第十二話 シネラリアの悲哀路 (中)
Side...nanae
あの日から、時折いつもの茶屋で隆文さんと出会うようになった。
つまらない僕の話を、彼は楽しそうに笑って聞いてくれた。その笑顔を見るたび、僕の頭は隆文さんでいっぱいになる。
彼と過ごす時間はあっという間で、僕はなんだかいつも焦っていた。
日々は駆け足で流れていく。置いていかれそうな僕は、ただ隆文さんの羽織の裾をつかむことで精一杯で。
彼が少しでも歩調を早くしたら、僕の手が少しでも悴んだら。
離れて、もう会えなくなる気がした。
「…はぁ」
冬枯れた街の寒空に、白い溜息が吸い込まれていく。
僕はひとり、川沿いの道を歩いていた。ちらちらと雪が舞って、土や草を凍りつかせていく。
着ている紺色の着物にも、灰色の袴にも雪の華が散って妙な模様になっていた。
今日の雪はやけによく降る。このまま埋められてしまいそうだ。
手で雪を払おうかと思ったけれど、冷たいからあまり触りたくない。
「───またねー、隆文先生!」
そんなことを考えていると、どこからか子どもの声が聞こえてきた。しかも、僕のよく知った名前を呼んでいる。
この辺りの屋敷の中からだろうかと、僕は立ち並ぶ屋敷を見上げた。
すると、目の前の屋敷の門から数人の子どもが駆け出してきた。
「次は三段付き、教えてくれよな!」
竹刀の袋を背負った子どもたちが、手を振りながら走っていく。
「気をつけて」
それを見送っていたのは、剣道着を着た隆文さんだった。
「お兄さん!」
「…七依?」
そういえば前に、道場を営んでいると聞いた。どうやらこの屋敷がそうらしい。こんなところで会えるとは思っていなくて、心臓が高鳴った。
「こんにちは、こんなところで何を?」
「えっと、散歩…です」
本当は森へ一人稽古に行くところだったが、僕は苦笑いで誤魔化す。
「こんな雪の中、傘も差さずにか?」
隆文さんが、僕の頭に積もった雪を軽く払った。優しい手が照れ臭くて、僕はぶんぶんと頭を振って雪を飛ばす。
「…ははっ、なんだ今のは」
何が面白かったのか、隆文さんは腰を折って笑い始めた。
「君は犬か…っ、ははっ」
「……」
目の前で、誰かがこんなに笑っているところを見るのは初めてだ。しかも、僕を見て笑っている。
───みんな、僕を見たら怯えるのに。
夜の闇の中でも、僕の目にははっきり映る。泣きながら命を乞う人、叫びながら逃げ出す人、死に物狂いで僕に斬りかかってくる人。
その全てを、僕は斬り殺してきた。首を裂き、息の根を確実に止める。
死ぬ瞬間の人の顔は、しばらく忘れられない。僕を見ながら光を失っていく眼を、忘れたくても忘れられない。
誰かの表情を、記憶に留めておきたいと思うなんて。
「…七依?」
「っ!」
隆文さんに手を握られて、僕は我に返った。今、何を考えていたんだっけ。
「大丈夫か?こんなに体を冷やして…おいで」
僕の手を引いて、隆文さんが門をくぐる。道場の前を通り過ぎ、庭の奥にある屋敷に向かって歩き出した。
きっと、僕の手を握る隆文さんの手は温かいのだろう。けれど、冷えて感覚が鈍っている僕の手では、その体温を感じられなかった。
「…お邪魔します」
足を踏み入れた屋敷は、とても大きかったけれど生活感のない建物だった。
広いのに、人の気配が全く無い。
「こっちへおいで」
玄関から一番近い部屋の襖に手をかけて、隆文さんがこちらへ振り向く。ぽかんと口を開けて廊下を眺めていた僕は、急いで彼の後を追った。
八畳ほどの畳に、文机と衣桁、火鉢が置かれただけの簡素な部屋。隆文さんは火鉢を炊いて僕を手招く。
「こっちで温まるといい」
「ありがとうございます…」
僕は火鉢のそばに正座した。炭の焼ける匂いと、隆文さんの香り。自然と口元が緩んでしまう。
幸せな時間、ずっと続けばいいと思う瞬間ほど、瞬く間に過ぎていく。
でも、いつか終わるならせめて今だけは、彼を誰より近くで見つめることが許されるだろうか。
「この家に住んでるのは、お兄さんだけなんですか?」
「そうだよ」
隆文さんは僕に背を向け、衣桁の前で剣道着を脱ぐ。細い筋肉が綺麗についた上半身には、いくつか刀傷の痕があった。
(お、男の人の裸!!)
見てはいけないと思いつつも、僕は目を離せなくなっていた。
「…ん?」
凝視する僕に気づいて、隆文さんが振り向く。
「傷だらけで見苦しいだろう」
少しだけ、自嘲したような微笑み。いつもの穏やかな眼差しが奥に隠れてしまったような、鋭い眼だった。
「そんなっ…そんなこと、ないです」
僕は首を振って目を逸らす。痛々しく残った刀傷に、後ろめたさを感じながら。
僕は、斬られたことがない。花室さんに隠密行動を仕込まれ、相手の背後から首を搔き切ることだけを得意としてきた。
戦のように、正面から剣を交えたことはない。斬られる痛みを、僕は知らない。
「…昔、会津藩主に仕えていたんだ。戦で蝦夷まで来たが、そこで仲間を全て失った」
隆文さんの声と一緒に、着物を着替える音が聞こえてくる。僕は俯いて、火鉢からじわりと伝わってくる暖かさに手のひらを向けていた。
「面倒だから京へは帰らず、ここで道場を開いたんだ。今の生活は気に入っているよ」
振り返った隆文さんの表情は、いつも通りだった。そして気づく、穏やかな眼は奥に隠れたんじゃない。あの鋭さを、ずっと奥に隠していたんだ。
今はもう、気配を感じない。
「…痛いんですか、斬られるのは」
僕はほとんど無意識に、そんなことを口走っていた。今まで殺してきた人々の痛みなど、測れるはずもないけれど。
「もう、慣れてしまったよ。それに、傷跡になってしまえば痛みはない」
着物の下に傷跡を隠して、隆文さんは微笑んだ。
僕は、なんてことを聞いたんだろう。痛いに決まっているのに。本当は、その先を知りたかっただけ。どんな風に痛いのだろうと思っただけだ。そんなもの、言葉にできるわけがないのに。
「───さぁ、出かけようか」
隆文さんは火鉢の炭に灰を被せ、すっと立ち上がる。
「どこに行くんですか?」
つられて僕も立ち上がり、首を傾げた。
「大通りへ行って、どこかでお茶でも飲もう」
開け放たれた襖の外は、真っ白な雪景色だった。このまま、冬の間は積もり続けるのだろう。
何故だか、その白がとても恐ろしく見えた。
「……」
嫌な予感がする、でもその正体が分からない。気のせいだろうか、さっき聞いた話のせいだろうか。
「…七依?どうした」
「っ、なんでもないです」
隆文さんが微笑んで、僕の頭をくしゃくしゃと撫でる。頭の中は、もやもやしたものでいっぱいだった。
屋敷を出て、隆文さんが番傘を差す。
「ひとつしかないんだ」
同じ傘の下、歩調を合わせて白く凍りついた地面を歩いた。僕はまだ、顔を上げられない。
「!!」
その時、門の向こうから殺気を感じた。人の姿はない、しかし確実に何かが待ち構えている。
「お兄さん!」
門を出た瞬間、僕は隆文さんを強く押した。
「っ!?」
倒れこむ僕と隆文さんの頭上を、銀の刃が横切る。刀が空を斬る音が間近に聞こえた。
「やっと見つけたぞ!滝島ぁ!!!」
ぼろぼろの茶色い袴を着た男が、怒声とともに刀を振りかぶる。その狙いは隆文さんだった。
「お兄さん下がって!」
早口に言って、僕は着物の袖から苦無を取り出す。振り下ろされる一撃を受け止めようと構えると、後ろから肩を引っ張られた。
「下がるのは君だ、死にたいのか!」
丸腰の隆文さんが、僕を庇うように前に出る。
「っ…」
僕は彼の肩越しに狙いを定め、苦無を投げた。
刹那、鮮血が舞い散る。
男が振り下ろした刀は、隆文さんの右肩を浅く斬り裂いた。同時に、僕の投げた苦無が男の側頭部を掠る。
「うっ、ああああああぁぁ!!!」
頭から血を吹き出した男が、刀を取り落として後ずさる。狙いは目玉だったが、少しずれてしまった。
僕はさらに数本、苦無を取り出して構える。それを見た男は、刀を拾い上げると踵を返して去っていった。
「……」
男は角を曲がってすぐに姿を消す。僕は苦無をしまい、隆文さんに向き直った。
「怪我はないか、七依」
「はい…」
隆文さんの右手から、血が滴っている。切り裂かれた黒い羽織、藤色の着物が赤く染まっていた。
「良かった」
彼は髪を結んでいた紐を解いて、自分の二の腕に巻きつける。左手と歯を使って強く結び、手早く止血を済ませた。
『───もう、慣れてしまったよ』
少しも顔色を変えない隆文さんに、さっきの言葉が脳裏をよぎる。
(…傷つくことに、慣れているなんて)
傷つけたことしかない僕には、計り知れない痛みだろう。それなのにこの人は、強がる素振りすら見せない。
「怖い思いをさせてしまったね。巻き込んですまない」
隆文さんが、足元の番傘を拾い上げた。解かれた茶色い髪が、するりと垂れる。
「君のおかげで助かった、ありがとう」
そう言って、彼は左手の指で僕の頬を撫でた。その指先に乗せられた雫で、僕は自分が泣いていたことに気づく。
「ごめん、なさい…」
「君が謝ることは何もない。危ないから、もうここへ来てはいけないよ」
戦があった頃は、殺して、殺されることは当たり前だった。その頃に比べれば少ないけれど、僕は今も殺しをしている。
でも、気づかないうちに侵されてしまっていた。この街の平穏に、彼の優しさに。
(ユキちゃんも、こんな気持ちだったのかな)
今までの生き方を、時の流れに否定される。過ぎていく日々に置いていかれているような、そんな焦りをはらんで、愛情に手を伸ばした。
(届かなかったら、どうすればいいの?…ユキちゃん)
揺れる思いは、悲しみに振れたまま止まってしまった。
隆文さんは何も聞かない、何も言わない。きっと、もう二度と僕に会わないつもりだ。
叶わないことなど、最初から分かっていた。
希望がどこにもない恋なんて、しなければ良かったんだ。




