深夜のステルス・レスキュー
館内114室すべてのお客様が深い眠りにつき、静まり返った午前2時。
明朝の朝食仕込みに向けて、私と先輩たちが厨房で「一・五倍速の深夜ステルスモード」を駆動させていた、その時だった。
フロントの内線電話が、夜の静寂を切り裂くように小さな音でチリリンと鳴った。
受話器を取った先輩スタッフの表情が、一瞬で「超一流の救急救命士」のような鋭さへと変わる。
「・・・・・・・はい、〇〇号室の〇〇様ですね。かしこまりました。ただいまお伺いいたします」ある客室のお子様が、旅の疲れからか、深夜に急な高熱を出して苦しんでいるというSOSだった。
見知らぬ土地での深夜の体調不良。お母様の声は不安で激しく震えていたという。
普通なら、夜勤の少ないスタッフは大慌てでパニックになるところだ。しかし、この旅館のフロントタクティクスに「慌てる」という文字は存在しなかった。
インカムから、フロントの奥に佇む小丸支配人のボソリとした声が響く。
「ナメ」
(訳:『深夜のメディカル・タクティクスを発動する。一倍速の主人公、お前は私の部屋の棚から、あの【特製ボトル】を持ってマッハで走れ』)
その合図とともに、私は支配人の部屋へとダッシュした。手渡されたのは、ラベルも貼られていない、怪しげな琥珀色の液体が入った小さな瓶。
(いや、何これ!?怖っ!!)と内心絶叫しながらも、私は冷却シートを抱えた先輩とともに〇〇号室の前へと滑り込んだ。
先輩は足音を立てずに襖を静かに開け、不安そうに熱い我が子を抱きかかえるお母様の前にそっと膝をついた。
その場に流れたのは、夜の静寂を決して壊さない、あの「少し低いトーン」の、心に深く染み入る圧倒的に優しい囁きだった。
「お母様、もう大丈夫でございますよ。こちらに冷却シートをお持ちいたしました。......それと、こちらは当館の支配人が調合いたしました、『竹瀝』を用いた特製の自家製シロップでございます。昔の人が竹を火であぶって採った植物の油をベースにした、伝統的な熱冷ましでございます。お子様でも飲みやすいよう、自然の甘みで仕立てております」
「えっ、ちくれき.....?」とお母様が一瞬戸惑うのも無理はない。見た目は完全に怪しい。
しかし、先輩の嘘りのない真摯な眼差しに押され、お母様は藁にもすがる思いでその液体をお子様の口へと含ませた。
すると、どうだろうか。
薬を飲み干してわずか数分後、あんなにハアハアと荒かったお子様の息遣いが、みるみるうちに穏やかになっていくではないか。
額に手を当てたお母様が、信じられないというように目を見開いた。
「・・・・・嘘、熱が・・・・・引いていく・・・・・・!?」
クソジジイの竹瀝シロップの効果は絶大だった。常人の領域を遥かに超越したー・五倍速の薬効成分が駆け巡ったのか、お子様の顔にはすぐに赤みが差し、すやすやと心地よさそうな寝息を立て始めたのだ。
すべてが完璧に先回りされた神対応と、目の前で起きた奇跡のような快復劇に、お母様の目からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「・・・・・・よかった・・・・・・・!本当に、本当にありがとうございます.....!」
深く感謝するお母様へ、先輩はやはり「少し低いトーン」でそっと囁き、厨房でマッハで仕上げられた温かいお粥をそっと枕元に差し出した。
お客様に一瞬たりとも孤立無援の恐怖を感じさせない。深夜の暗闇のなかで走りながら、この人たちは(あるいはあのクソジジイは)、お客様の『命の安全』にまで完璧に先回りしていたのだ。
深夜のハプニングを完全にねじ伏せ、時計の針が午前5時を回る頃。
東の空が白み始め、いよいよ本当の「朝食提供」へのカウントダウンが始ろうとしていた。




