名探偵にも大泥棒にもなれっこない
【第一章:名探偵編】
それは、あまりにも不可解な事件だった。
定食屋『日の出食堂』のレジ横には、古びた、しかし重厚な『純銀の灰皿』がいつも大切に飾られていた。
それは、去年の冬に亡くなった、この店の最高齢の常連だったじいさんの形見だった。じいさんの自宅では「煙草の匂いが染み付くから」と奥さんに毛嫌いされていた灰皿だ。じいさんが亡くなった後、その奥さんが「うちの人が一番楽しそうに煙草を吸っていたのは、この店の特等席でしたから。ここに置いてやってください」と、遺品整理の際にあえて食堂へ持ってきてくれたものだった。
店主にとっても、じいさんの笑顔が思い出される宝物だ。店を禁煙化してからも、それだけはおじいさんがそこにいる気がして、レジ横にずっと飾ってあった。
しかし、お昼時の一番忙しいピークが過ぎ、店主がふとレジ横に目をやったその瞬間、彼は自分の目を疑った。
「・・・・・ねえ。灰皿が、ねえぞ!?」
そこにあったはずの純銀の灰皿が、忽然と姿を消していたのだ。
店主は激しく動転した。なぜなら、その時間帯に店内にいた客は、店主の頭の中では「まともにお金を払ってくれそうな客」が、わずか三人しかいなかったからだ。
一人は、さっきからずっと試験勉強をしている大学生。
一人は、冷たいお茶をがぶ飲みしている工事現場の作業員。
そして最後の客は、実家からの帰り道でお土産を抱えた、出張帰りとおぼしきスーツ姿の若いサラリーマン。
店主はずっと厨房とレジを行き来しており、不審な部外者が侵入した形跡は一切ない。完全な密室空間での消失だった。
「おい、誰だ!俺の大事な灰皿を盗んだ奴は!」
店主が色めき立ち、三人の客たちが無実の証明を求めて顔を見合わせる。
その時、店の片隅、一番薄暗い席で『他のお客様が残したラーメンのスープ』を勝手にズズズとすすっていた、よれよれのトレンチコートの男が、静かに立ち上がった。
近所に住むクソジジイ、小丸さんである。
たまたま二連休が取れたものの、特にやることもなく暇を持て余した結果、近所の定食屋に客(の残飯あさり)として紛れ込んでいたのだ。
店主は「あ、小丸のじいさん。頼むから他人の残したスープ勝手に飲むのやめて早く帰れよ」と言いかけたが、男は大真面目にコートの襟を立て、いかにも名探偵といった風情で、一本の指を突き出した。
「待てナメ。犯人ナメ、お前ナメ」
日の出食堂の黄色く煤けた天井に、鋭い声が響き渡った。
名探偵小丸さんは、あの若いサラリーマンをビシッと指さす。
「えっ、僕ですか!?何のことですか!」
サラリーマンは怯えたようにガタガタと震え、足元の白い箱をかばうように両手で抱え込んだ。
「しらばっくれるナメ。完全密室ナメ。犯人はお前ナメ」
名探偵小丸さんは、わざわざ自分の腕時計の秒針をじっと見つめ、タイムリミットが迫っているかのような演出をしながら、名探偵さながらのロジックを展開し始めた。
「純銀ナメ、熱伝えやすいナメ。純銀の灰皿ナメ、ポケットに入れるナメ、体温と温度差ナメ、結露ナメ、服がビショビショナメ、泥棒だと一発でバレるナメ。防ぐ方法が一つナメ。こいつナメ、寒くないナメ、熱いお茶を飲むナメ、湯呑みを持っていたナメ?」
「な、何の話ですか!僕はさっきから冷たいお茶をがぶ飲みしているだけで、熱いお茶なんて頼んでませんよ!」
若いサラリーマンは、心底わけがわからないという風に顔を青くした。
「おい、小丸のじいさん」と店主が呆れた顔で割って入る。
「熱いお茶を両手で包み込んでがぶ飲みしてたのは、そっちの工事現場の作業員さんだよ。そのサラリーマンの兄ちゃんが飲んでるのは、最初から冷たいウーロン茶だ」
しかし、店主が「あ、あ、確かに・・・・・・」と息を呑む。
「こいつナメ。熱いお茶ナメ。自分の手の温度ナメ、限界まで上げたナメ、結露ナメ、防いだんだナメ!断熱性の高い発泡スチロールナメ、中に灰皿を隠したんだナメ!箱の表面ナメ、冷えているナメ、冷たい純銀ナメ、証拠だナメ!」
完璧なロジックだった。サラリーマンの顔からは完全に血の気が引き、絶望したようにガタガタと震えが激しくなる。食堂内にいる全員が「この小丸というじいさん、言葉遣いは変だが、本物の天才探偵か・・・・・・!?」と息を呑んだ。
「さあ、証拠物件ナメ、押収だナメ!」名探偵小丸さんは素早く踏み出すと、サラリーマンが「やめてくれ!」と叫ぶのも無視して、テーブルにあった割り箸の尖った先をガムテープの隙間に突っ込んだ。バリバリバリッ!と強烈な音を立てて、厳重な密閉を力任せに引き剥がす。
「これで終わりだーーっナメ!」
勝ち誇った名探偵小丸さんが、発泡スチロールのフ夕を勢いよくぶち開けた。
その瞬間、冷気で大人しくなっていたものの、急に光を浴びてパニックを起こした数十匹の生きたサワガニが、箱の中からガサガサガサッと一斉に溢れ出してきた。
「ぎゃあああああナメ!!」
最初に悲鳴をあげたのは、他ならぬ名探偵小丸さんだった。
激昂したサワガニの鋭いハサミが、フタを開けた小丸さんの指先、そして踏み出していたズボンの裾から侵入し、すねを容赦なくブスリと挟み込んだのだ。
「痛いナメ!痛い痛い痛いナメ!」
名探偵小丸さんは涙目で激しくダンスを踊るようにのたうち回った。
「何するんですか!」サラリーマンが怒鳴り散らした。
「それ、実家の母ちゃんが『東京に戻ったらすぐ唐揚げにして食べなさい』って、わざわざ生きたまま密閉して持たせてくれたサワガニですよ!匂いが衣服にうつらないように、母ちゃんがガムテープでぐるぐる巻きにしてくれたのに、何てことするんだ!僕がさっきから震えてたのは、あんたが怖かったんじゃなくて、カニが逃げ出さないかハラハラしてたからだよ!」
店主も慌てて床を這い回り、逃げ惑うカニを拾いながら叫んだ。
「あ!ごめん!探してた純銀の灰皿、この前店を禁煙にした時に、すでに奥の棚の特等席に片付けたんだったわ!」
「.・・・・・・え、ナメ?」
名探偵小丸さんが、カニを鼻に挟まれたまま固ま
る。
「お前、お客様の大事なお土産ぶっ壊して店の中めちゃくちゃにしがって!営業妨害だ、出て行け!」
激怒した店主とサラリーマン、転がり出た数匹のサワガニに全身をボコボコに挟まれた名探偵小丸さんは、悲鳴をあげながら、夜の街へと文字通り叩き出されるのだった。
第二章:怪盗紳士編
「探偵などという受動的な存在は私の美学に反するナメ。私は今日から、夜の闇を支配する怪盗紳士ナメ」
連休の二日目。
小丸さんは前日の大失態などどこ吹く風で、黒いマント(に見立てたボロい防寒シート)を羽織り、闇夜に向かって不敵に微笑んでいた。目的はただーつ。『日の出食堂』の店主に、己の洗練された知略の恐ろしさを思い知らせることだ。
小丸さんは昼間のうちに、達筆な文字で書いた予告状を食堂のポストへ投函しておいた。
『今夜25時、貴殿の至宝(秘伝のタレの壺)をいた
だきに参上する。一一怪盗Lよりナメ』ジジイの脳内では、完璧なシミュレーションが出来上がっていた。
「フッ、今頃あの店主は震え上がり、警察に通報して勝手口に厳重な罠を張っているはずだナメ。警察は私が『裏口』から来ると踏んで、そこに戦力を集中させるナメ。だからこそ、私はあえて正面のシャッターのわずかな隙間から滑り込むナメ。これぞ怪盗の、裏の裏をかく心理戦よナメ!」
気配を消すため、全身に冷感湿布を貼って体表面の温度を限界まで下げた小丸さんは、深夜25時きっかりに、計算通り正面シャッターのわずかな隙間から、這いつくばってスマートに店内へと滑り込んだ。
「チェックメイトだナメ、店主殿・・・・・・」暗闇の中、完全犯罪の勝利を確信して一歩踏み出し、裏口の方向へ向かったその瞬間だった。
ドン。パラパラパラガラガラガッシャアアアアアン!!!
「ぶふえっナメ!?」
小丸さんの華麗な潜入は、一瞬にして暗闇の爆発音へと変わった。
彼が暗闇の中で踏み込んだ裏口のドアのすぐ裏には、罠でも何でもない、ただの天井まで高く積み上げられた「翌朝使う大量のタマネギが入った段ボール箱」がそびえ立っていた。
ドアがわずかに押し開けられたことで、そのズボラなタマネギのピラミッドが一気に崩壊。小丸さんは悲鳴をあげる暇もなく、数十キロのタマネギの箱の雪崩に頭から直撃され、床へ無残に押し潰された。
「うわあああ!泥棒か!?」
2階からドタドタと、木刀を構えたパンツー丁の店主が飛び降りてきて、店内の明かりをパチリと点けた。
光の下でタマネギの箱の下敷きになり、「痛いナ
メ、動けないナメ・・・・・・」と涙目で問いている小丸さんを見て、店主は呆れ果てて木刀を下げた。
小丸さん「お、俺の予告状を見たナメ?裏口に罠を張っていたんじゃないのかナメ?(※噛んだ)」店主「あ?予告状?.....あー、なんかポストに薄汚いチラシが入ってたから、読まずにそのままゴミ箱に捨てたわ。それよりお前、明日使うタマネギ片付けるのめんどくさくてここに積んどいたのに、何してくれてんだよ!汚ねえな不審者が!」店主は予告状の存在すら知らず、ただのズボラでタマネギを放置していただけだった。小丸さんが連休の暇つぶしに他人の店で勝手な深読みをして自爆したという、救いようのない結末だった。
「夜中に不法侵入してタマネギ泥棒とはいい度胸だ!二度と来るな!」
激怒した店主に木刀で何度も尻を叩かれ、小丸さんはタマネギの皮を頭にくっかけたまま、夜の街へと泣きながら逃げ帰るのだった。
【最終章:名探偵と怪盗の呪い】
さらに次の日の朝。
連休が終わり、自分の勤め先である厨房の勝手口から入ってきた小丸さんを見て、同僚である私こと山田は思わず息を呑んだ。
いつもなら、鼻を噛む時に新聞紙を使うせいで、鼻の頭がうっすらとインクで黒くなっているのがこのクソジジイのトレードマークだ。
しかし今日ばかりは違った。鼻の頭はもちろん、おでこ、顎、指先、首筋に至るまで、ありとあらゆる場所にこれでもかと絆創膏が貼られている。まるで激しい戦場から命からがら生還してきたかのようだった。
私は、お世辞にも空気が読めるタイプではない。だから思ったままをストレートに聞いた。
「小丸さん、どうしたんですかその傷。連休中にどっかで激しい喧嘩でもしてきたんですか?」
すると小丸さんは、絆創膏だらけの顔で不敵にフッと笑い、こう言ったのだ。
「名探偵と怪盗の呪いナメ」
訳のわからないことを大真面目に言い残すと、小丸さんはいつも通りまな板の前に立ち、包丁を握った。配置につくと、何事もなかったかのようにキャベツを刻み始める。
「トントントントン豚トントン・・・・・トントントントン豚トントンナメ・・・・・」
リズムよく響く包丁の音と、その不気味な呟き。
クソジジイのちょっとした連休が終わり、私たちの厨房にはいつものこと。小丸さんがいることで夢にまで出そうな悪夢の日常が戻ってくるのだった。




