そのXX
そこに危険性が忍び込んでいても、既視感だけじゃ頼らなくて。
その理由を聞き出そうにも、それを口にする事がより危惧を誘き寄せるのではないかと懸念して。
結局、後悔しないと結果を得られないのだ。
「それはイヤーワームという現象みたいよ」
それを放つ声の持ち主は。
私が知る限り、私が一番知っていて、でも私が聞くには違和感のある響きがあって。
それは私が最も拒絶したい色をしていた。
それは私自身の音をしていたんだ。
「な………………」
なんで? という些細で曖昧で無責任な言葉すら、上手く喉元を通り抜けてくれない。
今、目にしている光景が、本当にこの世の実在するものなのかすら判別もできない。
この指先に伝わる鍵盤の冷たさは?
この臀部に感じる椅子の柔らかさは?
全て本物? 贋物? 偽物?
分からない………分からない。
「驚きを隠せない顔をしているわね。まぁ、それも仕方ないかしら」
それでも生きているんだと自覚させるように……。
目の前の人物は私の聴覚を刺激する。
だけどそれだけではまだ……私はこの足が踏み締めている教室の床はやはり夢なのではないかと疑念に絡みつかれる。
「あ、あなたは……誰、なの?」
かろうじて口にした私の言葉は、確かに彼女に届いた。
彼女は口角を上げて、不気味に目尻を下げる。
「誰、と言われても……それはあなたが一番よく知ってるのではないかしら?」
「だからこそ、誰なのか聞いてるんだけど……」
一歩間違えば私はこの人にどこか連れ去られるんではないかと、恐怖と緊張で声が震える。視界が痙攣する。
「そう。なら答えてあげるわ」
彼女はぐっと体を折り曲げて、私の眼前に顔を寄せてくる。
景色の揺れる中に現れる彼女の顔。
目も。鼻も。口元も。その匂いも。
まるで鏡を見ているようで……。
「私は、あなたなの」
でも、やはり違う。
私の顔で。私の表情で。私の声で。
そう囁く彼女は、私以外なにものでもない。
「ち、違う…………わ、私はそんな話し方、知らない」
だけどその口調は。アクセントは。イントネーションは。
「それは、愛歌のもの、だから……」
私にとって、彼女だけのものなのだ。
「ふふ……ありがとう」
私は、自分にうそをつきたくなかった。
否。彼女だけは守りたかった。
だから必死で絞り出した抵抗は。反逆は。
彼女の笑顔と、ぬくもりを引き換えにした。
それは確かに私の顔だったけれど。それは私を形取っている入れ物でしかない。
そこに見えたのは私が今最も恋しい、彼女の姿だった。
「あ、愛歌……なの?」
私は、自分のようでそうでない彼女に向かった。
「ええ、そうよ。わたしよ」
声色も声音も声質も全て私なのに。私は実はこんな声をしていたんだと認識しているのに。
私の胸の奥を揺らすこの感動は。
紛れもなく彼女の心が通じている。
「本当に……?」
「ごめんなさい透華。突然いなくなってしまって」
「今まで、どこにいたの……? なにしてたの……?」
「でもありがとう、透華。あなたがここに戻ってきてくれたから。その音を鳴らしてくれたから。わたしはあなたを見つけることができたのよ」
彼女は、私の質問に答えてくれなかった。
ごめんなさいとありがとうを残して、彼女は私を抱擁する。
感じない腕の感触と、体の重さは、やっぱり私を包み込むことをしてくれないけれど。
でも、そのぬくもりだけは、私の心を満たしてくれる。
「ねぇ、透華」
「なに?」
未だに彼女が本当に生きてここにいるのかすらはっきりとしていない。
もしかしたら明日になるとまた私は一人になってしまうかもしれない。
それでも、今まで信じた彼女が今、こうして私に腕を巻いてくれていることが。
なによりも私を生かしてくれていた。
「心と魂は、同じ場所にあると思わないかしら?」
そして彼女は、最後に私と目を合わせて。
最期に鍵盤に指を添えた。
私の意識は、そこで強制的に遮断されたようだった。
それに気付いたのは次の瞬間に目を覚ました感覚があったからだった。
目を開くと同時に襲いかかる妙な体の気怠さは、中途半端な睡眠をとったときの倦怠感そのもの。
なぜ私はこうして休息を取っていたのだろうか……思い出せない。
「…………」
しかし随分と不思議な夢を見ていた気がする……。
「あれは……愛歌…………だった?」
見ている姿形は私だった。私が知っている今の私。
毎日鏡で見ているはずの私が、目の前で違う動きをしながらついには話しかけてきたのだ。
それが彼女だった。
あの中身は疑うことなく、清く彼女そのものだった。
「でも……なんで…………」
彼女のはずなのに私だったのはなぜなのか。
点と点は支離滅裂にそれぞれが一人歩きしていて、私の中で理解の線に繋がることはなかった。
だからといって、あの時間がうそだとも信じたくなかった。紛れもなく感じたあの懐かしさをせめて今の私の中に留めておきたかった。
「愛歌…………」
そう、あれは……。
私の愛した、一人の女の子なのだ。
私の呼んだその名前は、天に届きそうなほど残響した。
「あら、呼んだかしら?」
ふと、それは反響する。
おうむ返しでも、やまびこでもない。
確かな言葉の返球だ。
声のする方へ反射的に振り返る。
私しかいないはずのこの教室で。
私だけが座っているこのピアノの前で。
その後ろから音がするのは、おかしいのだから。
おかしすぎて胸騒ぎが跳ね上がる。心拍数はおそらくフルマラソンを走ったとしても追いつかないほどだ。
だから振り返るのだ。
…………この最上のひとときを期待して。
「…………愛歌」
「ええ、わたしよ。透華」
「おはよう。愛歌」
「ええ、おはよう。透華」
「…………今日は、いい天気だね」
「ええ、そうね。でもそうでもないみたい」
「どうして……? 雲一つない空だよ」
「だって、透華。あなたが泣いているもの」
「…………っ!」
「ねぇ、透華…………なぜ、泣いているのかしら?」
「だ、だって…………!」
「泣かないで、透華……どうかお願い。でないと…………」
「だって……! そんなの無理だもん……!」
「そんなの…………わたしだって無理だわ……………」
あぁ、今日は晴れだ。
そして、それは私たちの霽れの報せだった。
どうもこんにちは雨水雄です。
少しずつ服が張り付くような暑さとは縁が切れそうな涼しげな季節になってきましたね。
秋です。食欲と読書の秋です。
今年もまた、紅葉狩りでもして目の保養と心の充電をしたいな……と。雨水は秋の計画を練っているところです。
さて、今週もここまで読んでくださりありがとうございます。
では来週もよければここで。




