講義④「序破急を適当にわかりやすく解説してみた」
自分の中の考えを適当にまとめました。
参考になったら幸いです。
わかってる人にはわかってる内容ですけど。
【挨拶・概要】
今回の講義では「序破急」について解説します。
補足的に「起承転結」「三幕構成」についても解説するかと思いますが、基本は「序破急」の説明を元にした説明なのでご了承ください。
解説はマイスターマイン流です。独自解釈も含まれますし間違っていることもあると思うので、鵜呑みにしないようにお願いします。
それから、この解説に従ったからといって最高傑作と評価される作品が書けるわけではありません。それは筆者本人の努力次第です。
これを作品に対して利用できることは「論外レベルで的外れな構成になっているかどうかをチェックするのに利用できる」程度だと思われます。
というわけで、解説は以下の感じで行ないます。
①「構成全体で気をつけなければいけないことは、整合性、伏線、である。この二つのクオリティは高ければ高いほどいい」
②「序破急は読者や視聴者に効率よくカタルシスを提供する理想的な物語の構成方法の一つである。起承転結、三幕構成も同じ」
③「序=誘引、作品の提示、を作ろう。簡単に言えば読者に作品をアピールしよう」
④「破=設定の蓄積、誘引の維持、を作ろう。カタルシスの転換、は必要に応じて」行なえ」
⑤「急=感動、終着、を作ろう。人間には休息が必要だし、物語は最後に最も大きなカタルシスを生み出すことが出来るから」
⑥「終わりの挨拶」
それでは講義を始めます。
【①「序破急は読者や視聴者に効率よくカタルシスを提供する理想的な物語の構成方法の一つである。起承転結、三幕構成も同じ」】
それでは①を説明します。
「序破急」とは簡単に言うと「読者、視聴者などに、物語のカタルシスを効率よく大きく提供するための理想的な物語構成」です。これは「起承転結」「三幕構成」も同じで、詳細が少しばかり異なるだけです。
「序破急」と「起承転結」はよく似ています。大きな違いは「転」の部分です。いわゆる、どんでん返しなどと呼ばれる物語の展開を必ず組み込むか、場合によって組み込まなくてもいいとしているか、の違いになります。
そのため、あえて当てはめると構成の該当部分は「序=起」「破の九割=承」「破の最終盤=転」「急=結」という理解で大丈夫でしょう。
「三幕構成」についてはある意味簡単で、幕の役割は序破急、起承転結の各部分と同じです。「一幕目=序」「二幕目=破」「三幕目=急」となります。ただし一幕一幕のそれぞれに必ず小さな「序破急」「起承転結」が作られている物語構成となっています。
つまり。
「一幕目=大きな序=小さな序破急①」+二幕目=大きな破=小さな序破急②」+「三幕目=大きな急=小さな序破急③」=「三幕構成」
という作り方になっているわけです。四幕、五幕ある作品があるぞ、というのはこの三幕構成の変形になります。
「一幕目=大きな起」+「二幕目=大きな承①」+「三幕目=大きな承②」+「四幕目=大きな転」「五幕目=大きな結」=「五幕構成」
などのようになります。
【②「構成全体で気をつけなければいけないことは、整合性、伏線、である。この二つのクオリティは高ければ高いほどいい」】
「序破急」の説明の前に、常に気をつけなければならないことがあります。それは「整合性」とおまけで「山場」「谷間」についてです。
以前の講義でお話ししたと思いますが「設定の矛盾、破綻」は「T(問題を起こす)+S(問題に対処する)=A(結果が出る)が成立しなくなり、カタルシスが発生しなくなる」に繋がります。
例を上げるなら「ロボットアニメで、敵に機体を破壊され宇宙服も破けたが、人間の主人公は24時間息を止めることで生存し、味方に救出された」みたいなやつは駄目ということですね。人間はそんなことできねえとツッコミが生まれ、作者の未熟っぷりを笑われるでしょう。作品? 面白さが消滅してるんだから読む必要なんてないです。
そのため物語の「整合性の質はどんな作品であれ高いに越したことはない」というのは肝に免じておきましょう。
「序破急」「起承転結」「三幕構成」などをうまく構築できているのに面白くないというのなら、作品の整合性の質に注意してみましょう。
続いて「山場」と「谷間」についてです。
これはわかりやすく言うと。
「山場=作品の売りであるカタルシスがしっかりと存在するシーン」
「谷間=山場が際立つカタルシスがしっかりと存在するシーン」
となります。
創作論などでは「序盤の山場は~」「この作品で山場のシーンは終盤の○○で~」といろいろと言われますが、まとめるとすれば上記のように理解すると良いかと思われます。
山場は一つしか存在しない、というようなものははっきり言って間違いです。それぞれの読者や視聴者が好きな作品には好きなシーン、期待通りに面白いシーンが存在する作品があります。そういった作品がある以上、一つの物語に山場は一つしかないとうのは、あまりに極論であると言えます。
「もっとも面白いシーンが山場だ」というのは単にカタルシスが大きなシーンというだけですね。「最後のシーンは山場」というのもそれに当てはまらない作品も多いです。例えばバッドエンドの作品は当てはまらないことが多いでしょう。
また「勇者が魔王を倒すお話」で「勇者が決戦を挑んで魔王を倒すシーン」と「その後に描かれる勇者が魔王を倒したことを王様に讃えられるシーン」はどちらが山場として相応しいシーンなのか。
おそらく、前者のほうが山場のシーンだという人が多いでしょう。
ただし「作品の構成上でわざと山場を一つしか作らないということは可能」です。また、あえてそれをしている作品も存在します。
谷間のほうはわかりにくいかもしれませんが、具体例で言うと例えば先ほどの「勇者が魔王を倒す話」で言うなら「勇者が魔王にボコボコにされる」「母や幼馴染と涙ながらに別れの挨拶を交わし、魔王討伐の旅に出る」などでしょう。
こういうシーンを挟むことで「魔王つっよ!」「うわぁ、家族は辛いシーンだな……」などのように感じたカタルシスを、山場のシーンで思い出しながら見るわけですから、心を動かされやすい工夫になるというわけですね。
ちなみに谷間というのは、なろうでよく嫌われている「ストレス展開」だけが該当するわけではありません。「敵にボコボコにされる」のはたしかにストレス展開ですが、「家族との別れ」はストレス展開ではなく、心配やら期待やらを感じさせるものですよね。
谷間に該当するシーンはストレス展開だけである、という考えを持つ人は単に選択肢が狭まるだけでなのでそういう考えは捨てましょう。もちろん、時と場合によってはストレス展開も有効だとは思うので、それを含めて物語構成を考えましょう。
なお「山場」と「谷間」を意識したほうがいい理由ですが、これは「作者と読者、視聴者が作品のコンセプトの悪いギャップを引き起こさないため」です。
例えば「純愛のラブコメ」を期待させ釣るようなタイトル、あらすじ、序盤の構成なのに、実際の中身が「拳銃のドンパチが山場になるもの」だったらどうなるか。まあ間違いなく読者にそっぽを向かれます。理由はもちろん、純愛のラブコメを期待した読者がそんなものを期待していなかったからですね。
谷間についても同様です。山場を際立たせようとして全く求められていないものを出してもそっぽを向かれるでしょう。これはなろうでよく嫌われていると言われる「ストレス展開」が該当するでしょう(これについては個人的に技量が低いから失敗している人が多いだけだと思いますが)。
また人によっては「山場=達成感、満足感などを感じる正のカタルシスが存在するシーン」で「谷間=山場とは逆の負のカタルシスを感じさせるシーン」という分け方をする人はいるかもしれませんが、この解釈も違います。
確かに王道的な作品などでは上記の解釈があてはまりやすいです。しかしノクターンなどにある「強姦レイプもの」「NTRもの」などでは上記には当てはまりません。むしろその逆の性質のものがそれぞれに当てはまるのです。
これはR-18作品だけの特例なのかというとそうではありません。一般の作品だと「ゴルゴ13」「ブラックラグーン」「ヨルムンガンド」などの悪漢もの、アウトローものなどは山場と谷間に該当するシーンが王道的作品とは真逆になりやすいです。
ですのであくまで「山場」「谷間」となるべきシーンは「作品の方向性や作品が想定するターゲット層に左右される」と考えましょう。
もし「序破急を使ってしっかり作品が作られているのに、読者の受けがよくない」となった場合はこの「山場」と「谷間」が作者と読者達で悪いギャップを引き起こしているため、本来のターゲット層からずれている、ということが発生していることも考えられます。
そのため「山場」「谷間」には充分に注意しましょう。
【③「序=誘引、作品の掲示、を作ろう。簡単に言えば読者に作品をアピールしよう」】
というわけで序破急のうちの序の説明、序盤に関する説明になります。
序において意識をしないといけないことは「誘引」と「作品の掲示」の二つです。
まず「誘引」ですが、これは「読者に面白いと思わせ、その作品を拝読、視聴させるように促すこと」になります。もっと言うなら「物語が提供するわかりやすいカタルシスを読者や視聴者に感じさせること」です。
物語というのは面白いからこそ読む、聴く、見るなどの行為を続けるわけですから、これを提供しないと娯楽作品として話になりません。
また「作品の中で最初にカタルシスを感じる物語の構成部分」でもあるので、この時に感じさせるカタルシスはいわゆる「小さな山場」「小さな谷間」とするべき場面であります。
つまり「読者が最も期待している方向性のカタルシスが存在するシーン」や「物語の続きに、期待している方向性のカタルシスが生み出されそうなシーン」であることを心掛けましょう。
そうすることで読者は「続きも求めている面白さがありそうだから、ぜひ続きも読もう、視聴しよう」という行動に繋がります。こういった心理を起こさせ行動を促そうというのが「誘引」の役割になります。
かと言って序盤においては、キャラクターや世界観の設定を読者の頭へ充分に蓄積することはできておりません。キャラクターの地味なやりとりでは大きなカタルシスを提供することは難しいです。
そのため「誘引」のためには「読者、視聴者の想像力を掻き立てるような大きく派手な行動(派手、特殊行動、何でもいい)をやりとりさせる」であったり「キャラクターが特徴的な台詞を使うことでカタルシスの質をさり気なく高めて、カタルシスの提供を特徴的かつ高品質なものにする」といった工夫をする必要があります。
前者は優れた商業作品、なろうの作品、あるいは商業やインターネット上の創作論でもよく言われることですね。
「ミステリーの冒頭では死体を転がせ」「主人公に悪役王子が婚約破棄させろ」「冒険者パーティーリーダーに無能な主人公(実は有能)を追放させる」などです。
王道ミステリーものでは「最初に、死体の横で主人公と相棒が殺人事件について調査しているやりとり」をしたほうが、殺人事件のミステリーものだとはっきりわかりますし、そこでする「警察官同士のやりとりがかっこいい」というカタルシスを感じたほうが続きも「このコンビで犯人を追い詰めていくミステリー小説なんだろうな、よし続きを読もう」となりやすいのは明白というわけです。
なろうで流行している婚約破棄もの、追放ざまあテンプレも、上記のように優れていますね。多くの筆者が使っている理由も上記と同じです。
「この作品には、婚約破棄もののカタルシスがありますよ、追放ざまあテンプレのすっきり感がありますよ、これがその証拠のカタルシスです」という主張をするために最初に婚約破棄シーンやら追放シーンなどが最初の冒頭のシーンへ持って来ているのですね。
そのためもし、なろうのサイトにおいて非テンプレ作品で多くの読者に読まれたい、そういう作品しか書けない、という人は「誘引」において「婚約破棄」「追放」に比肩ないし超越するような「大きく派手でアクションがあるシーン」をどうにか造り上げる必要があります。
具体的にどういうシーンが良いのかを決めるのは筆者が決める、筆者のセンスや経験が問われる部分となりますね。理屈はわかっていても実現することはクソほど難しい部分です。
逆にダメな例はわかりやすいかもしれません。例えば創作論の本とかでもよく言われる地味なやりとり「主人公とヒロインが日常的な会話をしているだけ」などは完全なNGに近いものになります。
読者の頭に設定が蓄積していない状況でそんなことをしても「AさんとBさんが日常的な会話している」という認識にしかならず「はいはい、面白みのない会話でご苦労様」という反応になってしまうでしょう。
ですが、「ラブコメとか日常生活の会話が始まってて面白いものがあるぞ?」などという例外に見える作品もたくさんありますね。
これについては後者の「キャラクターが特徴的な台詞を使うことでカタルシスの質をさり気なく高めて、カタルシスの提供を特徴的かつ高品質なものにする」が理由になります。
つまりキャラクターの行動は地味でもその言動が派手で特徴的にすることにより、自然とキャラクターの設定が蓄積し、地味なやり取りでもカタルシスが増え、その結果として「こういう雰囲気好きだから続きを読もう」という読者の行動を促すわけです。
例を出すと。
「あ、幼馴染さん。おはよう、今日もいい天気だね」
「おはよう主人公くん。今日もいい日になりそうだよね」
というありがちであまりキャラクターの特徴が掴めないよりは。
「おはようマイスイート幼馴染! 今日もきみの太ももはペロペロしたいほどに美しい! 写真を撮らせてくれ!」
「朝から変態にクラスチェンジするな。ロングスカートなのに反応するとか君は透視能力でも持ってるのかね?」
「その疑問は学校に着くまでの間、絶対領域について説明することで解決してやるぜっ」
のような感じで「下ネタ振っても反応する幼馴染カップル、いい……よし続きを読もう」のような読者に反応を促すようなものを作ると良いでしょう。
以上が「誘引」として行なうべき役割ですね。
ちなみにこれは序盤のどこからやらなければならないのか、という決まりはありません。ですがあまりに遅いのは読者が続きを読もうとする意欲を失わせる理由になるのは言うまでもないことです。
カタルシスがなくて面白さを感じないものにいつまで時間を掛けるの???
すぐに切って別の作品を読みますよ!
そういう行動に移るであろうことは想像にたやすいです。
可能な限り早く、「誘引」となるキャラクターの行動を描くべきでしょう。
なお、一つのシーンだけに誘引の役割を背負わせる必要もありません。むしろ複数のシーンにそれぞれ山場、谷間となるべきシーンを作り、読者を続きへと誘惑するシーンを作る方が効率的であると思います。
続いて「作品の掲示」についてです。
これは要するに「作品のことを簡単に紹介しろ」ということになります。より正確に言うなら「読者、視聴者が求めているジャンルの作品であるかどうかを確認させろ」ということになります。
もちろん、作品について詳細なことを書けというわけではありません。「読者や視聴者が最低限確認できる程度の内容を説明する」ことが出来ればいいのです。
例えば「勇者が魔王を倒すまでの話」の場合なら。
「ようやく貴様との決戦だな、覚悟しろ魔王!!」
「しゃらくさいわあ! 人間風情がぁ!!」
みたいな決戦のシーンをはじめに描いて、次のシーンには勇者の旅立ちを描いて……というような形にするだけでも充分に「勇者が魔王を倒すまでの話」であることを予想させることは出来るでしょう。
また上記の場合も結末まで予想する読者はいません。というより読者からすれば、ジャンルが「勇者VS魔王のファンタジーもの」などのように大雑把な確認ができればいいわけです。そういうものが好きな読者、視聴者が続きを読むわけです。確認できた時点で「作品の掲示」としての役割は終了していると言っても過言ではありません。
そのため上記のシーンの結末が「勇者の勝利」「相打ち」「魔王の勝利」のいずれでも構わないわけですね。
もちろん結末がどうなるかで「騙された」とかはあるでしょうが、それは「作品の質が優れていたかどうか」「期待していた展開ではなかった」という作品の評価、破と急の質が低かったか、もしくは序との相性が悪かったというだけです。「作品の掲示」が出来ていないというわけではないということを考慮しましょう。
上記のような場合は構成の作り方よりも、アイディアの種類がどうであったかどうかを検討するほうが重要になるでしょう。
また上記は「ストーリーの展開=キャラの動き」が含まれるものですが、これ以外でも「作品の掲示」は行なうことが出来ます。むしろそちらで手を抜くことは推奨しません。
例を出すと「世界観の説明」ですね。小説なら「魔法と魔物がいる中世風な異世界」という一文が描写されているだけでも充分に「作品の掲示」になります。映像なら「1秒~3秒かけて戦場の風景を映し出す」とかになりますね。
これだけでも時代、環境がわかって読者が求めているジャンルの作品かどうかの判断はされます。その映像に魔物の死体が転がっていれば「異世界ファンタジーの剣と魔法のバトル。うーん、これは俺の好みですね」となりますからね。
商業作品で言うなら誘引の説明でも出した「死体は転がせ」の王道テンプレを扱っているミステリー作品、サスペンス作品がわかりやすい例でしょう。
「主人公と相棒が殺人現場で話し合ってる」とか「事件の犯人が被害者に包丁を突き立てる」とかがそれですよね。これらはキャラクターに行動を起こさせてカタルシスを提供すると同時に「この作品はミステリーです」「この作品はこいつが犯人のサスペンスです」という「作品の掲示」も行なっているという、とても効率の良い序盤の構成になっているというわけです。
こういった地の文、映像演出における世界観の説明などでは特に注意しなければならないことがあります。
それはもちろん、想定した読者層の知識レベルです。
わかりやすい失敗例を上げると「5歳の幼稚園児向けの小説に、中世風なファンタジーという言葉を使って説明する」があるでしょうか。幼稚園児が中世やらファンタジーやらを知っているわけがありませんからね。幼稚園児がからすると上の例は「パルシのルーシがコクーンでクラーンされてしまった」と同レベルの意味不文章になっているのは想像に容易いです。
なので、地の文などで説明する場合は簡潔かつ「この言葉は知っているから使っても問題ない」などの配慮はしましょう。
また、個人によって知識の抜けというのはあります。純文学という言葉はよく知っていても、ファンタジー、ローファンタジー、ハイファンタジーなどの言葉は知らないという人はいるわけです。これはその人の環境や趣味嗜好によってそういう言葉に触れる機会がたまたまなかったというだけなので仕方がないことなのです。
そういう読者のためにも「掲示」とする説明は可能な限り多いほうがいいです。ファンタジーと言う言葉がわからなくても、剣と魔法、斧槍、ファランクス、などの言葉は知っていることは充分にあり得ます。そういった言葉を使う世界観の説明をして、想像力を刺激し、読者や視聴者に「これは○○のような作品です」という主張を行ないましょう。
この点で言えばアニメ、漫画といった媒体は非常に有利です。想像をする労力を行なう必要がなく、見ただけで理解できる材料が映像によって用意されるわけですからね。
もちろん「作品の掲示」を優先しすぎてカタルシスが存在しない説明しかないもの、つまり「誘引」があまりにも不足している作品は、面白くない作品と断定するには充分な判断材料になります。
というわけで「誘引」「作品の掲示」はバランスよくかつ、充分な質と量を提供することを心掛けましょう。
序において、どちらが欠けてもいけません。
【④「破=設定の蓄積、誘引の維持、を作ろう。カタルシスの転換、は必要に応じて行なえ」】
続いて「破」の説明を行ないます。
物語の中盤である破で行なうべきことはずばり「誘引の維持」「設定の蓄積」です。
ただし「カタルシスの転換」はやってもやらなくてもいいと思います。というより作品によっているかいらないかが変わります。なお、起承転結の「転」は必ずこの「カタルシスの転換」を作れ、というやり方になります。
ではまず「誘引の維持」を説明しましょう。
これは序の誘引と役割は同じです。読者や視聴者に面白いと感じさせて続きを読ませるように促すことです。
序との違いは序で描写された設定により、一つ一つのキャラの動き、エピソードなどで発生するカタルシスが大きくなりやすいことが上げられます。この点においては序よりも有利であり、読者達を惹きつける物語のカタルシスを生み出すのは難しくありません。
しかし気をつけなくてはならないことがあります。それは読者や視聴者の「慣れ」です。全く同じ種類のカタルシスではそれが大きくなっても「またこれかあ、飽きたわ。読むのやめよ」という不快感になり、続きを読まなくなってしまいます。
RPGのゲームでボタン連打で倒せるの雑魚敵だけを倒すゲームをだれが一時間も続けられるのか、ということですね。
雑魚敵が多少強くなろうとも、それがボタン連打で勝利できる雑魚敵であるならば、それがゲームの面白さを変化させないことは明白です。
そのため「誘引の維持」では「飽きさせないようにカタルシスの種類を変更する工夫」が必要になってきます。
これの対策が、商業の創作本によくある「主人公を追い詰めてピンチにしろ」「お色気シーンを混ぜろ」とか主筋とは違うシーンを挿入することを推奨することになります。
そういう趣の異なるシーンを挟むことで、読者や視聴者を飽きさせないように工夫をしろということなのです。
なろうではよく「ストレス展開はNG」と聞かれると思いますが、これは「達成感、解放感を満たすシーンだけ描写しろ」という意味ではありません。「ストレス展開はなろう読者には嫌われている、そういったシーンを商業作品で散々見てきてるから、欠片も需要がない」という意味になるのが近いでしょう。
カタルシスの種類を変えようとして、あまりに需要が違うものを挟むことになってしまうことには充分に注意しましょう。
次に「設定の蓄積」です。
設定の蓄積自体はキャラクターの紹介、世界観の説明でされるわけですが、破においてのそれは「急において感動させるために充分な設定を読者、視聴者に説明しろ」ということになります。
なぜ破になって入念にやらなければならないのか。理由は簡単で、序だと設定の説明に偏重すると「面白くないと判断されて読者、視聴者が離れやすい」からです。
小説を読みに来たのにいきなり「興味の湧かない論文」を読まされることを想像してみてください。読むのをやめていいなら速攻でやめるのは当然ですよね。
序でいきなり「設定の蓄積」をやってしまった具体的な失敗の例は、なろうの作品にもごろごろありますし、筆者である人なら見に覚えもある人もいることでしょう。
そう、いわゆる「文章の初めから世界観を説明し、そのまま十ページにわたり世界観の説明を続けて、第一章が終了する」ことが具体的な例です。人間、面白くないものに時間をかける労力など存在しないということですね。
それならなぜ中盤である破なら比較的許されるのか。答えは簡単で「序の部分で面白いだろうと思っているから、多少の労力なら我慢できる」ということになります。
これの理由は、高級レストランでコース料理を頼む自分を想像するとわかりやすいかもしれません。
最初の一品目で「おいしい。二品目も三品目もぜひ食べたい!」という状態になった自分を想像してください。その時に「次の料理はニ十分ほどかかります。それまでワインを飲んでお待ちください」となったらどうなりますか?
おそらく、ほとんどの人は我慢できるでしょう。
しかし、これが一品目を食べずにお待ちくださいとなったら、食事もせずに帰る人も出て来る可能性が出て来ます。それもワイン(←これがちょっとした誘引の維持だとすると)がなく、ただの水、いえ水さえない状態ならどうなるか。明白ですね。
以前の講義でお話したと思いますが、カタルシスと言うのは「詳しい設定を知っているキャラクターであればあるほど、そのキャラクターが行動を起こすカタルシスが増加する」という性質があります。
ですが、設定はどういう形であっても説明しなければ読者や視聴者はその設定を理解することは出来ません。キャラを動かすついでに説明するにも限界があるし、時にそれが駄作に繋がることもあり、地の文などでの説明が効率的であるときもあるわけです。
そのため、「少し大きくカタルシスを生み出せるようになり、読者が面白さを期待しやすくなっている状態である破という中盤」において「設定の説明はやれるだけやっておけ」というのが「設定の蓄積」という役割になります。
上記で書いた「誘引の維持」に注意しつつ、読者にしっかりと設定を理解させるために「設定の蓄積」をしっかりと行なっておきましょう。
続いて「カタルシスの転換」ですね。
これは「誘引の維持」でお話した「カタルシスの種類を変更して飽きさせないようにする」ことをもっとはっきりと行なうことを意味します。
創作本でありがちな言葉で言うなら「どんでん返し」などが該当しますね。これを行なうというのが「カタルシスの転換」です。
しかし実際、これを必要としない作品があることも事実です。同時にこれを行なうことで面白さを引き出している作品もあります。またループ物の映画では「タイムリープしてやりなおし」というどんでん返しを5回6回をやりまくる作品もありますね。
故にこれに関しては「必要であるならやれ」となります。
作品に合う構成を模索しましょう。
なお、「起承転結」は「転」で必ず行なうこと推奨している形ですね。そうすることで「急のカタルシスの質を変更し、急において発生するカタルシスを新鮮さを与え、絶対に飽きを感じさせないようにする」という工夫をしろ、というのが「起承転結」の特徴であり、序破急との明確な違いになります。
ちなみに「転」の代表を言うなら、「ラスボスが主人公の父親であると主人公が知る」というようなイベントによって「人類の希望である勇者が極悪な魔王を追い詰めていく」というお話から生まれるカタルシスが「世界の平和のために実の父親を殺す」というお話のカタルシスに変更する、という例がわかりやすいでしょうか。
これを直前に持ってくればそりゃ飽きなんて来ないよなとなるわけですね。同時に破の最初に持って来て、中盤にまた違う「カタルシスの転換」を持ってくるのも、けして不可能ではないということがわかるでしょう。
上の例で言うなら「魔王を操っていた大魔王が登場」とか「魔王である父親の洗脳を、聖女のヒロインが魔法で解除する」とかのシーンを持ってくればいいわけですからね。
以上で「破」の説明は終わります。
【⑤「急=感動、終着、を作ろう。人間には休息が必要だし、物語は最後に最も大きなカタルシスを生み出すことが出来るから」】
それでは「急」の説明をします。
急で行なうべき役割は「終着」「感動」です。
まず「終着」ですが、これは物語の終わり、もしくは一時的な終わりを作れということになります。小説で言うなら第一巻のエピローグのようなものを作れ、ということになります。
理由としては単純な話で、人間は何時間も物語を楽しむことが出来ないからですね。極論、24時間物語を楽しむことなんてできません。そのため、ここで区切りのようなものを作って、読者や視聴者が物語から離れやすいようにするわけですね。
あるいは「終着=読者達に好印象を持って作品から離れてもらうことができる工夫」とも言えるでしょう。
映画であるなら放映時間、小説ならページ数という形で「物語に消費するべき時間」を間接的に示すことにもなるので、そういう意味でも作品を選びやすくするというわけですね。
なろうの作品において「細かく章分けされている作品」と「単に一話……三百九十二話と雑にサブタイトルが並んでいるもの」とではどちらがとっつきやすいかと言われると前者であると思う人が多いと思います。理由としては、休憩を挟むタイミングが想像しやすいからが挙げられますね。
ちなみに映画は基本的に90分以内でまとめることが適切とされています。人間の集中力は長くて二時間しか持たないということと、視聴途中で尿意などで絶対に離席しない時間は二時間程度であること、視聴時間が個人の能力差では上下しにくい、という理由ですね。
小説や漫画は個人差が激しいです。10分でダメという人もいれば5時間は平気と言う人もいますし、そもそも速読で短時間で大量に読める人もいます。ただし、トイレなどで読めたり、読む速度を自分の能力に合わせられるので長時間の負担が少なくなりがち、などあまり場所を選ばない利便性もあったりするので、映画などよりは、厳密な時間設定を考えなくていいという長所がありますね。
ただそうは言っても永遠に読むことは出来ません。
必ず物語の終わりである「終着」は作りましょう。
もちろん、物語の終わりを知らせるなら某アニメのような「俺たちの戦いはこれからだ!」な適当エンドでもいいと思います。高品質とは言えませんが、グダグダ延々に続くものよりははるかにマシです。
続いて「感動」ですね。
これはある意味簡単なことで「読者、視聴者に最大の作品最大のカタルシスを与えろ」というものです。
これが存在するからこそ人は物語を読もうとするし、楽しみにもするし、拝読や視聴で大きな満足感を得ることが出来ます。
娯楽作品はこれを提供するためのものと言っても、過言ではないのです。
しかし、カタルシスなら中盤どころか最初から与えているのに、どうしてここで作品最大のカタルシスを与えなければならないのか。どうして「急」に「感動」という役割が求められているのか。その理由は単純。
物語の最後は「最大のカタルシスを与えるのに最適なタイミング」だからです。
単純な話です。映画を例にすると、序盤で大きなカタルシスを与えようとすると、そのための設定の蓄積(キャラ、世界観ともに)は1~10分程度の時間を使った設定の説明しか出来ません。中盤でも11~80分の時間を使ってしか出来ません。
しかし終盤である「急」なら80~89分の時間を使って、最後の最後まで説明して設定の蓄積を行なうことができるわけなんですね。
つまりカタルシスの大きさは「時間(描写量)に比例するに等しく、急である最大のカタルシスを与えられる」のです。そのため「感動」という役割を意識した物語構成を作っていくことが大切になります。
ちなみに補足しますと「ドラえもん、ゴルゴ、ワンピース、クレヨンしんちゃんとかは序盤でもカタルシス大きくない?」という疑問が出て来ると思いますが、ああいった作品群は長編かつ複数作品がまとめられたもので「オリジナルの一作目とは前提条件が大きく異なり、異なる扱いをされて当然」となります。
理由を申しますと、上記のそう言った作品群は該当作を拝読、視聴する前に「前作、別作品でその作品の世界観やキャラクターのことについて読者や視聴者が情報を所有している状態にある」というわけです。
つまり「作品を拝読、視聴する前からキャラクターや世界観などの設定の情報が多少ながらあるため、カタルシスが大きめの状態から始まって当然」なのです。
ですので、そういった該当作品外の影響については排除、場合によってはうまく利用することを前提に考えるとよいでしょう。
そのため、なろうの投稿者なら「前作と世界観が同じ作品」「作品の第二章の序盤」などの特殊条件でない限り、最初から上記のようなある程度大きなカタルシスは不可能であることを心得ておきましょう。
他に、序盤から大きなカタルシスを得やすいのは共通認識の広いテンプレ群――なろうの「追放ざまぁテンプレ」とかがありますね。
なろうで作品を漁っていれば、伯爵令嬢とか悪役令嬢、冒険者、魔法などの単語だけで中世風ファンタジー世界を思い浮かべやすいですよね。これはテンプレ作品を多く読んだ経験のおかげで、そういう単語だけで「曖昧な設定(仮)」が読者の頭の中に思い浮かぶので、多少のカタルシスを増加させることに一役買っているからです。
他の例では「歴史ジャンル」が顕著でしょうか。少し知っている人なら「豊臣家の家臣となった徳川家康は~」というだけで時代や大名の状況、徳川家康の人格などを瞬時に思い浮かべ、続くキャラクターの行動が提供するカタルシスが増えます。これも上の追放ざまぁテンプレと同じ現象ですね。
もちろんこれらはあくまで仮のようなものであり、描写された設定こそが本当の意味でのカタルシスの増加です。「テンプレだから説明しなくていい」というのはやりすぎればカタルシスがスカスカになっていくのは免れません。
要は「読者の妄想力、知識量に委任したカタルシス」ですから「その引き出しがなくなればカタルシスの増加は起きるはずがない」のです。
ちなみに創作論で「ホットスタートが~」とかのために「本来、最後に持ってくることが基本のシーンを、作品の最初に持ってくる」という手法がありますが、あれは別に最初に作品最大のカタルシスを持ってくるためのものではありません。
雰囲気だけならそうかもしれませんが、それは「カタルシスの質、方向性が他と異なる」というだけです。説明の時間が足りなさすぎて「A君とBさんが死闘を繰り広げた」と「同程度のカタルシスの大きさ」しか発生していません。
ああいった手法は、「誘引」「作品の掲示」を効率よく行うためかつ少しでもオリジナリティを出して他作品との差別化を図った手法の一つ、だと考えましょう。くれぐれも「最初に作品最大のカタルシスを与えるため、という間違った勘違いをしない」ように心が得ておきましょう。
要はなろうの追放ざまぁテンプレと同じく「冒頭で追放シーンを入れて、少しでも特徴的で派手なアクションを行なって誘引の質を高めよう」という工夫の一つに過ぎないのです。
ですので「感動」は「作品最大のカタルシスは物語終盤の急で行なうことが最適であり、役割でもある。なぜなら、それ以外で提供することはできないから」ということになります。
【⑥「終わりの挨拶」】
以上がマイスターマイン流の序破急の説明になります。
あくまでもこれらはマイスターマイン流ですので、けして鵜呑みにはせず、利用できる理論だけを利用するようにしてください。
それでは講義を終わります。




