてしまい被害を出しロクに仕事に行けないと風の噂で聞きました
薄暗い地下の貯蔵庫で黙々と作業をしていた。大きな樽にぎっしりと詰められた野菜へ適量の塩とハーブを振り、重石を乗せる。地味な保存食作りこそが至福の時間だ。
カビの匂いと発酵が進む独特の酸っぱい香りが混ざり合う空間は、華やかな夜会よりもずっと落ち着くのに静寂は重々しいブーツの音によって破られた。
「メリエル。またこんな腐りかけのゴミをいじっているのか?バカだな」
現れたのは婚約者である騎士団長の嫡男エーエズだ。鼻をつまみながら心底汚いものを見るような目でメリエルを睨みつけた。背後には可憐な修道女の格好をした娘が寄り添っている。いつものことだ。
「大事な発酵の時期ですので大きな声を出さないでいただけますか?」
「黙れ! 貴族の令嬢でありながら、使用人でもやらないような不潔な作業に没頭しおって。お前の執念深さには吐き気がする。今日限りで婚約は破棄だ。いいな!」
エーエズは言い放ち、隣の娘の肩を抱き寄せた。見せつけられても困る。
「清らかな癒やしの力を持つ彼女が今の私のパートナーだ。お前のような塩漬け女は、さっさと屋敷から出て行け」
メリエルは手に付いた塩をパッパと払った。驚くほど心は軽い。ようやく、理解のない男のために保存食の在庫管理をしなくて済むのだと。
「わかりました。個人的に仕込んだ樽はすべて持って帰りますね。ああ、それからえっと、今まで管理していた地下の調整も、これからはそちらの彼女にお任せしますね」
丁寧に楽しげに微笑んだ一ヶ月後。メリエルは実家の港町で、潮風に吹かれながら最高の干物作りに精を出していた。市場で仕入れた新鮮な魚を捌き、絶妙な塩加減で干す。
夜には発酵の進んだ極上のチーズと自分で醸造した果実酒を楽しむ理想的な生活。
一方でエーエズの屋敷からは連日のように悲鳴が上がっていた。彼はメリエルが地下の貯蔵庫で漬物を作っていたわけではないことを知らず遊んでいたみたいで。
魔力を込めた独自の保存法で騎士団の遠征用食料が腐敗するのを防ぎ、さらには兵士たちの疲労を回復させる特殊な栄養食を供給していたのだ。
いなくなった途端、貯蔵庫の食料は次々と腐り始めてしまい後釜に座った修道女は祈りを捧げたが、カビの増殖は止まらない。
食あたりを起こす騎士が続出し、騎士団は機能不全に陥った。
「メリエルを連れ戻せ! 魔法の樽がないと次の遠征に行けないだろ!クソぉおお!」
エーエズが血眼になって探しているという噂を、メリエルは酒場の片隅で聞いた。
「ふふ、もう遅いわね」
向かいの席には一人の端正な顔立ちの青年が座っている。王都でも有名な大商会の主。メリエルが作った干物を愛おしそうに眺め、口に運んだ。
「素晴らしい。これほどの味、これほどの回復効果。メリエルさん、君を我が商会の専属職人として……パートナーとして迎えたい」
メリエルは琥珀色の酒をゆっくりと喉に流し込んだ。
「いいですよ。作業中はとっても静かにしていたいです」
「もちろんもちろん。君のための最高の発酵室を用意しよう。約束しよう」
「それでは、契約を」
元婚約者との腐れ縁を塩漬けにして捨てた少女の前に新しい、刺激的な熟成の時間が始まろうとしていた。




