176ガラクタと呼んで持ち出させた紙切れの中には他家との重要な借用書や領地の境界線を示す魔法契約書がすべて含まれていたのでご飯も食えないし風呂にも入れないんだと元婚約者は吠える
リディーアは山積みになった古い書庫の整理を終えてからフウ、と小さく息をついた。指先についたインクの汚れを布で拭き取り、窓際に置いた冷めたハーブティーを口に含む。美味しい。
紙の匂いと、わずかに残る古い魔法の残滓が混じり合ったこの空間が何よりも好き。埃が舞う静かな午後のひとときを乱暴に破ったのは、重厚な扉が開く音。バンと鳴る。
「リディーア! またこんなカビ臭い部屋に引きこもっているのか!」
入ってきたのは、婚約者のエリオッツ侯爵嫡男。彼の後ろにはいかにも「守ってあげたい」という雰囲気を醸し出した、瞳の大きな男爵令嬢、ラサヤが張り付いている。
リディーアはゆっくりと眼鏡を外し、机の上に置いた。初めから落ち着いていて喜びが相手に伝わらないように内心、胸を押さえた。相手が最低ということを改めて知れたから。
「ん?お疲れ様でございます。何か急ぎの書類でもありましたか」
「は?書類などどうでもいい。お前との婚約を破棄しに来たんだ。ラサヤのような心優しく癒やしてくれる女性こそが、未来の侯爵夫人にふさわしいとわかった」
エリオッツはリディーアが丹精込めて整理したばかりの棚に背を預け、冷笑を浮かべた。バカ丸出しの変顔に見える。
「数字と記録にしか興味のない歩く年表なんて、見てるだけで退屈なんだよ。ばばくさくて敵わん」
背後にある棚が少し歪んだのを見て小さく眉を寄せた。
「はぁ、左様でございますか。承知いたしました。屋敷を出て行きます」
「潔くて助かる。慰謝料代わりにガラクタみたいな本や紙切れは全部持って行っていいからな。ほら、行け」
「まぁ」
リディーアは心の中で小さくガッツポーズをした。ようやく、自分勝手な男の資産管理や複雑怪奇な領地運営の裏方仕事から解放されるのだし。
「ありがとうございます。お言葉に甘えて、私の管理物はすべて回収させていただきますね」
一礼すると魔法の鞄にいくつかの古いペンと、目に見えない精霊との契約書を詰め込んで軽やかな足取りで部屋を後にした。ホクホクだ。それから二週間。
リディーアは王都から離れた湖畔の別荘で、心ゆくまで隠居生活を楽しんでいた。朝は小鳥のさえずりで目覚め、午前中は読書。
午後は近所の精霊たちと語らいながらお菓子を作る。エリオッツの支離滅裂な領地経営を修正するために徹夜していた日々が、遠い昔のことのように思えた。最高。
一方、エリオッツの屋敷は文字通り崩壊の危機に瀕していた。リディーアがいなくなった途端、屋敷中の鍵が開かなくなったのだ。
「入れない!」
それだけではない。
「トイレに行けん!?」
井戸からは水が出なくなり、コンロの火は消え、どれほど高級な薪を焚いても部屋が暖まらない。
「どういうことだ! どうして魔法具が一つも動かない〜!説明しろ!」
エリオッツは叫んだが執事もメイドも首を振るばかり。誰も知らなかったのだ。リディーアが趣味で整理していたのは、そこら辺にある書類ではない。
屋敷に住まう精霊たちとの契約と、それらを維持するための膨大な魔力回路のメンテナンスそのものだったことに。
リディーアという管理人を失った精霊たちは即座にストライキを起こし、屋敷の機能をすべて停止させてしまった。エリオッツがガラクタと呼んで持ち出させた紙切れの中には、他家との重要な借用書や、領地の境界線を示す魔法契約書がすべて含まれていた。
「連れ戻せ! バカ女がいないと飯も食えないし風呂にも入れない!早くしろ〜!」
「ぼっちゃま!」
「落ち着いてくださいませぇえ!」
「謝罪文を考えておいてくださいね!」
エリオッツが半狂乱で叫んでいる頃、リディーアは湖のほとりで一人の美しい青年に膝枕をされていた。透き通るような銀髪を持つ青年は、森と湖を統べる上位精霊。
「リディーア、ねぇ。あんな人間たちのところに戻る必要はない。君がいれば森の時間はもっと穏やかに流れるのさ」
青年の髪を優しく撫でながら、スコーンを口にした。
「うーん。そうですねぇ。私もあんなに騒がしいところなんてもう真っ平ですしね」
「決まりだ。約束だよ?」
「はい」




