小丸よねの、アンドロメダ
お盆休み直前の『おいしいよ』の厨房は、地獄のような忙しさと室温39度超えの熱気で、スタッフ全員の精神が崩壊しかけていた。
あまりの暑さに、小丸さんはついに、白衣のボタンを上からみっつ、豪快にぶち外した。
「ちょっと小丸さん、流石にだらしないですよ」私が注意しようと彼の胸元に目を向けた、その瞬間。私の口から「ヒッ・・・・」と、カエルの潰れたような悲鳴が漏れた。
はだけた白衣の奥。そこには、ただの不潔なオヤジの胸毛が広がっている・・・・・・わけではなかった。
小丸さんの濃い胸毛は、なぜか中央に向かって、時計回りに綺麗な『渦巻き状』にセッティングされていたのだ。よく見れば、毛並みの一本一本が、丁寧にジェルか何かで整えられている。
「・・・・・・え?鳴門の渦潮?」
私が呆然と呟くと、小丸さんはボンド眼鏡をクイッと上げ、自分の胸毛を愛おしそうに撫でながらポツリと言った。
「これ、ぎんがけい、ナメ。中心、ぶらっくほー
る、ナメ」
(一一自分の胸元に独自の世界作り上げてんじゃねえよ!!!!)
(一一何がナメだ、客観的に見たらただのアマゾンのジャングルだろが!!!!)
あまりのスケールの大きさに、隣でキャベツを洗っていた佐藤さんが包丁を落としそうになる。
だが、クソジジイの独創的なボディ・アート(狂気)は、それだけでは終わらなかった。
小丸さんは、その渦巻く胸毛の少し下のあたり、自身の肋骨のあたりを、薄汚れた人差し指でツンツンと突き刺した。
そこには、本当に、ただの、小さくて、なんの変哲もない、薄茶色の『ホクロ』がぽつんとんでいた。
「・・・・・・ちちきゅう、は、ここ、ナメ」
「誰が見たいかアアアアア!!!!!!」
厨房に私の魂からの叫びが響き渡った。
『ぶらっくほーる』だの何だの大見得を切っておいて、最終的に見せられたのが『ジジイの胸の下の小さなホクロ(地球)』。誰の得にもならない、人類史上最も価値のない天体観測。あまりのくだらなさと気持ち悪さに、古株の子株さんは生ゴミのバケツに突っ伏してガタガタと震え、佐藤さんは調理台の上で白目を剥いて完全にフリーズしていた。
まぶたの裏に焼き付いた「胸毛の渦」の残像にうなされながら、私はその夜、逃げるように深い眠りへと落ちていった。
私は、真っ暗な空間のド真ん中に一人で放り出されている夢を見ていた。
静寂の中、遥か彼方から「トントントントン豚トントン・・・・・・」という、地鳴りのような怪音頭がエコーを伴って聞こえてくる。恐怖に震えながら目を凝らすと、その果てから、小丸さんの生首が『カチ・・・・・・カチ・・・・・・』と奥歯を鳴らしながら、猛烈な速度でワープしてきた。
「ひ、ひぎゃあああああ!」
小丸さんの胸毛から放たれた、謎の怪しいエネルギーに包まれ、私は自分の絶叫でガバッと跳ね起きた。時刻は深夜の3時。パジャマは冷や汗でびしょ濡れだった。
翌朝、死ぬほど重い体を引きずって出勤すると、隣の佐藤さんも、古株の子株さんまでもが、目の下にギョッとするほどのクマを作ってゾンビのように突っ立っていた。
「・・・・・・お前も、そこに、行ったか」「・・・・・・はい。吸い込まれました」
互いの悪夢の内容を察し、私たちは無言で涙を流した。
厨房のドアを開れば、今日もあの「こまるよね」の黄ばんだ体操服の胸元で、胸毛の渦が怪しく蠢いている。
現実世界を飛び出し、ついに私たちの睡眠、精神、か弱き世界の秩序まで支配し始めた小丸さんの怪異に、私は本当の意味で、心の底から戦慄するのだった。




