ー・五倍速の朝食フォーメーシ ョン(中盤)
昨夜、発熱で苦しんでいたお子さんが私たちの方へ向かって走ってきた。
「お兄ちゃんたち、ありがとう!」お子様の弾けるような笑顔を見届け、胸を熱くしたのも束の間。会場内は114室のお客様が一斉に放った「すみません、ご飯おかわり!」「こちらもお茶を!」という怒涛のコールで埋め尽くされた。
「・・・・・・つ、はい!」
私は涙を引っ込め、大型のお櫃を両手に抱えて、一倍速の限界速度でホールへと飛び出していった。
ゼエゼエと肩を荒く上下させながら、空になったお茶碗を受け取り、厨房とホールを往復する。それだけで私の一倍速の脳と身体は完全にパンク寸前だった。
しかし、そんな限界の視界の中で、一・五倍速の先輩たちの動きはやはり常軌を逸していた。
先輩たちはただ動きが速いのではない。
信じられないことに、お客様が「すみません」と声を上げるよりも前一ーお茶碗の白米が残り最後の一口になり、あるいは湯呑みのお茶が底を突く『一手前』の瞬間に、すでに新しいご飯やお茶を手に、音もなくその横に佇んでいるのだ。
お客様がふと顔を上げた瞬間には、目の前に完璧なタイミングで欲しかったものが差し出されている。
(もしかして出来てないのは私だけ?なんだ、この人たち。お客様の『次の行動』を完全に未来予知して先回りしている・・・・!)
声を出させることすらしない、究極の先回りタクテイクスに、私はただただ圧倒されるばかりだった。
そして、その超高速の未来予知の矛先は、先ほど席に着いたばかりの、あの病み上がりのお子様のテーブルへと向けられた。
お母様とお子様がメニューを開こうとしたその瞬間、ー・五倍速の無音のステップで先輩スタッフが滑り込んできた。その手には、通常の朝食メニューにはない、湯気をふんわりと立てる小さな器が乗っている。
先輩は、朝の爽やかな空間を邪魔しない、あの「少し低いトーン」の優しい囁きを響かせた。
「お坊っちゃま、お母様。・・・・・・こちら、館の厨房より、お腹を優しく温める特別な一品でございます。地元の豆乳を用いたとろける湯豆腐と、お出汁の茶碗蒸しでございます。病み上がりの身体に障らぬよう、一・五倍速の超弱火で芯まで柔らかく仕上げてございます」
それは、昨晩のハプニングを踏まえ、支配人のボソリ声を受けた厨房の板長たちが、マッハの速度で即座に作り上げた特製の『お腹に優しい朝食」だった。
「まあ・・・・・・!そこまで、そこまで気を使ってくださるなんて......」
お母様は信じられないといった様子で両手を頬に当て、再び深い感動に瞳を潤ませている。お子様も「わあ、おいしそう!」と嬉しそうにスプーンを握りしめた。
大騒ぎをして特別扱いを誇示するのではない。お客様が「あ、そういえば病み上がりだから普通のメニューは食べられないかも」と不安を抱くその『一手前』に、完璧な解決策を少し低いトーンの囁きとともに差し出す。
これぞ、この旅館が誇る五倍速のフロントタクティクス。
朝日が差し込む食事処で、お客様たちの「美味しいね」「なんて素晴らしい旅館なんだろう」という幸せな呟きが、静かな波のように広がっていく。
しかし、戦場はまだ終わらない。
インカムの向こうから、フロントの定位置で腕を組む小丸支配人の、あの無機質な声が再び脳内に直接響き渡った。
「ナメ」
(訳:『フロントタクティクスは朝食だけにとどまらない。間もなく114室一斉の【五倍速の超速チェックアウト】が始まる。一倍速の主人公、お櫃を置いてフロントへダッシュせよ』)




