第六章:絶対権力者の歪んだ所信表明(支 配人挨拶編)
床に転がったマジックペンには目もくれず、大量のキャベツの箱を抱えたまま、支配人・小丸さんはじろりと私たちを見渡した。
フロントロビーのシャンデリアの光を浴びて、胸元のゴールドバッジがギラリと輝く。
お店ではあんなに煙たがられているクソジジイなのに、なぜだろう。今、この男から放たれているプレッシャーは、さながら中世の暴君のそれだった。
小丸支配人はおもむろに、左脇に抱えていた巨大なラジカセの再生ボタンを、分厚い親指でガチコンと力任せに押し込んだ。
そこから大音量で流れ出してきたのは、お祭りの「炭坑節」を三倍速にしたような、脳がバグを起こしそうな超高速の和太鼓の爆音だった。ロビーの空気がその音圧で激しく震える。
古参の先輩たちが恐怖で直立不動のまま冷や汗を流し、私とものかさんが完全に気圧されていたその時、小丸支配人がゆっくりと口を開いた。
「ナメッ」
短く、鋭く放たれたその一言と同時に、小丸支配人はラジカセの停止ボタンをバチンと叩いた。
あれだけ爆音で鳴り響いていた三倍速の和太鼓が、一瞬でピタッと止まる。きらびやかなフロントロビーは、耳が痛くなるほどの完全な静寂に包まれた。
人が風邪を引く理由は、目に見えないウイルスが体内に侵入するからだ。
だが、このクソジジイが放った「ナメッ」という短く鋭い音波には、地球上のどんな凶悪なウイルスをも遥かに凌駕する、恐るべき感染力と破壊力が秘められていた。
ゴクリ、と誰かが唾を飲み込む音が聞こえた瞬間、フロントロビーの空気が激変した。
「・・・・・・ッ!!」
お守りを奪われ、イワシの頭を失って完全に戦意喪失していたはずの古参の先輩たちの目が、一斉にガタガタと音を立てて激しく震え出した。いや、震えているのではない。あまりの超高速駆動に、肉体がブレて残像が見えているのだ。
小丸支配人の発した言葉によって脳細胞を完全に汚染され、強制的に肉体のリミッターを解除された先輩たちは、人間レベルを超越した。
次の瞬間、目にも留らぬマルチタスクのバケモノへと覚醒した古参たちは、フロントの床を爆音で踏み鳴らし、もの凄い速度で一斉に動き出した。
ここはお店とは全く違う、見知らぬ旅館のレイアウトだ。しかし、今の先輩たちにはそんなこと一切関係なかった。彼らは本能的に自分の役割を察知し、それぞれの持ち場へとマッハの速度で突撃していった。
お土産を売る担当の先輩たちは、残像を残しながら一瞬でお土産売り場へと爆走し、厨房の先輩たちは怒涛のステップで厨房の鉄扉の奥へと飛び込み、レジ担当の先輩たちはフロントカウンターの裏へと滑り込んでいく。
隣を見れば、同期のものかさんすらも、自らの頭を抱えながら恐怖と興奮で完全に白目を剥き、何やら「一・五倍速のブツブツ」を呟きながら、もの凄い速さでノートに文字を書き殴り、自分の役割のポジションへと突っ走っていった。彼女もまた、このバイオハザードの狂気の波に完璧に呑み込まれ、別の意味で覚醒していた。
•・・・・・え?ちょっと待って。
気がつけば、このきらびやかなロビーのド真ん中で、ただ一人、完全に「置いてけぼり」になっている人間がいた。
私だった。
ウイルスを食らったはずなのに、私の肉体にはーミリの覚醒も、一・五倍速の兆候も現れなかった。社歴が浅すぎてクソジジイへの免疫が強すぎたのか、それともただ単に私のスペックが普通すぎるのか、私は完全なる通常速度(一倍速)のまま、ポツンとその場に立ち尽くしていた。
誰も彼もが人間レベルを超越した超高速ディストピアの世界へ行ってしまったというのに、私だけが、ただの「お茶を飲んでのんびりしていた新人の私」のまま、異次元のバケモノたちの巣窟に一人取り残されていた。
嵐のような風圧のなか、私は深くため息をついた。
もう、どうにでもなれだ。周りがどれだけマッハの速度でバグっていようが、私にできることなんて何一つ変わりはしない。
私は諦めて前を向うと、先輩たちの残像を追いかけるようにして、自分がメインの担当場所である「厨房」に向かって、いつも通りの、のそのそとした通常速度で歩き始めた。
全員がそれぞれの役割の場所に就き、完全なる地獄の体制が整った。通常速度のまま自分の担当場所の前にたどり着いた私は、そこでようやく、この『マルチタスク・バイオハザード』の本当の恐怖を身をもって知ることになる。




