第七章:ー・五倍速の厨房サバイバル
目の前にあるのは、一滴の水すら残さず完璧に磨き上げられた洗い場と、すでに美しく千切りにされたキャベツの山。時計の針はまだ14時。15時のチェックイン開始まで、物理的に「もうやるべき仕事」は何一つ残っていなかった。
「完璧だ・・・・・・これなら15時まで休める・・・・・・」
私がホッと胸をなでおろしたその瞬間、私の横に並んでいた厨房担当の先輩が、感情の消え失せたロボットのような無機質な声でボソリと呟いた。
「違う。小丸支配人の辞書に『休憩』の二文字はない。準備が早く終われば終わるほど、あの男のマルチタスクは、さらに恐るべき領域へシフトするんだ・・・・・・」
「え・・・・・・?」
私が戦慄した瞬間、厨房の奥に立つ小丸支配人のゴールドバッジが、シャンデリアの光を浴びてギラリと凶悪に輝いた。
小丸支配人はおもむろに、左脇に抱えていた巨大なラジカセの再生ボタンを、分厚い親指でガチコンと力任せに押し込んだ。そこから流れ出してきたのは、先ほどの三倍速の和太鼓を、さらに一・五倍速で限界突破させたような、鼓膜が引き裂かれそうな超・超高速の爆音BGMだった。
そして、耳元のインカムのスイッチをパチンと押し、至って無表情のまま、ただ一言ボソリとこう呟いたのだ。
「ナメ」
たったそれだけだった。
しかし、その短く鋭い一言は、インカムの向こうのお土産売り場やフロント、指示を受けたこの厨房の先輩たち全員の脳内へ、恐るべき正確さで同期された。
彼らにはその「ナメ」の一言だけで、『一時間余ったから、今から15時まで、夜の宴会用の仕込みをすべて前倒しで終わらせるぞ』という複雑で膨大な業務命令が完璧に伝わり、意思疎通が完了していたのだ。
その瞬間、厨房の空気が、爆発するかのように激しく破裂した。
「ウオオオオオオオッ!!」
先輩たちの肉体が、再び残像を残しながらマッハの速度で動き出した。
15時のオープンに向けて完璧に仕上がっていたはずの美しい厨房が、一瞬にして超高速の「夜の仕込み戦場」へと変貌する。
ベテランの先輩は、両手に一本ずつ包丁を握りしめ、二本の包丁を同時に一・五倍速で上下させて、すでに終わっていたはずのキャベツの千切りを、さらに細かく「みじん切り」へと粉砕し始めた。まな板が爆音で悲鳴を上げる。
中堅の先輩にいたっては、目にも留らぬ速度で両手を動かし、右手で巨大な中華鍋をプロペラのように回転させながら、左手で同時に4つのガスコンロの火力を秒単位で調整し、大量の夜用スープをマッハの速度で沸騰させている。
彼らの能力は人間レベルを超越していた。
仕上がったばかりの清潔な床には、食材の破片どこるか一滴の水すらも絶対に落ちない。それどころか、刻まれた食材や火の通った料理が、吸い込まれるような正確さで次々と美しい器やタッパーへと収まっていく。厨房内は異常な熱気と蒸気に満ち溢れているというのに、寸分の無駄も汚れもない。
普通の人間なら深夜までかかるはずのすべての夜間業務が、完璧な美しさと超高速の嵐となって、目の前で同時進行していくのだ。
そんな超常的なパニック空間のなかで、通常速度(一倍速)の山田こと私だけが、前髪を激しい風圧になびかせながらポツンと置いてけぼりにされていた。先輩たちがマッハの速度で横をすり抜けていくたびに、危うく吹き飛ばされそうになる。
いつの間にか私の真後ろに移動していた小丸支配人が、耳元のインカムのスイッチを再びパチンと押し、トカゲのような鋭い目で私をじろりと脱みつけながら、短くこう呟いた。
「ナメ」
その無慈悲な一言だけで、私には『山田さん、ボーッと突っ立ってないで、一・五倍速で皿を回せ』という明確な殺意に近い命令が、脳内にダイレクトに響き渡るのだった。




