第二章:一週間前の疑心暗鬼(店長敬語修 正版)
旅行の一週間前になると、厨房の空気は「疑心暗鬼」のピークに達した。全員の挙動が、あからさまに不穏満載になったのだ。
「ゴホゴホ!......あー、なんか急に喉が痛いな。来週まで持つかな・・・・・・・」
中堅の先輩が、わざとらしく店長に聞こえるような声で体調不良の伏線を仕込み始める。
「ウッ!腰が・・・・・・!来週のバス移動、俺は無理かもしれない・・・・・・.」
大した重さでもないキャベツの箱を抱えて、大げさに崩れ落ちるベテランの先輩もいた。するとすかさず、先ほどの中堅の先輩が鋭いツッコミを入れる。
「ずるいですよ先輩!昨日の草野球でサヨナラヒットを打って激走していらっしゃったじゃないですか!」
「うるさい! あれは奇跡の一歩だ!診断書ならもう手配してある!」
「どこで手に入れたんですか、その闇の診断書は!」
誰もが「自分だけは合法的にバックレたい」と必死だった。仮病のクオリティを競い合うその姿は、まるで一流の詐欺師集団のようだった。
だが、バックレ戦争の泥沼化はこんなものでは終わらなかった。
その日の夕方、ついに一人の古参の先輩が、震える手で店長に一枚のメモを差し出した。そこには驚くべき文言が躍っていた。
『一週間後、実父が危篤になります』
・・・・・・なります?
未来形?予言だろうか。
さすがに耳を疑った。店長が「おい、これどういうことですか?」と詰め寄ると、その先輩は涙目で、しかし一切のブレない声でこう言い放ったのだ。
「うちの親父は、そういう男なんです!昔から予定通りに体調を崩すんです!来週の旅行の初日、間違いなく山場を迎えます!」
そこに、メモをじっと見つめていた店長が、すんっとした真顔で冷酷な一言を放った。
「・・・・・・ちなみに。去年はまったく同じタイミングで、お母様が危篤になっていらっしゃいませんでしたか?」
「ギクゥッ!!」
先輩の肩が、漫画のように大きく跳ね上がった。
「あ、いや・・・・・・それは、ローテーションと言いますか・・・・・・・今年は親父の番でして・・・・・」
「先輩のご両親は、社員旅行の日に合わせて体調が悪くなられるんですか?」
中堅の先輩の、感情の消え失せた冷ややかなツッコミが厨房にこだまする。
すると、そのやり取りを後ろで見ていた別の先輩が、今度は真剣な面持ちで店長ににじり寄った。
「店長。親の命をダシにするなんて不謹慎な真似、僕には到底できません。ですが・・・・・僕も来週はどうしても外せない先約がありまして、旅行を辞退させてください」
「ほう、先約とは?」
店長が眉をひそめると、先輩はスケジュール帳を厳かに開き、まるで国家機密を明かすかのような重々しい口調で告げた。
「・・・・・・歯医者さんの、定期検診日なんです」
厨房が一瞬、シンと静まり返った。店長が額を押さえる。
「それ、予約の変更をお願いしてもいいですか?」
「嫌です!三ヶ月前から楽しみにしていたんです!
歯石を取ってもらうのを!」
「温泉旅行より歯石取りを優先しようとしないでください!」
中堅の先輩の、魂の底からの叫びのようなツッコミがまたしても炸裂した。
さらに地獄へのカウントダウンは止まらない。今度は別の先輩が、悲痛な表情で頭を抱えながら駄々をこね始めた。
「店長!私はどうしても来週、家を空けるわけにはいかないんです!泊まりの旅行なんて行ったら、ベランダのガーデニングにお水やりができないじゃないですか!」
そのあまりにも身勝手な主張に、店長の手が止まる。
「それ、出かける前にたっぷりお水をあげるか、自動の給水器とかを使えば解決するんじゃないですか?」
「嫌です!私の手で朝と夕方、優しく声をかけながらお水をあげないと、プチトマトがヘソを曲げて枯れてしまうんです!私のプチトマトが死んでもいいんですか!」
「小丸さんから逃げるためにプチトマトを人質に取らないでください!」
中堅の先輩のツッコミのボルテージは、もう限界突破寸前だった。
親の命をローテーションさせ、温泉より歯石取りに命を懸け、プチトマトを人質に取って立てこもる。
そんな先輩たちの凄まじい執念に、私は恐怖すら覚えた。ぶっちゃけ、全員いい大人のくせに見苦しすぎる。タダで温泉に行けて、タダ飯が食えるのに、なぜそこまでして拒否するのか、この時の私にはまったく理解できなかった。これから始まる本当の地獄を、私はまだ何も知らなかったのだ。
一週間前にして、厨房の空気は完全に張り詰めていた。すべての悪あがきを冷酷に却下された古参たちは、もはや言葉を失い、ただただ静かに絶望のカウントダウンを刻み始めていた。




