首筋のアイデンティティ、黒マジックの刻印
一日に二回だけ時間がぴったり合う『電磁波時計』のオカルト騒動から、また数日。
観光地のお土産屋さん兼食堂『おいしいよ』の厨房の空気は、今朝も小丸さんを中心に、なんとも言えない生暖かさに包まれていた。
「トントントントン豚トントン、ナメ」
厨房に響き渡るお馴染みの千切り音。
新人の私は自分の作業を進めながらも、小丸さんがキャベツを刻みながら体を揺らすたびに、その『首筋」へどうしても視線が吸い寄せられていた。
今日の小丸さんは、珍しく白衣のエリを大きく広げて、首元を完全に開放するような着こなしをしていた。折れてお店のボンドで固められた眼鏡が信じられない角度に傾いている男が、一体何の心境の変化で首を開けてきたのか。
だが、私、あるいは遠くで見つめる鈴木さんと佐藤さんの視線は、そのはだけた首筋のド真ん中に、あまりにも不気味に鎮座する『文字』へと釘付けになっていた。
首筋のド真ん中に、太い黒のマジックペンで堂々と直筆されていたのは、漢字で、『俺』
(待て。なんだ、このただごとではない威圧感は)
脳内の私が、いつものような瞬発的なツッコミを忘れ、その文字が放つ異様なオーラに気圧されていた。
首筋に黒マジックで『俺』。あまりにも自己主張の塊すぎる漢字一文字が、しわがれたクソジジイの皮膚の上にまるで古代の呪印か何かのように禍々しく刻み込まれている。
おでこの日本列島や背中の将棋盤が「マヌケな芸術」だとしたら、この首筋の文字だけは、このクソジジイの生態における『最重要レアアイテム』としての風格を放っていた。これ一文字があるだけで、小丸さんという存在の危険度が跳ね上がって見える。立場上、新人である私が直接突っ込めるわけもない。
ふと横を見ると、注文のラーメンを仕上げていた先輩の鈴木さんも、トッピングのチャーシューを乗せる手をピタッと止め、小丸さんの首筋を遠巻きに眺めながら、いつものニヤニヤ笑いを消して神妙な顔でゴクリと息を呑んでいた。
洗い場にいる佐藤さんに至っては、お皿を拭く手を完全に止めて遠くから小丸さんの首元を凝視し、そのただごとではない気迫に、「あれ、なにか深い意味でもあるのかしら・・・・・」と怯えたように肩を震わせている。
誰も直接は話しかけられない。いつもの奇行とは一線を画す、小丸さんの根源的なアイデンティティそのものに触れてしまうような、奇妙な恐ろしさがあったからだ。
周囲の張り詰めた視線を察知したのか、小丸さんは左耳の補聴器らしきものをピクリとさせ、内股をゆらゆらと揺らしながら、虚空を見つめてボソッと呟いた。
「・・・・・・これ、外国の、タトゥー、まね、ナ
メ。せなか、もっと、すごい、ナメ」
そう言って小丸さんは、おもむろに白衣のエリをガバッと後ろへはだけさせ、その広く丸まった生々しい背中をこちらに向けた。
ついに上半身裸になったクソジジイの、汗ばんだ背中の肌の上に、新たな黒マジックの直筆が躍っていた。
そこには、これまた太いマジックペンで、堂々とこう直筆されていたのだ。
『昇り流』
(.....惜しいわァアアアア!!!昇り龍と言いたかったんだろ!!!なんでそのまま日本語で「流」って書いちゃったんだよ!!!!!!)
私の脳内が、ズコーーーッと盛大にひっくり返りながら全力の訂正ツッコミを炸裂させた。
あの大真面目で禍々しいオーラは何だったのか。ガイジンがよく意味も分からずに入れている、あの勘違い漢字タトゥーのノリを、本物の日本人が最高にクールなファッションだと信じ込んで、漢字を完全に間違えたまま自宅の鏡の前で魂を込めて直筆してきただけだった。
だが、私はふと、その文字の『異常な美しさ』に気がついてハッと我に返った。
(....この美しい芸術作品を、お前、自分の真後ろの生背中にどうやって一人で書いたんだよ!!!!!)
マジックペンで書かれているにもかかわらず、力強いトメ、ハネ、そして流れるようなハライに至るまで、まるで歴史ある寺院の看板かと思うほど芸術的で美しいフォントなのだ。書かれている内容が『昇り流』という致命的な誤字でなければ、そのまま額縁に入れて飾りたいレベルの名筆である。
しかも、である。
関節が外れるほどの超人的な軟体性でもない限り、自分の背中に、反転する鏡を見ながらこれほど完璧なバランスの美文字を書き記すことなど不可能なはずだ。その必死すぎる執念と謎の器用さを想像すると、恐怖を通り越して妙な気味悪さすら覚えてくる。
すると、遠くで見守っていた鈴木さんは、小丸さんの「昇り流」という文字を視認した瞬間、一気に脱力したらしく、おたまを握り直して激しく肩を震わせてクスクスと笑い始めた。
佐藤さんも「もう、男の中の男の次はそれだなんて、本当に人騒がせなハゲねぇ」と呆れ果てた笑い声をあげて皿洗いに戻っていった。
「クール、ナメ・・・・・・・」
自分の首筋と背中に宿る最高レアの美文字にうっとりと酔いしれたクソジジイは、また何事もなかったかのように内股を揺らし、
「トントントントン豚トントン、ナメ」と、平然とキャベツを刻み始めるのだった。
みんなに遠くから呆れられながらも、どうやって書いたかも分からぬ天才級の美文字(ただし誤字)を全身に宿して作業を続けるクソジジイ。
そのブレない姿を見つめながら、新人の私(山田)の脳内だけが、今夜の悪夢に出てくる豚の背中に天才的な達筆で『出荷流』と直筆されている恐怖を予感して遠い目をしていた。




