さあて、逃亡できたかな?
確実にこちらへ近づいてくるその足音に、壁にピタリと貼り付いたベテランの先輩の額から、一筋の汗が静かに流れ落ちた。しかし、誰一人として動かない。完璧に壁の一部になりきっている。
薄暗い通路の曲がり角から、ぬっと影が現れた。
小丸さんだった。
ゆっくりとした、しかし有無を言わせない足取りで、小丸さんはグレーの廊下を歩いてくる。その両手には、なぜか信じられないほど大量の荷物が抱えられていた。
右脇には業務用の超特大キャベツの箱を3つ積み上げ、左手にはなぜか巨大なラジカセを抱え、口には太いマジックペンをくわえている。まさに、歩くマルチタスクの化身。
小丸さんは、先輩たちが擬態している「壁」の真ん前で、ピタッと足を止めた。
正面から見つめられているはずの先輩たちは、必死に呼吸を止め、目を細めて石像のように硬直している。
さあて、逃亡できたかな?
私の脳裏に、そんな呑気な疑問が浮かんだ次の瞬間だった。
じっと壁を見つめていた小丸さんが、口にくわえていたマジックペンを「ペッ」と器用に床へ吐き出した。固定されていた視線が、一ミリの迷いもなく先輩たちへと向けられる。
「ミナサン、服の色、壁と一緒ナメね!でも、お守りと、イワシの頭の生臭いニオイで、どこにいるか丸分かりナメ!」
・・・・・・・あ。
そういえば、先輩たちはパーキングエリアのベンチにそれらを置いてきたはずだった。しかし、あまりの恐怖のせいで、先輩たちの体やスウェットには、あの強烈なイワシの生臭いニオイがベっとりと染み付いたままだったのだ。視覚を完璧に欺いても、嗅覚まではカモフラージュできていなかった。
その事実を突きつけられた瞬間、古参の先輩たちの目から、完全に光が消え去った。
「・・・・・・ここでもう、諦めます」
ベテランの先輩が、カサカサに乾いた声でそう呟き、グレーの壁から力なく剥がれ落ちた。
ネットで特注したトタン色のスウェットの袖で、静かに涙を拭っている。
「そうね・・・・・・。これだけやってもダメなら、もう何をやっても無駄だわ・・・・・・・」
プチトマトの先輩も、力なく首をうなだれて通路の奥へ歩き出した。
親の命をローテーションさせ、温泉より歯石取りに命を懸け、プチトマトを人質に取り、パーキングエリアのゴミ箱の裏にまで潜伏した、彼らの長く壮絶なバックレ戦争が、今ここに完全な敗北で幕を閉じたのだ。
重い荷物を抱えたまま、小丸さんは感情の読めない無表情の顔で、ボソリと呟いた。
「旅行ではないナメ」
その一言が響いた瞬間、バックヤードの重い鉄扉が自動でロックされる音が冷酷に響き渡った。
同期のものかさんは「完璧な擬態を『臭い』という原始的な伏線で破り、最後はたった一言で絶望の底に突き落とす!敵ながらあっぱれな演出です!」と狂喜乱舞してペンを走らせている。
私はといえば、「えっ、旅行ですよね?旅行じゃないの!?完全に騙された!」と、ここでようやく、自分が無知な羊として地獄の出張労働に連れてこられた事実を理解したのだった。
もう二度と止まることのない頭の中のドナドナのメロディは、いつの間にかー・五倍速のテンポへと跳ね上がっていた。




