紙のクロノグラフ、鳴り響く奥歯
インクで鼻の頭を真っ黒に染めてパンダ化したクソジジイが、使用済みの新聞紙をポケットにスタイリッシュに保管した事件から、また数日。
観光地のお土産屋さん兼食堂「おいしいよ」の厨房は、今日も今日とて、小丸さんという歩く地雷原を前にして絶妙なざわめきに包まれていた。
「トントントントン豚トントン、ナメ」
もはや軽快でしかないキャベツの千切り音。
だが今日、新人の私の神経を逆なしたのは、その包丁の音ではなかった。
「カチ、カチ、カチ、カチ」
小丸さんがキャベツを刻み湯気の中に立ち尽くしていても、厨房の奥から、何かが一定のテンポで時を刻むような不自然な音が聞こえてくるのだ。
最初は業務用エアコンの不具合か、あるいは厨房のどこかにあるタイマーの音が反響しているのかと思った。だが、音の発生源は明らかに、小丸さんの『左手首』だった。
私は自分の作業をしながら、盗み見るようにクソジジイの手首へ視線を走らせた。
(......いや、動くわけねえだろ)
小丸さんの左手首には、ピンクや青のカラフルな色紙で折られた、おもちゃの腕時計が巻かれていた。
娘さんが幼稚園の時に作ってくれたという、涙ぐましい思い出の品だ。文字盤には娘さんの書いたマジックの数字が躍っている。
当然、電池も歯車も入っていない、ただの『折り紙』だ。
それなのに、その紙の塊から、確かに「カチ、カチ、カチ」と精密機械のような音が鳴り響いているのだ。
(え、怖い、何これ怪奇現象!?)
新人である私(山田)は、ゾワリと鳥肌を立てて脳内で怯え始めた。立場上、直接突っ込むわけにもいかず、ただ硬直するしかない。
ふと横を見ると、ラーメンのスープを仕込んでいた先輩の鈴木さんも手を止め、眉をひそめて小丸さんの手首を遠巻きに凝視していた。洗い場にいる佐藤さんに至っては、完全に動きを止め、怯えたような目でクソジジイを遠くから見つめている。
誰も声を出さない。折り紙の時計が時を刻むという不気味な現象を前に、厨房の大人たちは「オカルトの腫れ物」に触れてしまったかのように硬直していた。
厨房が恐怖に支配され、静まり返ったその瞬間。
小丸さんがズレたボンド眼鏡を指先でクイッと上げ、虚空を見つめてボソッと呟いた。
「これ、ムスメ、くれた、ナメ。さいしんの、でんじはどけい、ナメ」
そう言って小丸さんは、自慢げに折り紙の時計をこちらに突き出してきた。
(電磁波時計ってなんだよ!!電波時計と言いたかったのか!?電磁波浴びてどうすんだよ体に悪いわ!!!!!)
私の中のツッコミ魂が、脳内で激しい訂正を叫んだその瞬間、私はすべてを理解した。
小丸さんの口元が、音のテンポに合わせてわずかにピクピクと動いていたのだ。
このクソジジイ、虚空を見つめて「男」の眼帯を光らせながら、自分の奥歯を「カチ、カチ、カチ」と一定のテンポで必死に噛み合わせて、セルフで電磁波時計(?)の環境音を演出していたのだ。
(お前の歯の音かよオオオオオ!!!!!どんだけ暇なんだよ!!!!!)
新人の私は、厨房の天井を突き破るほどの勢いで、二の矢の絶叫を脳内で上げた。わざわざ自分の歯を鳴らして周囲をビビらせる、あまりの低レベルなマぬけっぷりに眩暈がしてきた。直接言えないのが本当にもどかしい。
だが、恐怖の真骨頂はここからだった。
クソジジイはさらにドヤ顔で手首を突き出し、奥歯を「カチ、カチ」と鳴らしながらボソッと時間を告げたのだ。
「いま、にじ、じゅうごふんナメ」
(いや、ただのセルフ効果音のくせに、何を根拠に時間を言ってるんだよ)
呆れ果てた私は、その嘘を暴いてやろうと、小丸さんの手首の折り紙をすり抜け、厨房の壁に掛かっている本物の正確な電波時計の前に歩み寄り、その文字盤を確認しに行った。
正式な時刻を見た瞬間、私はその場で金縛りに遭ったように凝固した。
(え?うそ、本当にぴったりじゃねえかっ!?)
壁の本物の時計は、寸分の狂いなく、ぴったりと「二時十五分」を刻んでいたのだ。ただ奥歯を鳴らしていただけのクソジジイが、なぜか現時点のリアルタイムを分単位でドンピシャに言いてていた。
私が文字通り「あ然」として硬直しているのを見て、遠くで見守っていた鈴木さんが「おい、まさか!」と声を震わせ、おたまを落としそうになりながら壁時計を見上げた。佐藤さんも「う、嘘でしよ!つ!」と口元を押さえてのけぞり、壁時計を二度見した。
本当に時間が合っているのを目撃した二人は、完全に顔を引きつらせ、ガタガタと震えながらビビり散らし始めた。
時計を見ずに、ただ必死に自分の奥歯をカチカチ鳴らしていただけのクソジジイが、なぜか時間を正確に把握しているという、無駄すぎる神がかり的なオカルトミラクル。鈴木さんは恐怖の眼差しで小丸さんを見つめ、佐藤さんもパニックになって皿を洗う手を震わせている。厨房に本気の恐怖がピリピリと渦巻いていた。
そんな恐怖のどん底に叩き落とされた厨房に、クソジジイがさらにボソッと呟いた。
「これ、いちにちに、にかいは、あう、ナメ」
(止まって描かれてるだけの針だからなアアアアア!!!!!!)
新人の私の脳内で、今日一番の脱力と激しいツッコミが炸裂した。
超能力でもなんでもない。ただ「二時十五分」の位置で完全に固定された折り紙だから、一日のうちで午前と午後の二回、本物の時間と重なる瞬間が絶対にやってくる。こいつはただ、その瞬間が来るのをずっと静かに待ち構えて、ここぞとばかりに奥歯をカチカチ鳴らしていただけだったのだ。
音の正体どころか、時間のタネ明かしまであまりにくだらなすぎた。
遠くでビビり散らしていた鈴木さんは、ガクッと膝の力を抜いておたまを握り直し、「アホくさ、死ぬほど心臓に悪いわ」と呆れ果てた笑い声をあげた。佐藤さんもさっきまでの恐怖が嘘のように「もう、人騒がせなハゲなんだからぁ」とクスクス笑いながら皿洗いに戻っていった。
「さいしん、ナメ」
みんなを本気で恐怖させ、最後は遠くから呆れ果てさせたリアクションに大満足したクソジジイは、何事もなかったかのように内股を揺らし、
「トントントントン豚トントン、ナメ」と、平然とキャベツを刻み始めるのだった。
誰も突っ込めない厨房の中で、新人の私(山田)だけが、今夜の悪夢に出てくる豚が「一日に二回だけ」不気味な電磁波を放ちながら正確に奥歯を噛み鳴らしてくる恐怖に震えていた。




