そのXXIV
人と人が交わるとき。
それは少なくとも摩擦があって。
擦れ合う言葉や行動に生じる熱が強いととぶつかってしまうし、冷たいと人を傷つけてしまうこともある。
人はそうやって温度差に気をつけながらどうにか平熱を保とうとする。
だけど、ふと辺りを見渡せば摩擦もなく素通りされる人ばかりなのが普通で。
だから、人の温度を大切にできる人がいることを忘れてはいけないんだろう。
毎週日曜日に投稿してます。よろしくお願いします。
放課後になった。
黙々と授業を聞き流し、ただ淡々と黒板の文字をノートに書き写すだけの作業を繰り返すうちに、その時間は必然的に訪れた。
私はこの時間を待ち侘びていたんだろう。少し鼓動が速くなるのを感じ、腰は浮つき、足は雲のように軽かった。
一刻も早く、あの教室に向かいたい。
また今日も彼女と許された時間を共にしたい……。
でも、だからだ。
ここに至るまでの時間はじゃあ一体全体なんのために?
私は目的の時間のために我慢したというのなら。
だったらそれまでの徒労と思われるこの時間は。
…………私はこうして寿命を削り続けて、後悔だけを残したいのか?
「…………頑張るってそういうことじゃん」
誰にも聞かれることのなく浮遊する自己嫌悪は。
思い浮かんだ彼らと比較した自分の愚かさを痛感するものだった。
私はこれから気付かないうちに、目の前のめんどうから逃げると同時に、何度も大切に思うなにかも見落としてしまうんだろう……。
そう思いながら、頭を鮮明に支配する彼女の幾多の表情は。行動は。言動は。音楽は。
今、私が最も失うことを恐れている象徴だ。
そして私は教室の前にたどり着く。扉は少し隙間を残して、鍵はかかっていないことを示していた。
この先に彼女はいる。私が手放したくない存在は、ちゃんと実在している。触れられる。言葉を交わせる。
「………………」
私が彼女のためになにができるのかは分からない。
でも、これだけはやってきたと思えることはある。大して努力した形跡はない。それほど自慢できる自信もない。
だけど、それを好きでやっていた。いや、好きだと選ぶためにそれを手にした。だから私はあの時間を過ごしていた。
過去はうそをつかない。それを証明するように、私は自分でも不思議なほど軽く。無意識なほど、自由に。
あの子を描いていた。あの子の姿を刻むために絵を選んでいた。
それはもう…………疑うのは無理じゃないか。
私は、それだけを武器にして、戦ってみてもいいんじゃないか?
「………………」
扉に手をかけ、この軽薄な壁の先のあとほんの数メートル進めば彼女のあたたかさは。生きていると感じる体温はそこにあるはずなのに。
覚悟を決めるのに数秒……あるいは数分を催した。
そして、上手く伝えられるかも分からない整っていない雁字搦めになった脳細胞を吹っ切るように。
思いの丈を頼りに、私は一刻も彼女の元へ向かうことにした。
ガララ…………。
「ん? あら、透華!」
「うん、愛歌」
ちょうどピアノと対峙していた彼女が、ひょこっと頭を突き出す。その明るい声色を耳にすると、開放感とともに密かに自己肯定を覚える。
あぁ、今日もここに来てよかった、と。私が彼女に会うことは間違いではなかったんだ、と。
そこでようやく落ち着きを取り戻した私は、強張って飲み込んでしまった言葉を今度は彼女の元へ届ける。
「今日も来たよ」
「ええ、ありがとう。待っていたわ」
彼女の近くに寄ると、顔がよく見える。
邪念はなく潔白に。穢れはなく純白に。あまりにも純度の高い笑みが出迎えてくれた。
もし、これ以上ない価値のこれが、私だけのものなら。
私こそ、そんな邪まな独占欲に駆られる。
そんな独り占めしてしまいたいほどの彼女へ、私は会いに行ける。そばに寄れる。
その優越感が、ひどく甘い美酒なのだ。
彼女がいればいい。彼女が喜んでくれるならそれでいい。
彼女が幸せなら、私の生殺与奪はその心に預けよう。
本当にいなくなってしまったんだと思ったあの頃をもう思い出したくなくても、こうして当人を目の当たりにしてしまうと嫌でも過ぎる。
もうそれならいっそのこと、いつ彼女がいなくなっても。
その最後の瞬間に彼女がほんの少しでも微笑んでくれるのなら。私の前で私のやってきたことが正解に傾いているんだと微塵にでも思えるなら。
これは献身なんて立派なものじゃない。
ただの私がそれで満たされればいいだけの、エゴだ。
「それじゃあ今日は……と言っても透華のリクエストは相変わらずなのかしら?」
「え? あ、まぁ……いつものやつがいいかな」
彼女は鍵盤を指でなぞりながら、フラットな声色で私の目を見る。
彼女の奏でる音が聞ける空間、時間が久しく感じた。
いや、実際に久しいのは確か。懐かしく感じるのもまた道理。
それに付け加えるように、喪失感が未だ喉元に違和感として残留しているせいで、余計に私の溜飲が下がることはなかった。
もっと。もっと……彼女との特別が欲しい。心の中で駄々をこねて我儘が独り歩きしていく。
「そう。じゃあ……」
彼女はそっと目を瞑り、ぐっと指先に力を込める。
押し込まれた鍵盤は、代償として与えられた音を響かせる。音と音が繋がっていく。それぞれが重なり音色となり、音楽になる。
今、彼女がピアノに触れている時間が、彼女の生き様を刻々と残していく。
その貴重なひとときを、私は独り占めしている。こんなに甘い蜜を舐めずにいられるか。
私だけの宿木が、私だけに安らぎを与えてくれる。
「…………」
そうだよね……。
この刹那とも思える瞬刻が、許されているというのなら。
私はこの身を投げいる価値があるじゃないか。
この身を犠牲にしたとして、そこに彼女の物語の見開き分くらいを占領できるというのなら。本望だ。
彼女の指も、もうすぐ止まる。
曲も終盤に差し替かっている。そんなのこと私と彼女は分かりきっている。慣れ親しんだ曲調がピリオドを打つのもあと僅か。
それでもなにか盛り上がるわけでもない。転調も不協和音もアレンジもない。ただフラットに楽譜をなぞるだけのように、それでも静かな歩調で室内を見えない音符で埋め尽くす。
気を抜くと、夕方に流れるチャイムのメロディーにさえ掻き消されそうな弱くて薄くて短い彼女との安穏を刻む秒針は、私の中でぽつぽつと滴り落ちる水滴が器を満たすように、少しずつ……少しずつ生きている実感。いやそれよりも生きていたい渇望をくれる。
明日もまたここで彼女と聞きたいと思うことが、結果的に私を生かしてくれていた。
それは母と食卓を一緒にしたいと思う気持ちと変わらないものだった。
私は、間接的でも、まだ次に昇る日の光を求めていたのだ。
…………そして今、彼女の動きが丁寧に終わりを告げる。
指はピアノから離れ、腕はだらりと脱力する。
「今日はどうだったかしら?」
彼女は口元を緩めて優しく笑む。
「うん、今日も変わらずよかった」
「そう、なら私もよかったわ」
「それでさ愛歌。私決めたことがあるんだけど」
「…………それはなにかしら?」
一瞬、教室内の空気が固まる。気のせいだと思いたいほど体に冷たさを感じた。
体が震えている。これは寒さのせい?
違う。これは緊張のせい。覚悟のせい。
勇気が足りないせい。
でも、だから言うんだ。足りないなら、ここで用意すればいいのだ。
もらってばかりで独りよがりに笑って過ごすのは、もう息苦しいから……。
「私、もう一度絵を描いてみるよ」
「そう。私、とっても応援してるわ」
「ありがとう」
彼女は本心からの言葉を述べる。そう信じることは容易だった。
彼女の手は、胸元で強く握られていた。
そして、彼女の目は再び私を捉える。
「それは、誰のため?」
「愛歌のため。愛歌が喜んでくれる絵を、私だけの力で描いてみたい。それがきっと私を幸せにしてくれるから」
「そう…………」
私がその決心を口にしたとき。
いや、これはなにかの勘違いかもしれないけれど。
「それなら私は、嬉しく思わないといけないわね」
私の目には。
彼女の瞳の奥が、濁って見えた。
どうも雨水雄です。
はぁ……いつも通り15時に投稿したかった。
しかし休日なのをいいことに職場に向かってはパン生地をいじいじしていると気が付けば今になってた……みたいな。まぁ夢中になれることがあることはいいことですかね、とほほ……。
というかここでいつもの雨水を紹介しますと、毎週日曜日は雨水が仕事しているパン屋さんは……というかまず雨水は今パン屋で働いてます。はい。
そして、日曜日は営業してないのですが、ちょっとでも早くパンが作りたいので午前中だけお店で練習をしているわけなのですが……今日は遅れた。だから遅れたというわけなんですよ、とほほ……。
つまりどうでもいいことですね、はい。余談でした。
というわけで今週もここまで読んでくださりありがとうございます。来週は15時に!
では来週もよければここで。15時に!




