ー・五倍速のフロントタクティ クス
時計の針は14時50分。
15時のチェックイン開始まで、ついにあと10分と迫っていた。
館内スピーカーから流れているのは、お客様を穏やかに出迎えるための、いつもの静かで優雅な和風BGMだ。何事もなかったかのように流れるその上なく静謐なメロディが厨房を包み込むなか、そこに広がっていたのは、信じられない光景だった。
すべての夜間業務の仕込みが、完璧に、そして美しく完了していたのだ。
大根のツマは寸分の狂いもなく透き通り、大量のスープは一滴の吹きこぼれもなく、ぴっちりとタッパーに収められて冷蔵庫に並んでいる。
完璧に磨き上げられた床の上には、やはり食材の破片どころか、一滴の水すら落ちていない。
その限界突破した静寂のなかで、通常速度(一倍速)の私だけが、肩を激しく上下させながらゼエゼエと荒い息を吐いていた。
耳元のインカムからは、お土産売り場やフロントの先輩たちが、何事もなかったかのように穏やかな声で「配置、完了しました」「いつでもお客様をお迎えできます」と定時連絡を入れる声が聞こえてくる。
完璧にお客さんを迎える準備が整った。
ーー整ったのはいいのだが、一体何のために私はこれほど死にかけたのだろうか。
時計の針が14時55分を指した。
私の横をマッハの速度で通り過ぎていった先輩たちは、いつの間にか一倍速の穏やかな「一流ホテルマンの顔」に戻り、息一つ乱さず持ち場へと向かっていく。
静まり返った厨房のなか、背後に立つ小丸支配人が、ゆっくりと私の肩に手を置いた。
時計の針が、15時ジャストを指した。
自動ドアが静かに開き、「いらっしゃいませ」というフロントの先輩たちの澄んだ声が館内に響き渡る。
車を降りた個人のお客様や、楽しそうな家族連れの一行が、次々とロビーへと流れ込んできた。
客室数114室を誇るこの大型旅館のフロントは、一瞬にしてチェックインのお客様で埋め尽くされた。
ロビーには、子供たちの賑やかな声や、長旅の疲れを癒やしにやってきた家族連れの笑い声が溢れかえる。
ロータリーには次々と車が滑り込み、フロント前には一気に行列が膨れ上がっていく。
しかし、それを迎え撃つのはフロントスタッフだけではなかった。
先ほどまで厨房でマッハの速度で包丁を振るっていた先輩たちが、息一つ乱さず、ピシッとした制服姿でフロントのヘルプとしてズラリと横一列に並んでいたのだ。
「いらっしゃいませ!〇〇様、お待ちしておりました!」
フロントに入った先輩たちの接客スピードもまた、常人の領域を遥かに超越していた。
右手でお客様から宿泊カードを受け取りながら、左手でお部屋の鍵を鮮やかに差し出し、同時に口からは館内の案内が淀みなく流れ出す。その一連の動作には、一ミリの無駄もない。
それだけではない。先輩たちは笑顔で手続きを進めながらも、その鋭い眼光でお客様の些細なサインを見逃さなかった。
長旅の移動で喉が渇き、小さく唇を湿らせたり、周囲を見回したりしているお客様を見つけるや否や、流れるような身のこなしでウェルカムドリンクコーナーへと引率していく。
「遠路はるばるお越しいただき、誠にありがとうございます。どうぞこちらで冷たいお飲み物を召し上がり、お寛ぎください」
案内された家族連れのお客様は、「あら、ありがとう!」と顔をほころばせる。
そこには、まるで高級ホテルのラウンジのような優雅で穏やかな時間が流れていた。
さっきまで厨房で、一・五倍速の爆音和太鼓に合わせてキャベツをみじん切りに粉砕していた男たちだとは、お客様の誰も気づくはずがなかった。
さらに、先輩たちの配慮はそれだけに留まらない。
フロントの行列のなかで、少し足元をもじもじさせたり、恥ずかしそうに周囲の案内板を探したりしているお客様の気配を、瞬時に察知する。
「いきなりトイレの場所を聞くのは恥ずかしい」というお客様の心のひだを、完璧に理解しているのだ。
先輩は、決して「お手洗いはあちらです」などと大声で言ったりはしない。
そのお客様の横をすれ違う瞬間に、他のお客様には聞こえないほどの絶妙なボリュームで、そっと囁くのだ。
「お客様、よろしければレストルームはあちらでございます」
そして、ロビーの一角に海外からお越しのお客様のグループが到着した、その瞬間だった。
どこからともなく現れた小丸支配人が、フロントの先頭へとスッと躍り出た。
日本語すらたどたどしいはずのあの男が、この一・五倍速のマルチタスク空間において、恐るべきマルチバイリンガルへと変身を遂げていたのだ。
支配人は、先ほどまでの無機質な表情を跡形もなく消し去り、非の打ち所がない完璧な接客顔を浮かべて目の前の外国人客に向けて口を開いた。
英語、中国語、フランス語、さらには聞いたこともない国の言語までが、一・五倍速のテンポを刻むかのような超高速の滑らかさで、その唇から次々と放たれていく。
流暢なんてレベルではない。もはや脳内の言語回路がマッハの速度で同時駆動しているとしか思えなかった。
「オーマイゴッド・・・・・・!なんて素晴らしいホテルマンなんだ!」
支配人の完璧な多言語対応に、外国人のお客様たちは大感激し、口々に惜しみない賛辞を送りながら笑顔で館内へと進んでいく。
ゴールドバッジをギラリと輝かせながら、一寸の隙もない所作でお辞儀を見送る支配人の姿は、もはや国境を越えた超一流のコンシェルジュそのものだった。
時計の針が15時30分を回る頃には、あの大混雑が嘘のように、114室すべてのお客様のチェックインが完全に終了していた。
誰一人として待たされることなく、全員が満足そうな笑顔でお部屋へと入っていかれたのだ。
お部屋に案内されたお客様たちは、荷物を置くや否や、114室の広大な館内をさっそく散策し始めた。
お土産売り場、大浴場への通路、風情ある庭園へと家族連れが次々と楽しげに繰り出してくる。
楽しそうに館内を歩き回るお客様たちの前に、先ほどフロントにいたスタッフたちが、再び鮮やかな手際で先回りしていた。
ある先輩は、大浴場へと続く風情ある廊下を曲がった場所で、一・五倍速の流れるような美しさでお客様を誘導している。
暖簾をくぐるお客様の邪魔にならない絶妙なタイミングで、脱衣所のバスタオルが寸分の乱れもなくピシッと山積みにされているかをマッハの速度でチェックし、いつでも一番風呂を最高に気持ちよく楽しんでもらえる状態を維持していた。
一方、お土産売り場も大盛況だった。
「わあ、このお饅頭おいしそう!」「パッケージが可愛いね」
売り場には、この旅館オリジナルの銘菓や地元の名産品が美しく陳列され、家族連れのお客様たちが楽しそうにお土産を選んでいる。
その売り場の一角でも、先輩スタッフがお客様の邪魔にならない絶妙な間合いで、売れたそばから商品を一・五倍速の残像とともに棚へ補充していた。
「パパ、あそこで写真撮ろう!」ロビーから見える美しい日本庭園のベンチでは、子供たちが嬉しそうに声を上げていた。
そこへすかさず、ー・五倍速の軽やかなステップで先輩スタッフが近づいていく。
「よろしければ、皆様ご一緒にお撮りしましょうか?」
完璧な笑顔でカメラを受け取ると、プロ顔負けの手際で、庭園の緑が最も美しく映えるアングルから家族全員の笑顔を切り取った。
時計の針は16時30分を回り、窓の外には美しい夕暮れの景色が広がり始めていた。
館内を存分に満喫し、温泉で旅の疲れを癒やした
114室のお客様たちは、いよいよ今夜のメインイベントである「夕食」の時間を心待ちにしながら、それぞれのお部屋や宴会場へと集まりつつあった。
ロビーに流れていた静かなBGMので、私の耳元のインカムが再びパチンと冷徹な音を立てた。
インカムから聞こえてきたのは、微動だにせずフロントの最奥に佇む小丸支配人の、あのボソリとした声だった。
「ナメ」
本日六度目となるその一言が、私の脳内にダイレクトに響き渡る。
(訳:『17時ジャスト、114室全ての夕食提供を同時に開始する。一分一秒の遅れも許されない。これより「一・五倍速の夕食サバイバル」の幕開け
だ』)
その瞬間、私の背筋に再び強烈な戦慄が走った。
厨房の先輩たちの目が、一瞬にして「プロの格闘家」のような鋭い光へと変わる。
114室のお客様に最高の夕食を、完璧な温度とスピードでお届けする。
私の、まさにこの旅館の本当の戦いは、ここからが本番だったのだ。




