鼻腔の焦燥、新聞紙のバリケード
お店の事務机から拝借したボンドで固めた眼鏡と、自分で『男』と書き込んだ眼帯の恐怖から数日が経った。
観光地のお土産屋さん兼食堂「おいしいよ」の厨房の空気は、今朝も小丸さんの顔面を中心に絶妙なざわめきに包まれていた。
「トントントントン豚トントン、ナ
メ」
もはや軽快さすら感じるキャベツの千切り音。
私は自分の作業をしながらも、目の前にいる小丸さんの鼻元から目が離せなくなっていた。
小丸さんの鼻の穴は、左右でまったく異なる絶望のハーモニーを奏でていた。
向かって右の鼻の穴からは、真っ黒な鼻毛が外の世界へと飛び出しそうな絶妙なラインで蠢き、出たり引っ込んだりを繰り返している。まさに瀬戸際の攻防だ。
さらに信じられないことに、もう片方の左の鼻の穴からは、完全に限界突破した鼻毛の先に小さな鼻くそがしっかりと付着していた。
小丸さんがキャベツを刻むリズムに合わせて首を動かすたび、右が伸縮し、左の物体がプランプランと楽しげに弧を描く。それはまるで、厨房の平穏な時間を刻む「絶望のメトロノーム」だった。
(おい嘘だろ!!左右連動しとる!!!カチッ、カチッて正確なテンポで揺れとるがな!!!)
私の脳内が頭を抱えて大絶叫した。
飛び出しているならまだしも、鼻毛を命綱にしてブランコのように揺れる鼻くその姿は余計に鬱陶しく、気になってこちらの作業にまったく集中できない。
ふと横を見ると、鈴木さんも佐藤さんも遠くから小丸さんの鼻元を凝視し、あからさまに眉をひそめて「うわあ!」という表情で首を横に振っていた。厨房の全員が、その左右の鼻毛とプランプラン揺れる物体に完全に気を取られていた。
まさにその時だった。小丸さんが「フンツ」と静かに鼻を鳴らした。
「ハナ、でる、ナメ」
一応ハンカチは持っているようだが、それはお店の雑巾の方がまだ綺麗に見えるほど汚れている。佐藤さんが遠くから「ちょっと、それ使う気じゃないでしょうね」と怯えた視線を送る中、小丸さんがポケットから取り出したのは、四角く麗に折り畳まれた『古びた新聞紙』だった。
小丸さんはその新聞紙をそっと顔面に当てると、静かにフン、フンと鼻を噛み始めた。
そこまではいい。だが、本当の恐怖はここからだった。
鼻を噛み終えた小丸さんは、その使用済みの新聞紙をゴミ箱に捨てるかと思いきや、信じられないことに、どこかの外国の紳士気取りな手つきで、元の四角形にカチッと綺麗に畳み直したのだ。そして、何事もないかのようにズボンのポケットへすっと戻した。本人はおそらく、海外流のスマートなマナーを実践しているつもりなのだろう。
(戻すなァアアアア!!!捨てろよ!!なんでキープしたんだよ!!!!!)
私の脳内で今日一番の悲鳴が上がった。
遠くで見つめていた鈴木さんはあからさまに顔を引きつらせ、佐藤さんも「嘘でしょ」と口元を押さえて完全に絶句している。海外のティッシュならまだしも、あのプランプランしていた物体ごと汚れた新聞紙をポケットで大切に保管するクソジジイの感性に、厨房の全員が遠巻きに震えていた。
ポケットをポンポンと叩いて満足した小丸さんが、こちらを向いた。
その瞬間、私は危うく手元を狂わせて包丁で指を切りそうになった。
(おい嘘だろ!鼻の頭が黒くなってる!!)
新聞インクのせいで、小丸さんの鼻の頭がうっすらと黒く汚れていた。
ただ、よく見ると、さっきまで鼻毛の先でプランプランと揺れていた例の物体は、新聞紙の中に綺麗に回収されたらしく、小丸さんの鼻元からは跡形もなく消え去っていた。
(あ、そこはよかったね。そこだけは本当によかったねクソジジイ!!!!!)
最悪な状況の中で、私は一瞬だけ謎の安堵を覚えた。
しかし、インクで黒くなった鼻の頭と真っ黒な鼻毛というカオスすぎる顔面を、本人は「スッキリした、ナメ」と言いたげな涼しい顔で、ズレたボンド眼鏡の奥から覗かせている。
遠くからそれを見つめていた鈴木さんは、黒くなったクソジジイの鼻を指差し、隣の佐藤さんに「おい、あいつ一人だけ炭鉱から帰ってきたんか」とボソッと呟いて小さく吹き出した。佐藤さんも「もう、本当にしょうがないわね」と呆れ果てた笑い声をあげて皿洗いに戻っていった。
小丸さんは、再び何事もないかのように内股を揺らし、
「トントントントン豚トントン、ナメ」
と、平然とキャベツを刻み始めるのだった。
ボンドでギチギチの眼鏡、手書きの眼帯、そしてインクで黒ずんだ鼻。
パーツが増えるたびにどんどん怪人へと近づいていくクソジジイの後ろ姿を見つめながら、私はただ、あのポケットの中の「使用済み新聞紙」が二度とこの世に解き放たれないことだけを願って、そっと目を閉じた。




