静寂のステルスタクティクス
夕食が終わり、114室すべてのお客様がお部屋で心ゆくまでくつろがれている時間帯。
館内は、さっきまでの激しい「夕食サバイバル」が嘘のように、深い静寂に包まれていた。
お客様のプライベートなリラックスタイムを絶対に邪魔しないため、スタッフ全員が、次の動きがあるまで各持ち場で一斉に「待機」に入っていた。
耳元のインカムの音量はゼロに近く、厨房からロビ一に至るまで、一・五倍速の先輩たちは物音一つ立てず、まるで彫刻のように直立不動で息を潜めている。一倍速の私だけが、その張り詰めた静寂のフォーメーションに圧倒され、ゴクリと唾を飲み込んでいた。
時計の針が21時を回る頃、お部屋でのんびりされたお客様たちが、温泉で旅の疲れを完全に癒やし、ポカポカと体を温めて次々と動き出し始めた。
お客様たちが向かったのは、夜のロビーラウンジだった。
昼間の賑やかさとは打って変わり、照明が優しく落とされた夜のロビー。大きなガラス窓の向こうには、美しくライトアップされた幻想的な日本庭園が広がっている。
湯上がりの心地よい火照りを感じながら、お客様たちは贅沢なソファに深く腰掛け、静かに流れる時間に身を委ねていた。
その極上のリラックス空間の裏で、一・五倍速の「ステルス(隠密)・ホスピタリティ」が静かに、しかしマッハの速度で発動していた。
足音はおろか、衣擦れの音すら一切させない。
先輩スタッフたちは、お客様の視界の死角を突くようなー・五倍速の残像とともに、ロビーの隅々へ鮮やかに先回りしていく。
庭園を眺めるお客様のテーブルへ、一人の先輩が音もなく近づいた。夜の雰囲気を壊さない、あの「少し低いトーン」の、耳に心地よく染み入る優しく静かな囁きだった。
「湯上がりに、冷たい地元のハーブティーはいかがでございますか」
絶妙なタイミングで差し出されたのは、水滴一つついていない、完璧に冷やされた美しいガラスのグラス。
お客様は「おや、ありがとう・・・・・。。ちょうど冷たいものが欲しかったんだ」と、至福の笑顔でグラスを受け取る。
さらに、ソファのクッションのわずかな沈み込みから、お客様の「少し肌寒いかもしれない」という冷えを瞬時に察知した別の先輩が、やはりー・五倍速の無音のステップで接近。少し低いトーンの囁きとともに、ふんわりとした上質なひざ掛けをスマートに手渡していく。
大騒ぎはしない。空気のように存在を消しながら、お客様が「あ、今これが欲しいな」と思ったその瞬間に、すべてが目の前に用意されているのだ。
やがて22時を過ぎる頃、心地よい眠気に誘われたお客様たちが、「そろそろお部屋に戻ろうか」とぽっりぽつりと席を立ち始めた。
お客様がエレベーターに乗り込み、客室の廊下に到着するまでの、わずか数十秒の隙。
客室階では、別の先輩たちが一・五倍速の無音ダッシュで、お部屋の「最終調整」を完璧に完了させていた。
枕元の常夜灯は眠りを妨げない絶妙な明るさに絞られ、加湿器からは静かにミストが広がり、布団の傍らには冷たいお水のポットが完璧な位置に置かれている。
お部屋に戻り、ふかふかの布団に滑り込んだお客様たちは、昼の激走、夕食の感動、そして夜の美しいロビーの余韻に包まれながら、全員がまたたく間に深い眠りへと落ちていった。
114室すべてのお客様が、最高に贅沢な安らぎのなかで完全に就寝したのだ。
館内の明かりが落とされ、静まり返った深夜のフロント。
一倍速の私が「ようやく終わった」と激しい疲労感とともに胸をなでおろした、その瞬間だった。
フロントの暗闇から、小丸支配人が音もなくスッと現れた。
静まり返った空間に、インカムを通じて、蚊の鳴くような、しかしー・五倍速の超低音の早口が響き渡る。
「ナメ」
(訳:『全員の就寝を確認した。これより明朝の朝食仕込みに向けて、「一・五倍速の深夜ステルスモード」を開始する。一秒の猶予もない。全員、配置に付け』)
背後で、先輩たちの目が再びギラリと鋭く光る。
私の、この旅館での本当のサバイバルは、夜が明けても終わらないのだ。




