豚トントンは終わらない
「トントントントン・・・・・・豚トントン、ナメ」
厨房に、あの男の妙に耳に残るハスキーな声と、キャベツを刻む規則的な音が響いていた。
ろくでもないクソジジイーー小丸さんだ。
小丸さんはまな板の上にキャベツをセットし、いつものように包丁を振り下ろした。
ガシャーン。
と、無残に響き渡る破壊音。
キャベツは綺麗な千切りになっていたが、その下のまな板まで一緒に真っ二つに切れていた。
私は思わずため息をついた。
「キャベツは切れてますけど、まな板まで切れてるじゃないですか、小丸さん。これじゃ仕込みが進みませんよ」
すると小丸さんは「まな板、やめるナメ」と短く呟き、キャベツをまるごと一玉、天井に向かってフワリと放り投げた。
落ちてくるキャベツに向けて、その包丁を構える。
「トントントントン豚トントン、ナメ!」
空中で閃く刃。一瞬にしてキャベツは極細の千切りとなって宙を舞う。
私は、その神業のような光景に少し感心した。
しかし次の瞬間、千切りキャベツが調理台に着地したとき、ピタッとすべての千切りが寸分の狂いもなく噛み合い、一瞬で元の丸いキャベツに元通りになってしまった。傷一つついていない。
私は呆れて呟いた。
「それでは今までの小丸さんの苦労が、すべてゼロになってしまいますよ。一枚も切れていません。これでは今日の仕込みはどうするんですか」すると、調理台の上で真っ二つに割れていたあのまな板が、不気味にカタカタと震え出した。
毎日八つ裂きにされてきたまな板が、『絶対に小丸にキャベツを切らせない』という執念の呪い、すなわち、まな板の復讐を発動させていたのだ。空中でどれだけ綺麗に切ろうが関係ない。まな板の怨念が、落ちてきたキャベツの傷をすべて瞬時に治してしまう。
私は言った。
「まな板と意思疎通しないでください、小丸さん。
復讐されているんですよ、あなたは。これでは仕込みが一生終わりませんよ」
•・・・・・はい、おしまい。
私は厨房の床に座り込み、からからになった喉で紙芝居をパタンと閉じた。
勤務時間中だというのに、なぜ私がこんな不条理な物語を淡々と音読させられているのだろうか。
厨房の社員であるものかさんは、腕を組んだまま、冷ややかな目で私と紙芝居を見下ろしていた。
そりゃそうだ。小丸さんが書いた、私の名前まで勝手に登場させた狂った物語をいきなり聞かされたのだから。ものかさんは一応、小説家志望の文学肌なのだ。変な英才教育を施さないでほしい。
すると、私の背後から小丸さんがヌッと顔を出した。
ものかさんに向かって、短く言い放つ。
「どやナメ」
ものかさんはため息をひとつ。そして、私が持っている紙芝居の表紙を冷たく指さした。
「即没」
「チェッ、ナメ」
小丸さんは悪びれる様子もなく、内股のまま厨房の奥へ去っていった。
残された私とものかさんは、調理台の上にある、1ミリも切れていない丸ごとのキャベツと、傷一つない綺麗なまな板を見つめ合った。当然だ。小丸さんはただのホラ吹きで、現実のまな板は最初から何一つ切れてなどいない。
「山田君、今日の仕込み、全部やり直しね」「ああ、悪夢だわ・・・・・」
厨房に、またいつも通りの気怠い日常が戻ってきた。
それから数日後の、よく晴れた休日のこと。
買い出しのついでに駅前の公園を通りかかったとき、奇妙な人だかりを見つけた。
子供から大人まで、何事かと身を乗り出して一点を見つめている。
その中心から、拍子木の代わりに、なぜか包丁とまな板をトントンと打ち鳴らす、あの聞き覚えのあるリズムが響いてきた。
「普通に切ったら、キャベツもまな板も切れたナメ。だから天井に投げたら、空中だとバラバラナメ。でも下に落ちると元通りナメ。これ、まな板の呪いナメ」
人だかりの隙間から見えたのは、あの小丸さんだった。
店であれだけ冷たく「即没」にされたというのに、このジジイ、まさか公園で街頭紙芝居を始めていたのだ。しかもあの下手くそな日本語で。
「ふふっ・・・・・・何それ、意味わかんない」「キャベツもまな板も切れたって、ウケる」
見物客の子供たちが小さく笑っている。
小丸さんは、集まった見物客が置いておいた缶の中に、チャリンと小銭が放り込まれるのを見て、ニヤリと笑う。
「どやナメ」
誰も聞いていないのに、小丸さんは空に向かってそう呟き、また次のぶ厚い紙をめくった。
ーと、その瞬間だった。
「はいそこまで。公園での無許可の興行は禁止です」
人だかりを割って突入してきたのは、腕章を巻いた保健所の職員と、数人の警察官だった。
勝手にお騒がせな人だかりを作っていたクソジジイを、誰かが通報したらしい。もちろん、保健所への申請なんてこのジジイがしているはずもなかった。
「やべえナメ」
小丸さんは紙芝居を放り出し、内股のまま小走りで逃げようとしたが、一瞬で警察官たちにガシッと両脇を固められた。
「これ、純文学ナメ。逮捕、横暴ナメ」
「いいから来なさい」
「チェッ、ナメ」と力なく叫びながら、両脇を抱えられてズルズルと連行されていく小丸さん。
パトカーに押し込まれるその瞬間まで、左手の離婚指輪だけが、夕日に照らされて無駄にキラキラと輝いていた。
遠ざかるサイレンの音を聞きながら、私たちはただ呆然と立ち尽くしていた。
さようなら、小丸さん。
君の「豚トントン」の悪夢は、留置所の天井で一生やってくれ。
ーそして、次の日。
ガララ、と厨房の勝手口が開いた。
「おはよナメ」
いつも通りの、あの下手くそな日本語だった。
私と、社員のものかさんは、持っていたお玉とバインダーを同時に床に落とした。
そこにいたのは、昨日パトカーで連行されていったはずの、あの小丸さんだった。
なぜここにいる。保釈金はどうした。そもそも一日で釈放されるわけがない。まさか脱獄してきたのか。
すべての疑問を完全に無視して、小丸さんはいつものように内股で、おもむろにあの包丁を握り締めた。
底冷えするような静けさの中、まな板の上にキャベツをセットする。
「トントントントン・・・・・・・豚トントン、ナメ」
厨房に響き渡る、規則的なリズム。
もちろん、まな板は割れない。キャベツもまだ丸ごとのままだ。
「またやべえナメ」
小丸さんは悪びれる様子もなく、ただボソリとそう呟いた。
私とものかさんは、顔を見合わせて深くため息をつ
やっぱり、このクソジジイの悪夢からは、一生逃れられそうにない。




