露出された、二つの絶望
観光地のお土産屋さん兼食堂「おいしいよ』に勤めて一ヶ月。新人の私はふと、ある疑問を抱いていた。
厨房の主、小丸さん。周りはあだ名で「金小丸さん」と呼んでいるが、そういえば彼の下の名前は何というのだろう。
気になって店長に「小丸さんの下の名前って何ですか?」と聞いたことがあったが、店長は「え?いや、知らない。契約書には書いてあったと思うけど、見たことないな」と目を逸らした。
ならばと、小丸さんの次に職場で古株だというパートの子株さんにも聞いてみたが、「さあねえ。みんな興味ないから聞いたこともないわ。今までも『小丸さん」で別に困らなかったし、まあ、どうでもいいんじゃない?」とバッサリ切り捨てられた。
(まあ、確かにみんな興味ないし、知らなくても困らないからいっか)
そう思って、私もその疑問をすっかり流していた。
あの熱地獄の午後が来るまでは。
気象庁の記録を塗り替えるような猛暑が日本列島を襲った、ある日の午後。
厨房のエアコンは完全に悲鳴を上げ、生ぬるい風を虚しく吐き出すだけのただの箱と化していた。ラーメンのスープの熱気と、カツ丼を揚げる油の熱風が混ざり合い、厨房内はさながら東南アジアのジャングルか、あるいは地獄の釜底のような有様だった。
だが、どれほど凄まじい天変地異が起きようとも、あの怪異だけはブレなかった。
「トントントントン豚トントン、ナメ」
茹だるような熱気の中でも、内股をゆらゆらと揺らしながら平然とキャベツを刻み続けるクソジジイ。
折れて木工用ボンドで白く固定された眼鏡が、暑さのせいでいつも以上に信じられない角度へと傾いている。
だが、あのクソジジイもこの熱気には限界がきたらしい。
「あつい、ナメ。むしあつい、ナメ」
小丸さんはそう呟くと、包丁を置き、おもむろにボロボロの白衣とエプロンを脱ぎ捨てた。
「ちょっと小丸さん!厨房で裸になるのはーー」
私が慌てて止めようとした言葉は、小丸さんの『インナー』が露わになった瞬間、喉の奥で完全に氷結した。
白衣の下から現れたのは、汗ばんだ生肌ではない。
色あせた紺色の襟に、全体がうっすらと黄色く黄ばんだ白い生地。それは、どう見ても数十年前の学校指定の『体操服』だった。首元は信じられないほどヨレヨレで、なぜかあちこちに昭和の校庭の泥シミが残っている。
(なんで白衣の下にガチの体操服を直穿きしてんだよ!)
脳内の私が、熱地獄の厨房を凍りつかせるほどの勢いで特大の絶叫ツッコミを炸裂させた。上着に対して「直穿き」という謎の言葉を使ってしまうほど、私の脳は限界を迎えていた。
厨房の全員が言葉を失う中、さらなる絶望が走る。
店長も古株の子株さんも知らなかった、正式な契約書にすら眠っていたはずの、そして誰も興味を持っていなかったはずの彼の下の名前が、黄ばんだ体操服の胸元に、マジックでこれ以上ないほど堂々と達筆に書かれていたのだ。
『こまるよね』
......よね?」
私が思わずその文字を口にすると、小丸さんは木工用ボンドで白く固定されたズレた眼鏡をクイッと上げ、誇らしげに語尾を放った。
「マイネーム、よね、ナメ。こまるよね、ナメ」
繋げて呼ぶと、小丸ヨネ(困るよね)。
(お前が存在自体で死ぬほど周りを困らせとんがなアアアアア!!!!!!)
脳内の私が、厨房の天井を粉々に粉砕するほどの勢いで本日二度目の脳内大絶叫を炸裂させた。
知りたくもない最悪のプライバシーを、まさかの黄ばんだ体操服で強制開示された新人の私と、古株の子株さんは、あまりの名前の説得力とカオスさに、ただただ厨房の天井を仰いで白目を剥くしかなかった。
自分自身の存在が、周囲に対するただの「苦情の同意求め(困るよね)」になっていたという驚愕の事実。おでこの日本列島アザ、背中の『昇り流』、足元の生足三色号機、そしてお腹のサイレント・フラフープ。これまで彼が巻き起こしてきたすべての天変地異の理由が、この「小丸よね(困るよね)」というフルネーム一発ですべて綺麗に伏線回収されてしまったのだ。
その場にいた鈴木さんも子株さんも、あまりの「真面目な肩透かし」と名前の圧倒的な破壊力にガクーーーッと膝の力を抜いて、調理台に突っ伏して同時に激しくズッコケた。
調理台に突っ伏したまま、おたまをスープの中にポチャンと落とした鈴木さんは、「アホくさ。もうダメだ、警察呼ぼう?。おい山田くん、これは俺たちの手に負えねえ」と、呆れ果てた笑い声を通り越して本気で顔を真っ青にしていた。
子株さんに至っては、さっきまでの余裕が嘘のように「もう、本当に人騒がせなハゲなんだから!昭和の学校の怪談が化けて出たのよ!」と、クスクス笑いながらもガタガタと震えて皿洗いに戻っていった。
「ノスタルジー、ナメ・・・・・・・」
みんなに遠くから呆れられ、最後は完全に恐怖と混乱のどん底に叩き落としたリアクションに大満足したクソジジイは、また何事もなかったかのように昭和の体操着姿のまま内股を揺らし、「トントントントン豚トントン、ナメ」と、平然とキャベツを刻み始めるのだった。




