第十三話 シネラリアの悲哀路 (下)
Side...nanae
その日の夕暮れ、僕の部屋に花室さんが来た。
「君に依頼だ、七依」
花室さんの声を聞いて、僕はひどく安心する。一瞬だけ、いつも通りの生活を取り戻せた気がした。
「名前は滝島 朋治。かつて会津藩主の右腕として、京で名を馳せていた剣客だ」
「……」
"滝島"という名前には、聞き覚えがあった。今日の昼間、隆文さんをそう呼ぶ男に出会っている。
「先の戦でも、百人以上を斬り殺したと有名だったらしい。行方不明になったから死んだと思われていたようだが…聞いているか?七依」
「っ、はい」
雑念を払い、僕は背筋を伸ばした。
「今は八辻 隆文と名を変え、この函館で剣道場を営んでいる」
隆文さんの名前を聞いても、僕は動揺しなかった。自分でも驚くほど、頭が冷静になっている。
「期限は無いが、なるべく急いで欲しいと言っていた」
「分かりました」
おそらく依頼者は昼間の男。殺し屋に頼み込んででも、隆文さんを殺したいのだろう。それだけの恨みが、彼にあるということ。
「かなり剣の腕が立つ、駄目だと思ったらやめていい。気をつけて行ってこい」
「…はい」
日が沈んでいく、夜の闇が街を塗りつぶしていく。
暗い、夜の始まり。
幸福と、悲しみの狭間。
ゆらゆら揺れる、この想いの先に希望なんてない。
僕は今から、大好きな人を殺しに行く。
「……」
雲が月を隠した、真っ暗な夜。僕は久しぶりに女の格好をして外に出た。
大きな牡丹の花を散らした赤い着物。金糸で万寿菊を描いた帯を締めて、唇には紅を差している。
「───えらく粧し込んだな、ナナ」
「…心くん」
隣の家の前で、心くんが腕を組んで立っていた。
「久しぶりに着たよ」
僕は少しだけ腕を広げて、着物の袖を風に揺らす。
「八辻に色仕掛けは通用しねーと思うがな」
「……」
僕がこの格好をするのは、男の標的を油断させて仕留めるため。心くんはそのことも、僕が今から殺しにいく人も知っていた。
「心くん、僕、できるかな…」
思わず弱音が口をつく。心くんなら、この不安も緊張もどうにかしてくれる気がした。甘える僕を、突き放さないでいてくれる気がした。
「ナナ」
心くんの足音が近づいてくる。
「おまえならできるよ」
次の瞬間、僕の体は彼の腕の中にすっぽりと収まった。
「っ…心くん?」
「おまえには俺がついてる。もし、何もできなくても」
冷え切った心くんの腕が、僕を強く抱きしめる。
「帰って来い、俺がいるから」
どれだけ長い時間、雪の中で僕を待っていてくれたのだろう。耳にかかる息すらも冷たい。
「俺が、一緒にいてやるから…」
その優しさに、涙が出た。
「心くん…っ」
心くんはきっと、僕が隆文さんをどう思っているかも知っている。隆文さんは強いけれど、僕が彼を殺せない理由はそれだけじゃない。
僕は、隆文さんになら殺されてもいいと思っている。
「…あー、子どもは体温高くてあったけーな」
「子どもじゃないよ!」
「ははっ、涙で化粧落ちるぞガキ」
「ガキじゃないし!」
心くんが着物の袖で丁寧に僕の目元を拭いた。涙の向こうには、いつもの笑顔を見せてくれる彼がいた。
「…いってきます」
「あぁ」
最後はからかわれてしまったけれど、心くんが励ましてくれたおかげでだいぶ楽になった。
僕は心くんに手を振り、闇の中へ踏み出す。この先、何が待っていたとしても。
もう、怖くはない。
人々が寝静まる真夜中。月の見えない今夜はひときわ暗かった。
大きな屋敷を、足音を立てぬようすり足で歩く。僕は耳を研ぎ澄まして、ゆっくりと廊下を進んでいた。
(…この部屋だ)
閉められた襖の僅かな隙間、そこから規則正しい寝息が聞こえてくる。いびきをかいていてくれたら分かりやすかったのだが、彼は随分と静かに眠っていた。
「……」
息を殺して、慎重に襖を開ける。八畳ほどの部屋の真ん中に布団が敷かれていた。その上で眠る隆文さんに、そっと近づく。
「お兄さん」
小さな声で、名前を呼んでみた。隆文さんがそっと瞼を持ち上げる。
「……なな、え…?」
寝ぼけていまひとつ焦点の合わない瞳が、目の前の僕の姿を映した。
(…さよなら、お兄さん)
僕は後ろ手に構えていた苦無を、隆文さんの首めがけて振り下ろす。
「…っ」
彼は左手で僕の手首をつかみ、素早く起き上がった。
「!!」
手首を捻り上げられ、僕の体は軽々と宙に投げ飛ばされる。
「いっ…た…」
僕が背中から床に落ちる一瞬で、隆文さんは枕上においていた太刀を鞘から抜き放った。
「くっ…」
僕は両手をついて体を起こし、苦無を三本同時に彼に向かって投げる。
隆文さんは暗闇でも完璧にそれを見切り、二本をかわし、一本を刀で弾き飛ばした。
息をつく間もなく、刀の切っ先が僕の喉元に突きつけられる。
「はぁっ、はぁっ…」
僕は息を切らし、ただ彼を見上げることで精一杯だった。
「君は、女性だったのか」
着崩れた僕の着物姿を見て、隆文さんが目を見開く。
「はい、そして殺し屋です。…っあなたを、殺しに来ました」
息を整えながら、僕は指先で彼の刀に触れた。
「でも、失敗しました…僕を殺してください」
「っ…」
この刃には、幾人もの血が染み込んでいるのだろう。柄を握る彼の手は、何度も赤く染まってきたのだろう。
その腕で、教えて欲しい。
僕が今まで与えてきた、人の痛みを、死の恐怖を。
「僕は、お兄さんに殺されたい」
うまく、笑えているだろうか。
戦えば、どちらかが死んで終わると思っていた。思った以上に、歯が立たなかったけれど。
この終わり方を、僕は望んでいた。
この手で大好きな人を殺すか、大好きな人の手で殺されるか。
隆文さんの手でゆけるなら、これ以上の幸せはない。
だから、最後くらいちゃんと笑っていたい。
「…七依、私に君を殺すことはできない」
刀を握る隆文さんの手が、僅かに震えていた。
「どうしてですか、僕はお兄さんを殺しに来たんですよ」
急かすように、僕は自分の首を刃先に当てた。
「っ、やめるんだ!」
後ずさった彼の両手が、力なく垂れる。
「やめるんだ、七依…」
隆文さんの混乱が、暗闇を伝って耳に響いてきた。夜中に突然僕が来たから、驚いたのだろう。しかも男だと思っていた僕が女で、殺し屋で。
「前に聞きましたよね、痛いですか?って」
「…?」
彼にはとても申し訳ないことをした。いくつも嘘をついて。
「教えてください、お兄さん」
でも、僕を殺せば全て終わる。
最後に、言いたいことはたくさんあるけれど、言ったら未練ができそうだから。
「…無理だ」
「なぜですか」
この想いは、地獄へ持っていくことにしよう。
「答えてください、お兄さん」
立ち上がって、足を踏み出す。すると俯いていた隆文さんが勢いよく顔を上げた。
「君が好きだからだ」
彼は持っていた刀を放り投げ、つかつかと僕に歩み寄ってくる。
「なっ…」
今度は僕が驚かされてしまって、壁に背がつくまで後ずさった。
「だから、私には君を殺せない」
やっと目が覚めたのだろうか、闇の中でも、その瞳は輝くように強い光を帯びていた。
「君に寝込みを襲われるとは思っていなかったから、危うく寝ぼけて斬り殺してしまうところだっただろう」
「でも…っ、僕…」
隆文さんが、屈んで僕の顔を覗き込む。
「っ、覚悟はできていますから、殺してください!!」
「殺さない」
「だったら!…っ、僕は…どうすればいいんですか…」
涙が溢れてきて、顔がくしゃくしゃになっているのが自分でも分かった。
「もう、嫌なんです…っ」
隆文さんの着物をつかんで、彼の胸に顔を埋める。隆文さんの手が、そっと僕を撫でた。
「君には、待っている人がいるだろう」
「え…?」
僕が顔を上げると、彼は放り投げた刀を拾い上げ、結っていた髪をばっさりと切った。
「これを持って、あいつのところに帰るんだ」
「あいつ…?」
隆文さんは僕の手を取り、真っ直ぐな長い髪を握らせる。
「君を宗方に渡してしまうのは惜しいが、私などにはもったいな過ぎる女性だ」
隆文さんの手が離れていく。僕の手に、温もりだけを残して。
「君といると、弟ができたようで楽しかったよ」
「……」
「しかし、君と一緒に茶屋へ行くと宗方が形相で睨んでくるんだ」
「心くん…?」
どうしてここで心くんの名前が出てくるのだろう、さっき言っていた"あいつ"というのも心くんのことだろうか。
「あの、お兄さんはこれからどうするんですか」
僕は髪を持って帰れば、隆文さんを殺したことになって依頼は終了。しかし隆文さんは生きている。
「そうだな…しばらくこの街を離れるよ」
軽い声で言って、彼は襖を開け放った。雲の隙間を見つけて、僅かな月明かりが大きな庭を照らしている。
「私に恨みを持っている連中に、見つかってしまったからね」
短くなった隆文さんの髪が夜風になびく。伝えたい言葉はたくさんあったはずなのに、僕はただその姿を見つめていた。忘れてしまわないように。
「ありがとう、七依」
「…はい。さようなら、お兄さん」
不思議と寂しくはなかった。心の何処かに穴が空いたような、そんな喪失感はあったけれど。
彼の言う通り、待っている人の元へ帰らなければと、ただそれだけを思っていた。
長屋へ戻った僕は、部屋で待っていた心くんに潰れそうなほど強く抱きしめられた。
一連の事情を話すと、彼は「あいつならそのうちふらっと帰ってきそうだよな」と笑い飛ばした。
大好きな人に何も伝えられないまま、やっぱり僕の恋は叶わなかった。けれど、後悔はない。
ただ、何故か緊張して心くんの顔が見れなくなってしまったのは、どうしたものだろうか…。




