そのXXIII
譲れない思いがあるとして。
でもそれを簡単に口にはしたくなくて。
だけどその重要性は知って欲しくて。
だからこそ、通じ合わない不条理と、不満が、私から勇気を奪っていくのだ。
扉を開けた途端に集まる数々の眼差し。
それは私が特別なにかを持っているわけでもなく。
別段注目されるような魅力を持ち合わせているでもなく。
ただただ、扉を開ける音とただ一人の人間としての存在感が教室の空気に侵入しただけという警戒に近い興味がそうさせているだけのごく自然な現象。
そうだ。私は誰かに求められるほど栄誉も名声もない。学校という小さな鳥籠の中でさえ顔を覚えられる対象にもならない。きっと鳩にさえ認識されないくらい地味で薄氷のように脆く弱い存在なのだ。
だからさっき私が一瞬でも受けた数個の眼の光は、今では空気に溶け込み、すでに誰かの肺の中にでも吸収されてしまったことだろう。もはや呼吸の一部になれることすら少しは誇りに思うべきなんだろう……。
「はぁ…………」
なに言ってんだろ、私。
たとえ心の中で抑えた愚痴であったにせよ、朝から自分の滑稽さが不愉快極まりない。
自分の席に腰を下ろし、吐き出した溜息もまた、行き場を失い澄んだ空気へと化していく。
なにもすることがなく、思考は干からび、焦点の合わない視界がひたすらに黒板に向かうだけ。
気が付けばまた深い息をはぁ……と漏らしていた。
「黒田さん、おはよう」
唐突に肌色が目に飛び込んでくる。
はっと我に返り、視力を取り戻すとそこには高原さんがこちらを覗き込んでいた。
「あ、うん……おはよ」
とりあえず反射的に挨拶を交わす。あまりにも咄嗟だったからすごく無愛想だったかもしれない……。
「あ、あの……大丈夫?」
「へ? な、なにが?」
「ううん、なんだかさっきから溜息ばっかり吐いてるように見えたから……」
見られていたんだ……こんな無意味な瞬間を。
誰も私なんか微塵も目もくれないとばかり油断していたせいか、なんだか恥ずかしい気持ちが湧き上がってきた。少し顔が熱くなる。
「あ、いやえっと……特になにもないよ」
なにもないから深く息を吸って吐くしか時間を潰せなかっただけ。その時間が、この子の時間を奪ったんだと胸がきゅっとなった。
「本当に? 最近また寒くなってきたし体調が悪いとかじゃない?」
「ううん、本当に大丈夫だよ」
「……そっか。でも顔もちょっと赤いし、しんどくなったら保健室だよ?」
「うん、心配させてごめんね。あとありがとう」
「ううん、私こそお節介ごめんね」
高原さんはひらひらと手を振って席へ戻っていく。
その後ろ姿はまたすぐにこちらを向いてしまいそうなほど不安を醸し出していて、私は後ろめたさが募る。
私なんか……卑屈で、卑下したい自分が積もっていく。
取り柄はない、期待は希薄で、交流は稀有で、だめだめな私なんか……。
「………………」
まぁ、ここまで自己評価の低いことは多分、珍しくないことなんだろう。
みんな、自信に溢れているわけでない。成功に満ちているわけでもない。正解だけを選べたことなんてないだろう。
目の前に岐路が現れたとして、その時点ですでに取捨選択は始まっている。それはどちらにも正解と間違いの要素は含まれているから、結局どちらを手に取ってもそのときは正解であり間違いでもある。
だから人はそんなに強くない。みんな迷って悩んで、弱っていく。そこで強く前を進める人間は、まず岐路が岐路じゃないのだ。逃げ道なんて選ばないんだよ。
それなら私は? 今の私は?
私が今、選ぶべきこの先の道はなにがある?
どちらがある? どれがある? そもそもなにがしたい?
なにができる? なにをしてもらいたい?
さぁ、なんだろう……。
いや、そうやって目を逸らそうとしている今がもう、道を踏み外しているんだ。逃げ道を歩こうとしているんだ。
本当は分かっている。憧れるだけの私が、目が眩むだけの私がその土俵に立つ一つの選択があるということは。
そこは私が挑むべき世界なのかもしれない。輝きが待つ道程がここにもうあるのかもしれない。
そうすれば、私は少しくらい殻を破けるんだろう。
胸を張って、彼女の隣に立とうと思えるんだろう。
そう思いたい。そう思えるように生きてみたい。
でも、そう思えば思うほど、今の私が、今であるまでに。
彼女はなぜ私を選んでくれたというのだろうか?
私はまだ、残された道があるの?
「………………」
分からない。と、また息を吐き出しそうだった。
吐いたらまた考えを切り出しそうだった。
でも気付けばその視界には先生が立っていて、私の思考は途切れた。
チョークが黒板を白く染めていく。知識の色で埋めていく。
私は授業が始まったんだと、ノートを開き板書を始める。
炭酸マグネシウムの粉が宙に舞う。
私は、それが混じる空気を吸いながら、教室の色に彩られるのだった。
授業中は常に上の空で、もはや今日私がここにいる意味は皆無に近かった。
学業が本業であるがゆえに、私たちはこの場を借りてそれを指南する大人を頼る。
歴史であれ、数式であれ、読解であれ、そこに正解はある。用意した選択肢にわざと間違いを組み込み、私たちを試す。
だから私たちはその正しさを得るために勉強する。学習する。知識を身につける。
でも、それだけを繰り返す日常の中で、私自身の正解はどこにもない。選択肢を準備して支度して、いざ選ぶのも全て己。利己的であれ利他的であれ、その先に僥倖であっても、本懐であってもそこに正解があるものだと信じた選択をする。
それだけの簡単な方程式。正解だらけを前見た世界に広げてしまえばいいだけ。
ただ、難しいと思ってしまうのは。
そこにただ一つとして間違いを用意してなくとも、辿り着く先が暗雲立ち込める道程の瓦解を意味することがあるということ。
道標はなくて、崖は思わぬ時点で容易に私をどん底へ導く。
「……………」
カリカリ……私は目の前のノートに余計なことを書き足す。
黒板には書いていない正解に不要な痘痕のような痕跡を残す。
それは文字でも、数字でもなく、絵。
目に止まったその女の子の後ろ姿を真っ白なノートに映し出す。ぴくりとも動かず前を見ているその子を、そのままの形で描く。
「高原さん、姿勢綺麗……」
思わず口に出してしまう。
途端、しまったと思い私は口元を手で覆った。だけど幸い、横をちらっと見てもこちらに異変があったような目は向けられなかった。よかった……たぶんほんの小さなひとりごとで済んだみたいだった。
そして私は再度またその子へ目をやると。
「……………」
目が合った。たまたまか? それとも地獄耳なのか?
首だけをこちらに回してその柔らかい眼と重なる。
「…………?」
カクテルパーティー効果とでもいうのだろうか……高原さんは授業中の静かな室内でぼそっと自分の名前が呼ばれたことに反応してしまった。
私はそれを誤魔化すように白けた顔で首を傾げて見せる。
それでもなお凝視が続くこの時間…………気まずい他ない。
「じゃあ、この作者の気持ちを……はい、ちょっとそこでよそ見してる高原ちゃんどうぞ」
気さくで若い女性の国語教師が親しんだ呼び名で高原さんを指名する。
「あ、えっと……」
「んん?」
「すみません……分かりません」
高原さんはそもそもどこを問われているのかが分かっていない様子で、ページをぺらぺらと彷徨った挙句、恥ずかしそうに俯いてしまった。
先生がその一連を微笑ましく眺めていたことは第三者の私からはばっちり確認できたのだが、当の本人であるその子はずっとあたふたしてしまう始末。
「今度からはちゃんと聞くようにね」
「はい…………」
「じゃあ代わりに……高原ちゃんと見つめ合ってた黒田ちゃん。答えて」
「は……?」
「んん?」
まずは初めてこの授業で名指しされたことに驚く。
そして次に、私が高原さんと目を合わせていたあの瞬間がバレていたことが恥ずかしくなる。
またしても被害者になる高原さんはもはやもう顔を上げられそうな気配はなかった。耳が赤い……。
「あぁ、えっと……」
またしても教室内は同じ時間が流れる。
私は目を泳がせて適当に教科書の文字を追いかける。だめだ、どこにもそれらしい文面が見つからない。私は困り果てて隣の席の子を見やる。だが、目を逸らされる……だめだ、この子も答え分かってないんだ……。
そして未だ先生の視線はこちらに向いている。
…………そんなの知ったこっちゃいないのに。
本当は作者だって眠い早く終わらせたいどうでもいいとか考えていたかもしれないのに……。
でもそんないい加減な答えをしたところで授業は進まないし。
あぁ……もう、それだったら。
もし、私が作り手の立場だったら…………。
「読者の記憶に残せたらいいなとか、小難しい言葉を使って印象付けてやろうとか……そんなとこですかね」
…………私は斜め上を見つめながらへらへらと答える。
そして目線だけを先生へ向けると、その目は大きく見開かれていて、呆気に取られているようだった。
「…………なんというか、穿ったようであまりにも広義な回答ね」
「ははは……」
私は乾いた笑いを返す。
「まぁ、普通に間違ってるけどね。黒田ちゃんもちゃんと授業聞いててね」
「はい、すみません……」
そうして私は、下を向く。ノートが目に映る。
「…………」
そこに正解は書いてない。書いてあるのはさっきまで私が見ていたものだ。
その黒鉛が記し残した跡は……。
たぶん、私という作者の気持ちそのものなんだろう。
どう思っていたかなんて……言う必要もないこと。
どうもこんにちは雨水雄です。
一週間ぶりですね。もうあっという間に7日が過ぎました。にもかかわらず辺りを囲う環境は少し肌寒くなり、時間の経過を刻々と知らせます。
気付いたらこんなにも時間を浪費していて、昨日と変わらないと思っていたはずが一週間前からは随分と変わっていたり……取り残されるようで心がなかなか追いつきませんね。
前を向いていても、前に進めることはごくわずかで、景色がずっと変わらないからふとよそ見をしてしまう。すると周りだけが先に行ってしまってるなんて後悔も度々ですね……。
いやぁ、頑張ろう!そう思った時こそ頑張らねば!
もうまた気付けば一年が終わろうとする時期がやってくること間違いなしです。そのとき、あぁ今年も楽しかったななんて言えるように、このあと少しを、少しでも鮮やかに染色できるように雨水はこの言葉を残します。
明日よりも今この瞬間、今日をよくできるように!
というわけで今週も冗長としたあとがきまで読んでくださった方、ありがとうございます。
では来週もよければここで。




