そのXLIV
たった一言で。ほんの月並みで。些細な雑踏の一部。
だから私はこの在り方をこう言うんだ。
それが私だけの愛だと。
毎週日曜日に投稿しています。よろしくお願いします。
昔の私はどんな絵を描いてたっけ。
動物だったかな? 人とは体の構造が違っていていつも満足のいく絵にはならなかったな……。
自然の絵も描いてたかな? 特に風の流れになびく草木が好きだったな……でも肌で感じることばかりが先行して、その感覚が上手く筆に乗せるのは難しかったな……。
私は、私の見てきたものしか、そのとき目に映っている対象物でしか絵に起こせない。
それはそこにあるだけ。肉眼で見るにはなにも苦労しない無機物だ。
ただ、それだけの物体だというのに。
それを私が白紙に写すだけで。
あっという間に私だけの物体になっていくその特別感が。
たまらなく私の中の熱意を滾らせていたのだ。
「愛歌はもう……ピアノ弾けない?」
そこはまだ保健室の中で、さっきまで息を乱し、呼吸を荒げ、声を騒がせていた愛歌はもうどこにもいなかった。
水島先生の腕の中で深く息を吸っては吐いて、落ち着いていた。
そのとき、先生がぽつりと愛歌に訊いた。
「え……ピアノ、かしら?」
「うん。ずっと透華だけに弾いてきたピアノは、もうダメ?」
「どう、なのかしら…………分からないわ。私は透華に聴いてもらっていたあの時間がとても好きだったの。なにもしがらみがなくて、ただ純粋に心からわたしを受け止めてくれる透華だけには正直な音を鳴らせたの……」
「だったら、今はもう……いやになった?」
「どうなのかしら……確かにもう、弾く意味なんてないのかもしれない……」
「でも、大切なものは……変わらない」
「そうね。あの曲はこれからも透華とわたしを繋いでくれる。あの曲だけは、わたしから透華を逃すことはないわ」
「じゃあ……確かめてきて」
「ええ、そうね……確かめなきゃ」
「うん、いってらっしゃい」
「え……一緒にきてくれないのかしら?」
「これは、愛歌と透華の大切だから、わたしじゃない。ちゃんと二人で、確かめてきて」
「分かったわ…………」
愛歌は先生の両腕から解放され、保健室をあとにする。
私はなにか覚悟を決めたような力強い瞳の光を放つ愛歌を横目に見送る。
残された先生は、ふっと小さく息を吐き出した。
「愛歌……大丈夫。一人じゃないから。ね、梨花……そうだよね」
先生は虚空の中でなにかを確かめるように呟いていた。
梨花? という人の名前を呼ぶ先生はなにか懐かしげにどこか儚い表情をしていた。
それは見ていて揺るがない信頼を感じるほど、安心した相好だった。
まるでもうすでに愛歌の気持ちに確証があるような……そんな悟った目をしていた。
思い出のピアノが佇むあの教室へ向かう愛歌を、後ろからそっと追いかけた。
廊下の真ん中を歩いても、誰も私に見向きもしない。どれだけ駆け足で追いかけても一切足音も鳴らない。
私は今、本当に透明人間みたいな曖昧な存在なんだと改めて認識する。
あの人は私の生死は定かじゃないみたいなことを言ってたけど、じゃああの人はどっちの人なんだろうか……というかあそこは一体なんなのか……天国とも地獄とも言えない無の境地だった。
まさか死にかけている人はみんなあそこに……なんて余計なことを考えていると、愛歌はすでに教室の中に入っていて、私は急いで愛歌の背中を見逃さないように教室の中へすり抜けた。
「ふぅ…………」
愛歌は足を踏み入れるなり、すぐにピアノの前に立った。そのままゆっくり腰を下ろす。
ちょうど、沈みかけの夕日の輝きが窓から差し掛かっている。
…………あぁ、そうだ。これだ。
緋色、茜色、橙色……色んな表現はあるけれど。
その日にしか見えない色に包まれる愛歌の姿。
一刻とも戻らない進み続ける時間の中、その姿勢でじっと静かに目を瞑る愛歌のその光景。
それを、私はいつも見ていた。
次にその指がピアノに触れ、唯一の音を奏でている間も。
その愛歌の形すらも、曲として私はいつも耳にしていた。
うん……うん、そうだ。それが、私だけの幸せだった。
そして、今日もまた、愛歌はそっと優しく指を鍵盤に乗せる。
………………でも、音はまだ鳴り響かない。
代わりに私の鼓膜に届いたのは、私を呼ぶ愛歌の声だった。
「ねぇ、透華。今はどこにいるかわたしには分からない透華……それでもどうか聞いてほしいわ」
うん、聞いてるよ。ずっと愛歌のそばで、愛歌の言葉を受け入れる準備はできてるよ。
「これは、わたしが……初めて作りたいと思ってできあがった曲なの。誰かに、たった一人でもいいから心に届いてほしいと思って作った曲なの」
私はそれを知っている。 散々聞いてきた。
……でも、なぜその曲が生まれたのかは、知らなかった。
「それで初めてこのピアノで流したとき、透華。あなたはわたしの元へ歩み寄ってくれたの。もう、嫌だと思っていたピアノで、最後の願いを奏でたとき……あなただけは気付いてくれたの」
…………私はその日のことを忘れはしないよ。
心を撃ち抜かれたような衝撃的な音色が私の全身を駆け巡ってきたあの瞬間を。
「だから、わたしは何度もこの曲を聴いてくれる透華に救われたの。やっぱり好きなんだ……って、生きる意味が楽しくなったのよ」
「そんな曲なの。わたしにとっては命を注ぎ込んだ曲なの。なにもかも詰め込んだ曲なの」
愛歌はふと空の方へ顔を向けた。
そこには私が立っていた。
目が合っているような気がした。まるで本当に私のことが見えているような錯覚さえした。
そして愛歌はそのまま私に顔を向けたまま。
「これを拾ってくれた透華へ、ありがとう」
愛歌のその曲を聴くのは最後かもしれない。
私がこのまま消えてしまえば、それは私にとっては最後になるから。
だから、私はその一音一音を聞き逃さないように、必死で流れていくメロディを頭に仕舞っていく。
もう何度も聴いたその曲は。
今になって焦るほど忘れるものでもないのに。
私は、その喪失感に涙が溢れた。
でも、そこには心があるから。
やはりそこには命があるから。
だからそこには、魂があって。
私は……私たちは。
そのたった一つの確かなその人の証明で、繋がった。
私って今どんな姿形をしてるのかな。分からないな……。
もし私じゃないなら、ちゃんと愛歌にこの気持ちが伝えられるかな。どうなんだろ……。
でも、もし、今の私が私じゃないというのなら。
せめて、愛歌自身として、愛歌に届けたい言葉がある。
ここに私がいるのは、あなたが私をここに呼んでくれたから。
それだけ、その想いが募っているから。
こんなにも、愛が満ちているから。
私は、愛歌の目を見て。その奥の奥のさらに奥底まで突き刺すように渾身の言葉を投げる。
「心と魂は一緒の場所にあると思わない?」
そこにいる愛歌の大きく見開いた瞳は。
私の存在を教えてくれた。
どうも雨水雄です。
いや……あれです。もうどうしようかとここ最近は毎週日曜日に悩んでおります。
いや確かにですよ? 物語の方向性や、線路はあらかた決まっていて、大幅に脱線することはないんですが……。
でもやっぱり作者本人がその日その日で新たな発見があると、それを作品に昇華したいという衝動に駆られまして、なんとかその部分をここに挟んでやろうか……と。でも待てよ。ここはこの台詞が見せ場だから辻褄が合わないじゃないか……とか諸々問題点を修正してなんとか丸く収めてるんですよ……まぁ自業自得なんですけどね。
まぁ、でもあれですよ。つまりはエゴでいいかと。結局はまず雨水本人がそこに本気の熱情をもって楽しむこと。それじゃないと読者の心を感動で灯すことなんてできないんですから……まずは幸せを丸々一つ形にしてから半分こです。
だから、来週もまた雨水はなんかこう……雨水の本気を詰め込みますのでどうぞよろしくです!
さて今週もここまで読んでくださりありがとうございます。
では来週もよければここで。




