背中の大一番、湿布将棋版の戦い
あのハゲ未練アザの事件から数日が経った、ある日のこと。
観光地のお土産屋さん兼食堂「おいしいよ」の厨房は、文字通りの「地獄」と化していた。
お昼のピークを過ぎたとはいえ、コンロやフライヤ一の熱気が室内に容赦なくこもり、業務用エアコンが完全に悲鳴を上げている。室温は軽く三十五度を超えているのではないか。立っているだけで、全身から汗が滝のように吹き出してくる。
「トントントントン豚トントン、ナメ」そんな熱地獄の環境下でも、小丸さんは相変わらず内股のまま、仕込みのキャベツを刻んでいた。だが、いくらマイペースなクソジジイとはいえ、この異常な暑さには耐えかねたらしい。
小丸さんはピタッとキャベツを刻む手を止めると、ボロボロのエプロンを外し、「・・・・・・・あつい、ナメ」
とボソッと呟きながら、白衣の前ボタンをブチブチと乱暴に外し始めた。
(え、ちょっと、何する気・・・・・・!?)
私が唖然と見守る中、小丸さんは汗で張り付いた白衣をガバッと豪快に脱ぎ捨てようと、その肩をはだけさせ始めた。
(おい嘘だろ、職場で急に脱ぎ出すなよ!こんなクソジジイの裸なんて誰が見たいか!!!)
私の中の「理性の壁」が、猛烈な拒絶反応を起こして全力で絶叫した。一刻も早く目を逸らそうとした、まさにその瞬間。
隣で黙々とフライヤーを掃除していたベテラン調理師の鈴木さんが、「ぶふっ!!」と盛大に吹き出した。
「ちょ・・・・・・、おい小丸さん!なんだよその背中!!」
向こうの洗い場で皿を洗っていた佐藤さんも、手元を完全に止めて小丸さんの背中を二度見し、そのまま「嘘でしょ・・・・・・・」と頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。
不審に思った私も、白衣を完全に脱ぎ捨てて、ついに上半身裸になったクソジジイの、広く丸まった生々しい背中を恐る恐る覗き込んだ。そして、次の瞬間。あまりの衝撃に、私の腹筋が崩壊の危機を迎えた。
小丸さんの背中には、肌の隙間がこれっぽっちも見えないほど、何十枚もの四角い湿布がびっしりとパズルのように敷き詰められていた。
それだけなら「腰が悪いんだな」で済む。だが、違った。
その隙間なく貼られた湿布の一枚一枚に、太い黒のマジックペンで、堂々と将棋の駒の名前が書き込まれていたのだ。しかもそれは、初期配置ではない。
完全に対局中の並びだった。
(・・待って。駒の並びがおかしい。これ、対局中じゃん・・・・・・!)
自分で見えないはずの背中で、一体いつ、誰と将棋を指したというのか。そして、なぜよりによって「あと一手で完全に負ける大敗北の盤面」を背負って堂々と出勤してきたのか。
(いや、これ完全に詰んでるな)
小丸さんの背中をじっと凝視しながら、私は心の中で確信した。
あのおじさんは天才棋士でも何でもないのだ。ここから奇跡の大逆転の一手を繰り出せるはずがない。
ただただ順当に、ド素人並みの実力で無残にボコボコにされ、完全に逃げ道を失った大敗北の図面が、そこには悲しく広がっていた。
「見たいか!」と全力で拒否したはずのクソジジイの裸だったが、あまりの盤面のおかしさに、私は不覚にも目が離せなくなっていた。
厨房の大人たちを大爆笑とドン引きの渦に巻き込んだクソジジイは、背中の詰みきった『王将』を厨房の蛍光灯に光らせながら、ボソッと呟いた。
「これ・・・・・・・まけてる、ナメ・・・・・・」
「「「知ってるよ!!!誰に負けたんだよ!!!」」」
私、鈴木さん、佐藤さんのトリプルツッコミが、狭い厨房に大音量で響き渡った。
背中の湿布一面に至るまで「負けが込んでいるオーラ」を完璧に表現してくるクソジジイ。その徹底したマヌケっぷりに、私は笑いすぎてお腹が痛くなっていた。
小丸さんは、全員の猛ツッコミを余所に、また何事もなかったかのように「トントントントン豚トントン、ナメ」と上半身裸の格好のまま、平然とキャベツを刻み始めるのだった。




