30:とある夫婦のすれ違い
エミーリアは忙しい。
結婚式を目前に控え、あれこれと最終確認をしたり、体型維持に関して侍女からも女官からも耳にタコができるほど厳しく注意され、ここ数ヶ月はのんびりと趣味を楽しむような時間もない。
だからこそ、義姉となるレオノーラの歓待はリンハルト公爵夫人であるベアトリクスやレオノーラの母親であるナターリエに任せていることも多い。なにより母親と伯母と過ごす時間が多いほうがレオノーラも楽しめるだろうという心遣いでもあった。
(レオノーラ様がこうしてアイゼンシュタットでゆっくりできるのもあと少しでしょうし…)
本来ならレオノーラは今日あたりにアイゼンシュタットに到着する予定だった。早めにやってきたことでのんびりとする時間もできたが、これからはフォルジェ王妃としての社交の時間も増えるはずだ。
今もレオノーラは母親と伯母と過ごしている。きっと楽しんでいるだろうと思っていたエミーリアの予想は、どうやら外れたようだった。
三人のいる部屋にエミーリアがたどり着いたときに感じ取ったのは和やかとは少し違う、わずかにピリピリとした緊張感が漂っていた。
「そんなわけないわ。伯母様の勘違いじゃないかしら」
レオノーラの苛立ちを含んだ声が聞こえると同時に、ガシャン、と食器が大きな音を立ててぶつかり合う。普段は音をたてたりしないはずのレオノーラが動揺していることを証明していた。
幸い落ちて割れたりはしなかったようだが、欠けたものはあるかもしれない。
(危ないから一度下げてもらわないと……)
フォルジェ王妃であるレオノーラが怪我でもすれば問題になる。エミーリアは即座にそう判断してテーブルに向かう。
「勘違いだなんて。そんなわけないでしょう? 恋愛に関しての私の観察眼を舐めてもらっては困るわ」
公爵夫人のベアトリクスは自信満々にそう言う。エミーリアにはまだなにが起きているのかさっぱりわからない。
(……恋愛? レオノーラ様のことかしら?)
それなら相手はフォルジェ王のことになる。そうでなければ大問題だ。
「観察眼だなんて……そんなわけないわ。個人的なプロポーズがあったわけでもないし……」
後半は独り言のように小さな声になった。やはりレオノーラとフォルジェ王についての話なのだろう。
ベアトリクスは目を丸くした。
「あら、マティアスから聞いていないの?」
「……なにをです?」
ベアトリクスが扇の下で微笑んでいる。まるで勝利を確信したかのような顔だ。
「フォルジェ王からあなたへの求婚は一度断っていたのよ。それでも諦めないからあなたに判断を委ねたの」
「えっ……」
聞かされていなかったのだろう、レオノーラは驚いていた。
(……陛下にとってはたった一人のお姉様ですし、もとは女性の社交界の中心人物だったレオノーラ様を他国に嫁がせるつもりはなかったんでしょうね)
だがフォルジェ王の熱意に折れ、どうするのかをレオノーラ本人に決めさせるために求婚の話をしたのだろう。
(だとすれば陛下、もっと詳しくレオノーラ様に伝えておくべきです……!)
求婚される側としてはそれほど情熱的に求められたのだと知っているのといないのでは大きく違う。
エミーリアはベアトリクスと目があった。さぁどうぞと言わんばかりにその目が輝いている。
(そうね、ここはわたくしが悪役になるのがいいんでしょう)
身内からの言葉ではまだレオノーラの心には深く刺さらない。
その心を剥き出しにしてしまえる一撃が必要だ。
こつり、とエミーリアは一歩踏み出す。
「王妃となるからには、自分の感情を抜きにして必要な決断に迫られることもある……レオノーラ様はそう助言をくださいましたよね」
やって来たエミーリアをレオノーラが見る。それがどうしたと言いたげな顔をしているけれど、まだ少し動揺が滲んでいる。
「ですがわたくしはマティアス様のことを愛しておりますので、誰にも譲るつもりはございません。わたくしの陛下の愛をほんの一欠片でも他の誰かになど渡したくありませんもの」
にっこりと余裕があるように微笑みながらエミーリアは告げる。
「そのための努力は惜しみません。わたくし、そうやって生きてまいりましたの」
王妃らしく、堂々とうつくしく。
エミーリアは胸を張った。
「わたくしと陛下は悩むのも考えるのも一緒なんです。だって夫婦になるんですもの。当然ですよね」
無邪気なように純粋なように振る舞いながらも、エミーリアは意識してレオノーラの心を刺した。
言外に、あなたたち夫婦はできていないのかもしれませんけど、という毒を一滴注ぎ込む。
「わたくしの陛下は素敵でしょう?」
最後の仕上げとばかりにエミーリアはしあわせそうに笑った。
レオノーラはふるふると拳を震わせた。もともと勝気な性格だ。言われっぱなしは性にあわない。
「私、だって……!」
絞り出したレオノーラの声がその場に響く。
「私だって誰かに譲る気なんてないわ、愛しているもの! 私の陛下はマティアスなんかよりずっと素敵なのよ!」
「――それは本当か?」
第三者の声が突然聞こえる。
そのことに驚いたのはレオノーラだけだった。エミーリアはその人の来訪を知っていたし、ベアトリクスやナターリエは近づいてくるその姿が目に入っていただろう。
(とても良いタイミングになったみたい)
そうなったらいいなと考えてはいたけれど、絶妙なタイミングでの登場となってエミーリアは大満足だ。
「へ、陛下?」
もちろんそれはマティアスのことではない。レオノーラは弟のマティアスを陛下だなんて呼ばないのだ。
そこにいたのは銀髪の涼やかな印象の男性だ。予定よりも一日ほど早くアイゼンシュタットに到着したフォルジェ国王ジェラールである。
「今の話は本当だろうか? レオノーラ」
そう言いながらジェラールはレオノーラに歩み寄る。
その背後にはマティアスもいるのだが、レオノーラの目には入っていないらしい。
「それはその……いえ、それよりもどうして……!」
「妻の君を迎えに行くのは当然だろう」
ジェラールの表情は特に変化はない。真顔のままだ。声音もとりわけ甘いわけでもなく、平坦なものだった。
しかしレオノーラは予想外のことを言われたかのように驚きながら頬を赤く染める。
「……なんだかいつもの陛下とは違うようですけれど、なにかございまして?」
あまり可愛げのない言い方だ。ベアトリクスの顔が渋い表情になっているので、ここにフォルジェ王であるジェラールがいなければ我慢せずに頭を抱えているかもしれない。
「夫婦だからこそ言葉を尽くさなければ伝わらないこともある、と助言があった」
「助言?」
国王であるジェラールにそんなこと言える人物は限られている。フォルジェ王国でもひと握りの信頼できる重鎮や部下、それから――。
レオノーラはマティアスを見た。その存在にようやく気づいたのだろう。しかしマティアスはあえてレオノーラと視線を合わせることはしなかった。助言なんて知らないとでも言いたげだ。
(もう、陛下ったら)
照れくさいからといってそんな態度ではレオノーラが誤解してしまう。
エミーリアはレオノーラの滞在中にこの姉弟の仲をしっかり取り持ち、さらに良好な関係にしたいのだ。




